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Pathwork in Japan
Pathwork Guide Lecture No. 42 クリスマスの祝福「客観性と主観性」
CHRISTMAS BLESSINGS -- OBJECTIVITY AND SUBJECTIVITY 1996年版 1958年12月19日
神とイエス・キリストの名においてご挨拶申し上げます。親愛なる皆さん、今夜は特別な祝福をお届けします。一年のこの時期、宇宙の王から強い愛のフォース(力)が、あらゆる領域に届けられます。オープンで穏やかな調和がとれている人は誰でも、身体、魂、スピリットを祝福であるこのフォースを受け取ることができます。
しかし、多くの場合、このフォースが魂に浸透するのは非常に困難です。あなたから発せられるものと調和しなければ、その黄金の光線は跳ね返されてしまうに違いありません。憤り、怒り、傷つく度に、あなたはその力に対して自己を閉ざします。殆どの場合、これらの感情は余計なものであり、根拠のないものです。これらの感情がまるで存在しないかのように脇へ押しやるのではなく、むしろ表に出し、自分の何処にその根があり、自分と祝福のフォースの間の壁を何処に作ってしまったのか示すよう神に、キリストに示してもらうように頼むことが治療薬だと皆さんはご存知です。祝福の力は、永続的な効果をもって、皆さんを再生させようと待っています。親愛なる皆さん、それが流れ込むがままにしてください。兄弟姉妹に腹を立てているなら、自分と相手を理解するように努めなさい。自分よりも相手に対して厳しくならないように。残念ながら、いくら頑張ってもそれは起こります。この素晴らしい霊的な滋養にあずかれるよう、愛、理解、許しを深めるよう努めなさい。そうすれば、それはハートと魂の全粒子を満し、そこから全ての不純物を永遠に浄化することができます。
霊界にいる私たちは、このグループに特に満足しています。皆さんの殆どは、真剣に努力をしてきました。皆さんの努力は実を結んでいますが、自らのワークの価値を常に完全に理解できるとは限りません。しかし、皆さんの中では理解し、あるいは理解し始めた人もいます。ほんの少し前まで、怒りや憤りを感じていたような瞬間に、より大きな調和を感じ始めています。そのような感情を抱いたとしても、今では前より強くも、頻繁にも起らないという人も多いでしょう。進歩は直球ではありません。不調和を感じないよう強制しても進歩しませんが、内在する葛藤の根源へ向かうことはできます。それこそが、健全に距離を置く方法であり、愛や兄弟姉妹への理解以外の影響を受けなくなるまで、これは増え続けます。そうすれば、自らの欠点に目をつぶることなく向き合い、最早それがあなたにネガティブな影響を及ぼすことはなくなるでしょう。
私の今夜のメッセージは、この方向で取り組んでこられた皆さんひとりひとりにお伝えしたい。何としても続けてください!最初は困難であっても、前に進んでください!良きフォース、キリストの強い黄金の光は、このフォースが宇宙で最も強くなる特別な季節だけでなく、常により一層、皆さんを満たすのです。ゴールに到達するまで、皆さんを祝福しようと待っているものを受け入れられるよう、自らの不調和を見破る努力を続けてください。心から努力すれば、大きな助けを受け取れるでしょう。
霊界にいる皆さんの愛する人々の多くが、今夜ここへの道を見つけています。彼らはここに導かれたのです。彼らは耳を傾け、見ています。親愛なる皆さん、皆さんも耳を傾けることはできますが、このような機会にスピリット達が見ることを許されているものを見ることはできません。このレクチャーの間、この力(フォース)はコミュニケーションを確立する領域を構築します。スピリット達は、黄金の光と美、見たこともないような輝きの調和を見ます。これは神の世界からのクリスマスの贈り物です。スピリットの見方とその視野の意義は、人間のものとは異なります。美しい風景や美しく見えるものを見た時、それを注視するのは素晴らしいかもしれませんが、それはあなたの人格、マインドの状態、内なる平和や調和とは関係がありません。ところが、スピリットが美しさを見ると、それが世界であり、存在の状態であり、この教えに従って生きればそれは自らのものになると気づきます。そのような世界がここにあり、皆さんの周り、皆さんの中にあると心に描き、想像してみてください。霊的な世界では、聞くものを見ることができ、見るものを聞くことができるのです。
