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No. 46 権威

Pathwork Guide Lecture No. 46
1996年版 
1959年2月13日 
 

権威 AUTHORITY 1996年版 1959年2月13日 


 神、そしてイエス・キリスト御名の元、皆さんにご挨拶いたします。親愛なる友の皆さん、あなた方に祝福をお送りします。今日、この時間は祝福を受けています。

新しく仲間に加わった方々もいらっしゃいますね。心から歓迎いたします。あなた方にお伝えしたいのは、この道を歩むことは、皆さんの一人ひとりが抱える問題に対するたくさんの答えをもたらすということです。その答えはおそらく、皆さんが意識して、あるいは無意識のうちに、長きに渡って捜し求めていたものかもしれません。

スピリチュアルな知識をほとんど持たない人でも、ほとんどの人はこの人生というものが一般的にどんなものか、また、この地球上に存在するために、人が時に経験する苦痛にどのような意味や理由があるのかについて、大体は理解しているものです。人生とは学校のようなものである、ということは皆さんもご存知でしょう。一つの生から次の生へと移行するのは、いわば、一つのクラスから次のクラスへと進むようなものです。一定の成績を収めて進級する時もあれば、しばらくは同じクラスにとどまることもありますが、さまざまなことを学び、成長し、浄化していくのです。これこそが、この地球における生の説明です。ですが、このことを知っているということだけでは個々の問題を解決することはできません。問題の解決には、必ず、自分という存在そのものを理解する地点に到達せねばなりません。自分の問題、悲しみ、切望、人生に対する不満足感を生み出している源を理解する必要があります。自分自身を理解して初めて、人はその源を見つけることができるのです。

これは、皆さんが考えているより難しくもありませんが、だからと言ってやさしくもありません。私が言う「自分を知る」という意味は、外面的な行動、決断および反応を知るという意味ではありません。こうした外的な事柄については、簡単に理由を述べたり、合理的な説明を加えたりすることができます。それゆえ、多くの人は「私は自分をよく知っている」と勘違いします。しかし、自分の内にある強迫的で無意識の傾向によって、強制的に反応したり決断したりしない人がいるのでしょうか?

私が示すこの道は、いかに、そしてどのように皆さんの外的問題がご自身の内的葛藤に関係しているかということと、皆さんの感情的な反応が、まるで磁石が鉄に引き寄せられるかのように特定の出来事を引き寄せているか、ということに対して段階を踏んで理解に導きます。当然ながら、こうした一種の「磁力」を真に理解するには、自らの感情を覆いの下から出し、そこにある深い意味を知らねばなりません。そして、その知識によって、自分という存在が何であり、自らの人生にはどのような意味と目的があるのかを理解するわけです。人生の真の意味と目的を見つけた時、人は輪廻転生の輪において、大切な段階に達します。そしてこの知識をもって人は、それぞれ個別の存在として、生まれた理由および生きる目的を知ります。この知識は、とても大きな努力の結果としてもたらされ、発展へと向かう道において、大変重要な段階に魂が到達したことの証でもあります。ここに至って初めて、人は非常に高度の覚醒状態を維持しながら、意識と無意識との境界線を越えることができます。自分の今の在り方を真に理解するとは、つまり、その人の魂が神の元へと帰るための旅路において大きな一歩を刻むことを意味するのです。

そこで今夜は、権威(オーソリティ)の問題と、この権威という概念が人間にとって何を意味するか、というテーマについてお話ししたいと思います。権威という問題は、皆さんが思っているよりもはるかに重要な意味を持っているのです。