親愛なる皆さん、イエス・キリストは自ら自由に選んだ運命を十分に知って、十字架の上で亡くなりました。彼の生と死は、彼の意志と願いがもたらしたものです。ある出来事がカルマの問題、原因と結果から起こるような人間と違い、イエス・キリストを襲ったのは運命ではありませんでした。彼はそれが必要だと認めたからこそ、その人生とその死を選んだのです。それは、最も偉大な愛の行為でした。
救済の計画については皆さん知っていますね。それに関しては詳細に説明しました。親愛なる皆さん、イエス・キリストの行為を史上最大の勇気ある行為として考えたことはありますか?人間にとって、避けられない運命をポジティブに建設的な自己探求の精神で、謙虚な受け入れの態度で体験することは、既に勇気ある行為です。それも愛が故に、そのような運命を選ぶことが、どれ程までに勇気ある行為かは説明するまでもありません。真の愛、真の優しさ、真の無私は、勇気なくしては考えられません。親愛なる皆さん、勇気の意味を瞑想してください。勇気が足りないとしたら、それは不健全な方法で自分を愛し過ぎているからです。
正しく適切な自己愛というのもあります。臆病とは、自分を甘やかし自分を憐れむ、自己満足以外の何物でもありません。勇気は、大義や問題、また他者も自分と同じく重要視します。従って、最終的には、勇気と愛は切り離せないものなのです。大事な皆さん、そのことを考えてください。キリストの生と死を深く理解するだけではなく、自分をより深く理解し、評価することができるようになるでしょう。つまり、浄化のプロセスがより上手くいくということです。これまでのワークを踏まえれば、自分の何処に勇気があり、何処に勇気が欠けているのか理解するのは難しくはない筈です。そして、勇気が欠けているところには、必ず愛も欠けていることに気づくでしょう。
さて、過去に時折触れたテーマ、客観性についてお話しします。自由で調和のとれた人間にとって、客観性は不可欠なものです。浄化されておらず、不調和であればある程、客観性は失われます。客観性は真実を意味します。主観性はとは、色づけされた真実、せいぜい半分の真実、多くの場合は完全な真実ではないことを意味します。意識的な嘘とは逆に、主観性は無意識の、または意図しない真実をもたらします。これは全て、人間の感情レベルから生じます。浄化のワークを行う時には、まず魂の奥深くに存在する真実ではないものを発見します。その真実ではないものを追い払った後、自らの内に真実を植え付けることができます。厳しい自己探求の道だけが、そのような発見とそれに伴う変化を可能にします。しかし、このプロセスや特に自分自身を全体として見る為のこの新たな角度は、あなたが更に一歩前進するのに役立つでしょう。
最初に、他者の重大な欠点として見られるものは、自らの中では見えないことが多いという現象を取り上げましょう。その欠点が全く同じであるか、僅かに異なり変形したものであるかに違いはありません。他者の欠点に対しるあなたの異議は正しいことかもしれません。しかし、他者を判断ながら、自分も同じように正しく適切なことから逸脱しているのに気づかないのであれば、それは半分の真実にしかなりません。更に、他者の欠点は、自分にはない良い資質と共存しているかもしれません。こうして、あなたの判断は色づけされます。腹立たしい一点に集中して異議を唱える一方、全体像を完成させる多くの他の側面を見ようとしないからです。従って、親愛なる友人達よ、他者の欠点に腹を立てる度に以下のように自問してください。「もしかしたら私にも別の形で似たような欠点があるのではないか?私が厳しく非難している相手には、私にはない良い資質があるのではないか?」そして、相手は持っていて、自分には欠けている良い資質について考えてください。また、自分が非難し怒っている相手にはない欠点を自分が持っていないかを自問することも忘れないでください。そうすれば、他者の欠点への怒りをより客観的に評価できるようになります。偶然にもその評価の結果」、自分の欠点は相手より遥かに少なく、自分の資質が相手よりも遥かに優れていることが判明したら、それが忍耐と理解を育むより大きな理由となります。それが意味することは、あなたがより高次の成長段階にあり、それは何よりも、理解と許しの義務があるということです。この能力が欠けているならば、あらゆる優れた資質も、欠点がより少ないことも、何の意味もなしません!しかし、その方向に真剣に努力をするならば、神は、あなたが更に客観的になれるよう助けてくださいます。そうすれば、間違いなくより一層の安らぎが得られるでしょう。そして、今あなたをとても悩ませているものに、動揺させられることはなくなります。
他者の欠点に腹を立てる時はいつも、適切ではない何かが内側にあるに違いありません。友人の皆さんはそのことを知りながら、自分自身を調べる機会が来る度に、何度も何度も忘れるのです。繰り返しますが、もし本当に自らの内にあるものを見つけたいと望めば、神は助けてくださいます!明らかに相手が間違っており、自分よりもずっと間違っているかもしれないことは、気にすべきではありません。自分の中にある小さな不完全さの粒を見つけるようにしなさい。相手が持つ不完全さの山に集中せずに。あなたから平安を奪っているのは、偽りというあなた自身の不健全な粒であり、決して他者の中にある山ではないのです!
非常に異なる方法で現れるが、同じ根から生じる極端な主観性の形があります。多くの人間は、自分を愛してくれない、批判されている、あるいは少なくとも不安を感じさせられる相手に対して、非常に厳しくなります。その厳しさはディフェンスです。自らの価値に安心していれば、不安を感じることなく、自然と寛容さを育てられます。しかし、皆さんの殆どは、未だに不安なので、このように欠陥のあるディフェンスの手段を用います。この振る舞いは、あなたが安心できるように愛してくれる人を盲目的に理想化するのと同じことです。この場合、他の誰かに対して非常に激しく反対するような様子はありません。親愛なる皆さん、これもまた危険です。この傾向は特に、その理想化が愛であり忍耐であると自分の都合の良いよう信じ込むのに非常に適しているからです。彼らが愛してくれているからと、あなたが愛する人々の欠点に目を瞑る時、あなたは自らを忍耐強く良い人であると納得しようとします。いいえ、皆さん。それは本当の愛ではありません。真の愛は現実を見ることができます。非常に大事な成熟した方法で愛する準備ができれば、愛する人の欠点に目を瞑るのではなく、しっかりと向き合うことでしょう。
頑なに目を瞑っているとしたら、それにはふたつの理由があります。理由のひとつはプライドです。愛する人として選んだ相手と、あなたを愛する人として選んだ相手には、あなたが許容できないと考える欠点があってはなりません。弱さのない人間はいないと知っているので、自らの欠点のいくつかを認めるように、相手の欠点のいくつかを認めるかもしれません。しかし、相手の多くの傾向を無視し続け、その態度を自らの愛と忍耐の証明であると半意識的に考えていますが、実は、それはプライドから生じています。ふたつ目の理由は、心の奥底で、自らの愛する能力への不安があり、愛する相手の理想的な姿を必要としているからです。理想化された形でその人を見ざるを得ないのであれば、その愛は真の愛ではありません。違います。それは弱さであり、しばしば束縛にもなります。