権威は、成長を続ける子どもが、意識が芽生えるある一定の段階に達したときに最初に経験する葛藤です。年長者、両親あるいは両親に代わる者、そしてもう少し大きくなると、学校の先生が子どもにとっての権威となります。彼ら権威を持った存在はみな、子どもの中にある「満たされたい」という願望の多くを否定します。そのため、子どもには、その権威者が自分に敵対しているように見えるのです。たとえ、愛や思いやりやぬくもりをどれだけたくさん与えられたとしても、あるいは、「ダメ」と言われることがそのときどれほど必要不可欠だったとしても、子どもにとって彼らは人生で初めて出会う障害物となります。そして、人はこの時に抱いた権威に対する態度・考え方を大人になるまで引きずります。皆さんは権威に対してしばしば無意識に反応していますが、その反応をよく見つめれば、子ども時代に出会った障害物が真に大人になるための踏み石になったのか、ならなかったのかを知ることもできます。もし大人になって権威に対して成熟し、かつ自由に反応できるならば、魂の全体的な成長において、その人はまた一つ重要な段階に到達したと言えます。一方で、権威に対して、無意識の強迫的な考えによって引き起こされる子どもじみた反応しかできない人は、この段階に達するための課題があとに残されます。ここに到達できない限り、魂は不完全な状態のままですから、権威に対してネガティブな反応を続けることになります。たとえ、権威が完璧な方法で示されたとしてもネガティブな態度をとってしまうのです。しかし、人間は誰もが「不完全」ですから、権威もまた、人間によって明らかに不完全な方法で施されるのです。

このようにして、子どもと権威者、つまり大人との間には一つの障壁が作られます。このとき、両者の間に愛が不足している、あるいは、愛の与え方が子どもの必要としているものとは違う場合、この障壁はさらに高くなります。しかし、たとえ愛があったとしても、子どもの中の葛藤は存在します。また、子どもは親の愛を欲すると同時に、親の権威によって制限されることに強く反発します。子どもにとって、権威とは自らを押さえつける抵抗勢力でしかありません。自分を牢獄の鉄格子の中に閉じ込め、不満足感を抱かせるものだと感じるのです。このとき、子どもの心の中では、「早く大人になりたい」という押さえ切れないほどの強い願望が生じています。子どもは、大人になれば、自分を閉じ込める四方の壁もどこかに消えるはずだと勘違いします。ところが、大人になっても、権威は以前と変わらず存在します。両親や学校の先生の変わりに、社会、政府、法の施行機関、雇用主、あるいは依存せねばならない権力者などが、権威として目の前に現れるわけです。

権威は、今度は大人としてのあなた方をさまざまに制限します。あなた方の中には、子どもの頃の感情が無意識のうちに存在していますから、表現方法こそ違いますが、基本的には以前と同じ葛藤が現れます。子どもの頃は権威に反発しながらも、一方では「愛されたい。受け入れられたい」という強い願望を抱いていたために、完全には反抗することができないか、あるいは、できないと思い悩んでいました。大人になった今も、これと同じような二律背反的な葛藤に悩みます。つまり、一方では権威によるさまざまな制限に対してあからさまに反抗しながらも、他方では、回りから嫌われて仲間はずれにされる、または集団に帰属できないという不名誉を恐れるわけです。

このような葛藤を解決するには、無意識の感情を正確かつ簡潔な思考や言葉で認識し理解する以外に方法がありません。もちろん、時間はかかりますが、誰にも必ずできます。無意識によって創り出される解決策は、大抵間違っています。ではここで、権威に対する特定の反応に気付くポイントをいくつかお教えしたいと思います。

大別すると、皆さんは二つの内のいずれかの方法で権威に反応します。これはすべての人間に言えることです。いくらでも細かく分けることはできるのですが、基本的には二つに分類されます。そして、多くの場合、両者は相互に絡み合いながら、一人の人間の中に現れます。ある時には一方の反応が優勢で、別の時にはもう一方の反応、あるいはその変形というように、両者が発現するのです。この時、一方の反応が他方よりも優勢になる状況とその理由を知ることが大変重要です。ご自分の反応を注意深く観察していけば、そこから幼少期の周囲の環境に対する感情や反応にまでさかのぼることができます。また、必ずそこまでする必要があります。そうして初めて、子どもの頃の態度や反応を一つのパターンのように未だに繰り返していることに気付き、大人となった今の自分の反応を真に理解することができるからです。

では、ここで少し、この二つの基本的な分類について別々に考察を加えてみましょう。この方が分かりやすいと思いますので、あえて別々にお話しするわけですが、実際には、どちらか一方の傾向だけが常に優勢な人というのは非常にまれです。この点はご理解してください。一人の人間の中には、二つの傾向が常に混在しているのです。