親愛なる皆さん、真の愛は自由です。それは、相手の成長のこの瞬間に優勢である真実の試練に耐えることができます。その段階に達すると、あなたが心から大事に想う人を、あなたの望む姿ではなく、ありのままに見ることができるようになります。相手の真の姿から目を背けている限り、愛することはできません。実際に、かなり表面的な潜在意識レベルではあっても、あなたは自らの愛する能力の欠如を自覚しており、真実を見たら愛し続けることができなくなるのではないかと恐れ、常にせっせと目を背け続けます。プライドと、真に愛することができない現時点の状態が、あなたを極端から対極へと向かわせます。親しく大事な人のありのままの姿を見ることを拒否するか、そうでなければ、批判自体は正当かもしれないのに、厳し過ぎる判断を下します。異議を唱えている個別の事実は妥当かもしれませんが、知る由もない程の数多くの側面をもつその人全体を評価することはできません。
愛する人の欠点に目を瞑っていると、危機が、揺り戻しが、深く傷つくような痛みを伴う目覚めが避けられないことも良くあります。実際には、あなたを失望させ、傷つけたのは相手ではなく、自らの過去における故意の盲目なのです。そのような危機に、あなたが心の底で最も恨むのは、その盲目さです。親愛なる皆さん、そのような危機を避けてください。他者のありのままの姿を見て愛することを学べば、それは可能なのです。
友人の皆さんに、次のようなアドバイスをしたいと思います。世界で一番愛している人のことを思い浮かべ、いつも自分に対してやるように、その人の長所と短所のリストを作ってください。次に、共通の友人に尋ねてください。「どう思うか教えてください。私の見方は正しいですか?自分が客観的なのか確認する為に、この人の長所と短所について、あなたが同じように見ているかどうか、意見を聞かせてもらいたいのです。私の成長の為に、お願いしています。」その友人達もこの道を歩んでいれば、まさにうってつけです。それから、より客観的で距離感がある状態の友人とあなた自身が、その同じ人物をどのように見ているのか比較しましょう。
理想化している人に対して考えたこともない、あるいは考えようともしていなかった欠点について聞かされた時の反応を観察してください。内側で怒ったり傷ついたりしているのならば、客観的ではなく、真実を恐れている証拠です。おそらく先に述べたふたつの理由が原因です。つまり、プライドがあり、あるがままの相手を愛することができないからです。そうでなければ、たとえ最愛の人が持ってもいない欠点で非難されても、冷静でいられる筈です。友人の皆さんの内の何人かの方々にとっては、愛する人の欠点を考えることは、ごく健全なことかもしれません。愛する人を評価することを学び、あなたの愛は成熟し、大きく成長するでしょう。そうして、真実が見えずに怯えた子供のように愛する未熟な状態から成長することができます。
前回のレクチャーでは、イメージの中に存在し続ける子供っぽいメンタリティーについてお話ししました。子供は、善か悪か、完全か不完全か、安全を約束する全能性か、避けるべき完全な脆弱性か、という両極端しか知りません。子供は、これらの選択肢のうち前者の方しか受け入れることができません。慕っていた親に欠点があり、全能でないことが分かると、その親から背を向け嫌悪感や怒りを抱き、失望と落胆を感じるか、あるいは、親の中にあるまじきものを見たことに罪悪感を感じてその発見を無意識の中へ隠します。このような反応は大人になっても魂の中に生き続け、生涯を通して、または成熟した判断と現実に照らして見直され再評価されるまで、反応や行動パターンに影響を与え続けます。この観点から現在の人間関係を見ると、そのプロセスは、始めの内は辛いものですが、無意識の抵抗が信じ込ませようとする半分も悪いものではありません。その抵抗に耳を貸さないでください。真実の探求を続けてください。より幸せで、より自由で、より安全な人間に進化できるとお約束できます。親愛なる皆さん、これが皆さんの多くにとっての唯一の治療法なのです。
お願いですから、愛する人の欠点は見えている等と軽々しく言わないでください。勿論、一部の欠点は理解しているかもしれませんが、恐らくそれは、あなたが許容できるものだけで、他の欠点を見ることを自らに許していないかもしれません。従って、あなたは相手の人格の全体像を掴めません。あなたが見ている絵は、厳し過ぎて不寛容な時と同じように歪んでいます。どちらの場合も、現実を映していない鏡なのです。それぞれの鏡は、異なる形で歪んでいます。真実に近づくことを恐れるのは、愛する人の中にある不愉快な真実を見ることに耐えられないという子供の感情が依然として生きており、この感情が愛の出し惜しみをするからです。しかし、これは全く真実ではありません。愛は弱まるどころか、成長し、成熟するに違いないという認識と共に、この特別な探求に取り組めば、現実を知ることへの抵抗は克服できます。