まず最初に、権威に対して外的に反抗する人たちから見ていきましょう。彼らは権威を敵であると感じます。それは、幼少期だけでなく大人になってからも、彼らが抱いた悪くもなく害があるわけでもないたくさんの欲求が権威によって禁じられたことに起因します。彼らは、自分たちの欲したことは何も悪くないと知っている、または考えているのです。しかし、権威はそれらを妨げ、そのことで彼らは権威というのは不公正でだけでなく一般的に有害で、狭量、非建設的な存在であると感じるわけです。

さて、もしその人が、外向的かつ社交的で、ある程度の勇気を備えている場合、反抗の示し方はあからさまに戦い、反撃する形をとります。これがどのように現れるかは幅があり、私的・個人的な態度として表現される軽いものから、少数派の団体や無政府主義団体を組織したり、さらには罪を犯すなどの行動を通して表現されることもあります。もっとも強い形で表される時には、反社会的な行動を取る場合もあります。もっとも軽い形で表される場合には、他人にほとんど気づかれないことさえありますが、いずれにしてもそこには同じように、無意識かつ暗黙裡に反抗の感情が存在しているのです。このような場合でも、あからさまに攻撃的な反応をするのと同じように明白な結果がその人の人生に生み出されます。

もう一つの分類は、権威に対する反抗心を転換させて、「私は権威者が嫌いだけれど、私自身が権威と同化すれば私は安全だ」と無意識に考える人たちです。この見せかけの安全という信念は、この人たちを極端な方向へと導き、彼らは厳格な法の支持者(法をかたくなに守る人)となります。必ずしも公然とというわけではなく、おそらくもっと見えにくい形でそれは現れます。彼らは自らの地位を守るため、そして法を破る人と同じような心の奥底に潜む反抗心を隠すために、法を破る人を極端なまでに敵対視するようになります。彼らは、法や権威に対して自らの隠された傾向を恐れているのです。そしてそれを恐れれば恐れるほど、法を破る人に対して厳格な態度をとる必要があると感じます。なぜならば、彼らは、法を破る人々のことを、絶対に人に知られたくない自分の一部だと感じるからです。彼らにとって、自分の真の感情をさらけ出すことは、「敵陣」に入るがごとく危険なことだと感じられます。自分をさらけ出すことへの恐怖は、彼らをますます「良い人」に仕立て上げます。ですが、ここで重要なのは、この「良い人」というのを文字通り受け取らないことです。とはいえ、このような法の支持者が本当の意味で良い人になれないと言っているわけではなく、反抗心を隠す傾向を持つ人と同じように良い人なわけです。両方とも未熟で無知な反応を示すのです。ここで説明している法の支持者の内にある動機は、その人の弱さと恐れが原因です。そして、弱さや恐れからくる行動や態度は、絶対にポジティブな結果を生み出しません。自分の傾向に気づかず、自らの行動や姿勢を無意識の内に是認している限り、ネガティブな結果をポジティブなものに変えることはできません。ポジティブな結果を得るためには、何ものにも縛られず、強く、何にも依存しない自立した選択が必要なのです。

しばしば申し上げていますように、ある人の無意識の行動や態度は、意識的に認識できる態度、行動、あるいは動機よりもはるかに大きな影響を他者の無意識に及ぼします。言い換えれば、同じ行動や態度を示したとしても、他者に対する影響力は、無意識の恐怖に駆られた時の方が、自分の傾向に気づいているときよりも、遥かに強くなるわけです。だからこそ、わが身の安全を守るための間違った防衛手段によって動機づけられる法の支持者は、法を破る者たちに対して特に悪影響を及ぼすことになるのです。もしも法を破る人が、弱さではなく強さに基づいた健全で意識的、かつ成熟した法の支持者に接するとき、彼らは全く違った感じ方をし、反抗的な態度も和らぐはずです。みなさん、どうぞ私の言う「法の支持者」と「法を破る人」という言葉を社会的な法に照らして、おおざっぱに、外面的な意味だけに受け取らないでください。私の話している、精神的な意味合い、という側面からも考えてみてください。

法の支持者が意識の上では善意を持っていたとしても、その態度の中に、力や反応が隠されていればいるほど、法を破る人に対してはその効果は逆に作用します。真の法、つまり聖なる法は、彼らの弱く狭量な態度とは別物です。彼らは、ただ単に恐怖に駆られて現在の立場を選択しているにすぎず、内に隠された反抗心が発現することによって自らの身に引き起こされるかもしれない数々の不利益から逃れるために法に従っているだけなのです。

これらの正反対の2つの分類の中には、それぞれたくさんの細かな違いがあります。たとえば、法を破るという傾向は、必ず勇気という流れと結びついています。そうでないと、もし他の特性や外部環境と結びつく時には、彼らの反抗はぼんやりとさえないものになります。法を支持する人に関して言えば、本当の感情を吐露する勇気がありませんから、その人の中で優勢となっている性質も欠点も、前者のものとは異なります。たとえば、彼らの場合は秩序と組織に強く惹かれる思いと、戦いではなく平和を希求する気持ちとが合わさり、そこに他の性質が加わって、最終的な態度が決定されるわけです。

法をかたくなに守るということが不完全であるという理由だけで、法を破ることが望ましい姿勢であるなどと勘違いなさらないでください。あなた方の世界では、このような誤解が本当に頻繁に起きており、多くの間違った考え方や哲学、教えなどを生み出す元凶となっています。ある態度や意見が間違っていると分かると、人はすぐにその真逆に向かおうとします。そしてそれは、同じように間違っているのです。

この両極がひとつの悪循環を作り出します。法を破る人の側の反抗が大きくなればなるほど、法の支持者は、自分の恐れや反抗から自分を守るため、より厳しく、狭量になります。そしてその結果として、法を破る人の反抗がより強くなることになります。法を破る人は、彼らの反抗がもはや法そのものに対してのものではなく、法の支持者が無意識に生み出している見せかけの態度に対して反抗しているのだという事実に気づいていません。

このことは、その性質においてとても捉えにくいものなので、大変難しいテーマです。けれども、ご自分が主にはどちらのタイプに属していて、人生のどのような側面においていずれかの傾向がより強く現れるのかということは、簡単に分かります。あなたの生き方や内なる反応についてよく吟味すると、必ず分かることです。一度答えを見つけると、あなたは一歩先に踏み出すことができ、改善策を考えることができます。そして、あなたの今までの人生や葛藤、さらには愛する者たちを含む周囲の人や環境にどのような影響を及ぼしてきたのか、ということについてもよく考えてみてください。

もしもあなたが権威に対して反抗する傾向が強いとわかれば、正しい概念を手に入れるために瞑想をしてください。聖なる意味における真の権威と、今までに経験してきた、人間が不完全な存在であるがゆえに不完全な人間世界の権威との違いを理解するために懸命に努力してください。権威は常に間違っているという印象を無意識に抱いていることについて見つめてください。この2つが違うものであることを認識できたとき、たとえあなたが真の権威に出会ったことがほとんど、またはまったくなかったとしても、あなたの権威に対する反抗は自然と弱くなっていきます。このことが分かった後では、真の権威の兄弟のような存在である歪められて弱くなった権威が、そして他人を保護し、同じようにあなたを保護している法の存在が半分も気にならなくなります。あなたは、もう、権威が敵対する力だと感じなくなるのです。

この知識は、正しい概念をあなたの中に構築するのを助けます。すでにあなたは動機を理解し、共感することができるので、気に障ることもなくそれが間違いだと気づくことができるのです。あなたは、自分とよく似た傾向が「敵」の中にも存在し、それらはただ単に違う形で現れているに過ぎないということに気づくでしょう。このプロセスはつまり、意識の向上を意味しています。そこであなたは、法と秩序の必要性を理解し、それゆえに権威者が法を維持する必要性も理解します。理想的な原理の顕現は地球上に存在しないという事実が、あなたを混乱させることはありません。理想的で、知と善と理解を併せ持つ権威は、いつか到達すべきゴールであり続けるのです。また、不完全な権威もこの世界には必要であるという点も理解できるようになります。つまり、洞察と理解の程度により、また、間違った権威の発現に対して過去にどうしてあれほどの反応を示したのかを理解する程度により、あなたの反抗は弱くなっていくのです。