主観性の両極端の内、最初に取り組むべき重要な方がどちらかを知る必要があります。皆さんは誰でもこの両極を持っていますが、常にどちらかが優勢です。まずはそのひとつに集中することから始めましょう。
皆さん、客観性にも勇気が必要です。あなた方の多くは、自分自身だけでなく、他者の真実を見るにはまだ弱く、臆病過ぎます。成熟した愛とは、相手の欠点にも関わらず、相手を愛することです。目を瞑るのではなく、相手の欠点を知り、理解した上で、既に有る良い資質の上に関係性を築くことです。知性の成熟と共にいくらか和らいだかもしれませんが、未熟な愛とは、相手を絶対的な二者択一の観点から見ることです。ここで、皆さんは、自らの個人的な基準や概念を犯さない程度の欠点は認められるようになるかもしれません。
全ての人間が同じ発達レベルにあるかのように、人を厳しく判断するのは、同様に未熟なことです。相手の方が、その発達があなたより遅れている場合もあるし、別の点であなたより発達している場合もあります。従って、比較や判断はできません。ただ見てください!怒らずに見ることができないのであれば、その反応は正反対の極端な反応と同じ原因、つまり不完全さを受け入れられずに、感情的には未だ子供であることから生じているのだと気づく必要があります。
ですから、この点でもキリストの足跡をたどりなさい。未だ愛する能力に欠けているが故に、エゴの為、虚栄心の為、プライドの為に構築した幻想を十字架にかけなさい。この真実の上に、あなたは真の愛を築くことができるのです。
さあ、大事な皆さん、質問に移りましょう。
質問:黙って静かに祈ることで十分ですか?それとも、定形句や文言で声に出して祈る方がより効果がありますか?
回答:言葉が簡潔に考えられていれば、勿論、無言の祈りには同じような効果があります。間違いありません。思考も話し言葉も同様に形だからです。実際、話し言葉が軽い表現され、感情や意味のインパクトがない場合、そのパワーや効果は遥かに低くなります。その結果、熟考し深く理解した言葉よりも遥かに弱くなります。しかし、グループの集まりにおいて、人前で祈りにくいと感じているのであれば、それはブロックなので調べる必要があります。ブロックとはどういうことでしょう?多くの場合、それはプライドです。きっと、皆さんの中にはこれを不思議に思う人がいるかもしれません。人前で祈れないのは謙虚だからだと、見事に言い逃れているかもしれないからです。それでもやはり、友人の前で祈りを口にするのがなぜそれほど恥ずかしいのか、自分の感情を分析すると、その恥ずかしさは屈辱感から来ていることに気づくでしょう。
神に祈る時は、ごく自然に謙虚な気持ちになります。他人の前でそのような謙虚な姿を見せることが、自分が屈辱を受けたかのように感じられます。謙虚であることは、感情の一部が避けたいことなのです。他者の前では、安心し、世界の頂点にいる様に見せたいと思います。神に対して見せるように、ありのままの自分、手探りで、不安で、不確かな自らの姿を他者に見せたくはありません。言い換えれば、神に見せるような本当の顔を見せることは、自らを辱めているような印象を持つのです。それがプライドです。真に謙虚な人は、ありのままの姿を見せることを恐れません。自分自身でいることの勇気を持っています。従って、人前で祈りづらいというこの小さな症状の中に、感情の状態の非常に重要な要因があるので、それを調べる必要があります。人前で心から祈ることができないのであれば、それこそ克服すべきことなのです。無理にそうするのではなく、自らの心理的な反応を調べ、現在の自らの真実の光に照らして評価するのです。常に望ましいのは、内外の両側面から目標にアプローチすることです。
質問:恥ずかしい(シャイ)ということはありませんか?