さらに言えば、あなたは、ある程度の段階にまで成長し、私の申し上げる神聖なる権威を顕在化している人々についても、気づくようになります。そうなれば、ある人や物が権威を象徴していると感じるからと言って自動的にそれらに反発することはなくなります。ただし、あなたが問題の全体像に意識を集中していないと、たとえ正しい権威者があなたの前に現れたとしても、あなたは違いを感じ気づくことができません。なぜならば、盲目的でかたくなな反応や反抗的な態度は、人の本能や直観力を鈍らせてしまうからです。しかし、このように考えると、これまでの人生で、少なくとも何回かは正しい権威を備えた人に出会ったことがあるはずです。彼らは、特定のテーマにおいての権威者ではなく、すべてにおいて完璧であるのでもなく、権威者とはそうあるものなのですが、本当に善を体現し、賢く、真に親切である者たちのことです。過去を振り返り、彼から放射されていたものを思い出すと、彼らの態度は、単に弱さや恐怖によって動かされている法の支持者の態度とはまったく違うものだと感じるはずです。

先ほども触れましたが、霊的に未発達な人々が起こす悪循環は犯罪につながる可能性がありますから、繰り返されるこの悪しき流れはどこかで断ち切らねばなりません。どれだけの犯罪者が、本当のところは犯罪そのもの、または犯罪から得られる「利益」を求めているわけではないにもかかわらず、犯罪を犯していることでしょう。彼らの心の奥底にあるのは、本当か想像上のものかにかかわらず、法の支持者たちのもつ「良い人」ぶったあり方に対する反発です。このような悪循環に陥ってしまうと、たとえ正しい権威者に出会ったとしても、もはや見分けることはできません。違いが存在するという概念そのものを持たないので、両者を区別することもできないまま、闇雲に反応するのです。だからこそ、このことについてよく考え、正しい概念を獲得することがとても重要なのです。

独善的な権威と高次の権威という違った種類の権威があることを一度深く理解すると、権威に対して自動的に反抗するというパターンから離れることができます。この健全な論理的思考のプロセスは、他のことについても、とても微妙に、知的にではなく直観的に物事を区別する力を強めてくれます。

さて今度は、もう一つに分類される法の支持者についてお話ししましょう。もしも、あなたが法の支持者の側の傾向がより強い場合、私のアドバイスは次のようになります。これまでの人生を幼少期までさかのぼり、あなたが反抗心を抱いた時を思い出してください。おそらく漠然と感じるだけかもしれませんが、この目的を持って探求すれば、強い力、つまり権威としてあなたが感じ、自分もその権威を持つ者になろうと決めたその時のことを、いずれは必ず思い出します。確かに、この内面の決意には良い動機も含まれていますが、それだけではなく、弱さからくる動機もあります。この、弱さからくる動機をも見つけ、そして認識することがあなたに与えられた課題です。この段階まで来ると、あなたは自己理解の道と本当のあなた自身になるための道において大きな進歩を遂げたことになるのです。

ここからさらに探求を続ければ、あなたに向けられる他者の反応をも理解するようになります。無意識にそして隠されたまま、法を破るタイプに属する仲間たちに向けられる、あなたの独善的な厳しさも弱まります。法を守るというあなたのかたくなな傾向を支える動機が、実は弱さと恐れだったと分かれば、あなたの反応は変化します。このように、弱さに駆られた行動から抜け出し、強さにもとづく行動を起こせるようになるのです。あなたが、内的、外的にかかわらず法の側にいることは変わりませんが、態度、雰囲気そして動機が異なるのです。このことがとても大切なのです。

あなた方は、法の側、つまり権威の側にいるからこそ、あなたの理解に照らして、法に反対する側を拒絶するのではなく、彼らを間違った流れの中から引き上げるという大きな責任を背負っていることに気が付くでしょう。そうするには、あなたがまず自分自身を理解し、法を破る者たちに共感することが必要です。とは言っても、彼らの反抗心や反抗からくる行動を支持するという意味ではありません。