回答:数多くの説明をして、感情を正当化して覆い隠すことはできます。ところで、恥ずかしさとは何でしょう?更に言えば、劣等感とは何でしょう?それは一種のプライドに他なりません。他者にどう見られるかを恐れるあまり、自分の与える印象を非常に気にする人にはプライドがあります。あるいは、虚栄心が強いとも言えます。どちらも同じことです。恥ずかしさは、劣等感の現れのひとつです。厚かましさはまた別です。これは個人の気質と性格の問題です。あらゆる劣等感には、プライドと身勝手さという共通点があります。身勝手さは、プライドを満たすことを強く切望するあまり、感じている以上に安心しているかのように行動することで自らを偽ります。そうでなければ、身勝手さの強さのせいで、無力化して恥ずかしがります。プライドと身勝手さのあるところには、恐れもある筈です。他者がどう考えるかを全く気にせず、今の自分に正直に自分の中でしっかり安心しており、自分自身でいる勇気があるなら、どんな恐れもあなたに触れることはできません。あなたは無意識の内に、外側の見せかけの行為とは違う自分を他者に見抜かれることを恐れているのです。自らのプライドや身勝手さが満たされないことを恐れています。そうでなければ劣等感も存在せず、恥ずかしがることもないでしょう。劣等感とは、実際の価値や評価によって決めるものではありません。劣等感が存在するのは、ただ自分以上の存在になりたいと思うからに他なりません。私の友人の皆さんが、その観点から自分の劣等感を検証すれば、恐れや不安からの解放へ向けて大きく前進することでしょう。
質問:食用に屠殺された動物は、死んだペットと同じ領域に行くのですか?
回答:どういう理由で死んだのかは関係ありません。人間の場合と同じです。霊的な世界に来る人間の領域は、魂がどのような死を遂げたかで決められるのではありません。それぞれの存在の成長と達成に応じて、領域が決められます。
質問:動物が死んでから目覚めるのは、どのような感じなのか教えてもらえますか?どのように目を覚ますのですか?あなたが言った「グループソウル」がよく分かりません。グループソウルとは、どのようなものですか?
回答:グループソウルについては、人間が完全なスピリットの片割れであるように、動物も魂全体の粒子のひとつであるという意味から理解されるべきです。「ダブル」と呼ばれる残りの半分は、転生しているかもしれないし、転生していないかもしれません。動物の場合、分裂は更に進みます。ひとつの存在全体は、様々な存在形態に転生する多くの粒子で成り立っています。発達が低ければ低い程、分裂は更に進みます。これらの分裂された粒子の成長に伴い、それらは統合され全体の形となります。
動物の目覚めのプロセスは、人間のものと非常に似ています。病気や、突然の事故でショック状態に陥った場合の重症度に応じて、休息や無意識状態の期間が長くなったり短くなったりします。肉体から抜け出した瞬間に、目覚めて自由になることもあります。幸福感があり、軽さを感じます。生まれ変わる前に、暫くの間、動物の領域で暮らすこともあります。かつての飼い主を訪ねることもあります。いずれにせよ、地上で生きていた時よりも遥かに幸せなのです。動物に関しても、一般化はできません。それぞれのケースで多少異なりますが、全ての動物は大切にケアされます。動物の世話を仕事としているスピリットがいます。
質問:先ほど述べられた劣等感に関して、あなたは以前に違う説明をしていました。どのような関連性があるのでしょう。きっと繋がりがある筈だと思うのですが。劣等感は実際には罪悪感であり、自らの欠点に対する間違った反応だということでした。
回答:まさにその通りです。このように繋がります。欠点であるプライドがある時、罪悪感を抱くのは自然なことではありませんか?人格の無意識はこう言います。「私にはプライドがある。それが良くないことは分かっている。このプライドは持ちたくない。だから、自分自身から隠してしまおう。」他者の意見を気にすることで、自らの人格を侵害することになります。自らに正直ではなくなります。恐らく、それは最大の罪のひとつであり、そこから他の多くの罪が生じます。そして、それがあなたに罪悪感を抱かせるのです。
質問:世論を恐れることと、不評を恐れて承認されることを望むことには、どのような関連性があり、どのような違いがありますか?
質問:必ずしも違いがある訳ではありませんが、違う場合もあるかもしれません。人が世論を非常に気にする場合、それは確かに世論に認めて欲しいからです。批判を受けることがなければ、安心できるからです。同様に、人は他者と切り離されることを好みません。子供は、自分が他の子供達と違うと感じる度に苦しみます。子供にとって、異なるということは劣っていることを意味します。成長しても、この傾向が残っている場合があり、正しくても間違っていても、大衆の基準、大多数の意見に過剰に固執するという形で現れることがあります。世論は多くの場合正しいかもしれませんが、まず自らの意見を吟味することもなく世論に固執するなら、それは束縛となります。自由な人は、他者の意見を気にすることなく、自らの内にしっかりと安心し、良心と神に従ってそれぞれの問題を個別に検討し、それから自らの行動を自由に選択します。場合によっては、世論を支持することもありますが、それは束縛された人の支持とは全く異なります。また、自らに正直である為に、世論を見捨てることもあります。その人は、代償を支払うつもりがあるのです。これが健全な態度です。お分かりですか?
質問:はい。ここまでは良く分かりました。承認を求めることとは、どのように異なっていますか?
回答:違いはありません。その一面と言えるでしょう。ある人格タイプでは、他者に認められたいという強い願いが、世論への依存という形で現れます。別のタイプでは、反対の態度を取ることを通して、認められようとします。そのような人は、世論に縛られる人と同じ動機から、常に世論に反する行動を取るかもしれません。どちらの形も、不健全である場合もあるし、成熟し調和している場合もあります。しかし、成熟し調和している人には、パターンがありません。世論に賛同することもあれば、反対することもあります。しかし、賛同や反対のどちらかに偏った行動を取る人は、動機が不健全であると疑われても仕方ありません。何故、ある人は不安や依存をある形で表し、別の人はその反対の形を選ぶのかは、多くの要因によります。それは、成長、環境、影響、そして何よりも、人格の特徴と個々の性格の問題です。大抵、ふたりの異なる人間が、同じ条件下で、同じ出来事に対し、同じように反応することはありません。
親愛なる大切な友人の皆さん、今夜、神の天使たちが皆さんを祝福する為にこの部屋にいます。ここにはいない全ての友人達、この教えに従う全ての人々にも祝福は届けられています。大事な皆さん、この道を歩み続けてください。皆さんの真の努力の為に、このように短い期間で非常に多くのことが達成されました。諦めないでください。何としても続けてください。そうすれば、真の自己と向き合う為に自らの存在の奥深くに入らないと得られない、愛と理解の力が手に入ります。神の為に、そして、皆さんのために愛と勇気の偉大な行為を自ら成し遂げたイエス・キリストの為に、最初の困難を乗り越えれば、必ず成功すると信じてください。実際それこそが。真に永続的な成功を達成するための唯一の努力なのです。皆さん、この特別なフォースを受け取ってください。黄金の光が、心、魂、スピリットに差し込み、皆さんを支えてくれるように。キリストの光が皆さんを照らしています。平和の内に、神の内にありなさい!
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