イエス・キリストという人が、どうしてあれほどまでに激しい非難を集めたと思いますか?当時の権力者がイエスを厳しく非難したのは、彼が犯罪の常習者や売春婦といった卑しい身分の人々と関係を持っていたからです。彼ら身分の低い者たちは、イエスが自分たちを真に理解してくれていると感じていました。イエスが真に善人であるだけでなく、自分たちがそのような身分の低い立場に置かれるに至る理由を理解してくれていると感じたからでした。だからこそ、彼らはイエスに反抗しなかったのです。イエスは、彼らの行動や間違った態度にはもちろん反対していました。けれども、だからと言って、イエスは彼らを裁くことなく、彼らとともにいたのです。イエスは彼らとともに笑うことさえありました。また同時に、自ら定めた法と法文書を尊大に誇示する間違った、傲慢な権威者を笑いものにしていました。みなさん、イエス・キリストこそがあなた方の求めるべき真の権威の姿です。自分と逆の立場にいる反抗者とともに進むのです。その反抗はかすかにしか感じられないかもしれませんが、あなたも同じように知らない内に間違った方法で反応しているかもしれないのです。この別々のものはお互いに漠然としか感じられないものなのです。あなた自身を理解することによって彼らの態度を理解してください。そして彼らとともに笑い、彼らとの共通点を作ってください。あなた方は無意識に人を裁く判事になることがありますが、そうなってはいけません。みなさん、このバランスは、本当にとても微妙なものです。ですので、あなたのもっとも奥にある魂で理解し、解決される必要があるのです。

もちろん、法を破る者たちが罰を受けなくてもいいという意味ではありません。私が申し上げているのは、そういうことではありません。もし法を破る者たちの行動が他者の福利に危害を加える場合、彼らは何らかの教訓を学ばねばなりません。しかし、この場合、間違った種類の権威が長い間支配していたことが理由の一つでもあります。法を破る者たちを深い無知と暗闇から引き上げる代わりに、彼らをその中に追いやってしまった結果とも言えるのです。親愛なるみなさん、地球上におけるあらゆる惨劇、つまり犯罪、戦争、あらゆる不正、病気、そして他の深刻な問題は、すべて人間の世界に存在し続ける数々の過ちの結果です。個人の問題、あるいは社会全体の問題について、皆さんはよく私たち霊にその解決法を教えてくださいと聞きますが、その答えは簡単には与えられません。あなた方がその問題の根本にたどり着くまで、この反応の連鎖はすべて徹底的に繰り返されます。そしてそれらは、しばしばあなた方にとって不快で嫌な方法で現れることになります。すべての深刻な問題は、激しくうねりながら回転を続ける悪循環に起因します。そしてみなさんは、根元の原因を発見するために、この悪循環を曖昧なものとしてではなく内面で明確化し、そして理解しなければならないのです。そうすればこの連鎖の最後の輪は必ず与えられます。そしてそれは、誰の目にも見えない隠されたその他多くの輪とは異なり、外に向かって表されます。しかし、これを扱うのは常に大きな痛みを伴います。外見的には必要な救済策が与えられているのに、内面に根本的な原因が探求されていない場合は特に大きな痛みとなります。たとえば戦争は、もちろん悲劇ですが、しかし場合によっては必要な最後の手段なのです。なぜならば、人間は多くの問題の根本的な原因を探求することを怠ってきたからです。
これはすべてのことに当てはまります。法の執行機関は、それ自体必然的に不完全な存在です。けれども、常習犯罪者たちが犯罪を繰り返す行為は、法の執行機関によって食い止められなくてはいけません。もう一度言いますが、この連鎖の最終的かつ激しさを伴う結果を避けるためには、解決策はもっと早い段階で見つける必要があるのです。これらすべての悪循環の中には、法を破る人だけでなく、明らかな犯罪者だけでもなく、すべての人がかかわっています。悪循環を阻み、最悪の結果が生み出されることのない、そのような世界を築くためには、しっかりとした土台を築かないといけません。それは、あなた方自身が自分の反応を分析すること、そして激しいうねりとなって現れる無意識の感情的な自分自身の反応がどれほど悪循環に加担してきたか、また現在も加担しているか、ということを理解することによって築くことができるのです。このようにして、あなたや多くの人々はこのすべての連鎖を止めることができるのです。

今日私がここで申し上げたことは、あなた方はそこまで重要なこととは思っていないかも知れませんが、非常に意味があり重要なことです。このような極めて微妙な概念を人間の言葉に置き換えるのは非常に困難であるだけでなく、こうした言葉の奥にある深い意味を知り、この問題の持つ大いなる影響力を理解するためには、皆さんの多大な努力と探求が必要である、ということを私は申し上げたいのです。

このテーマについて、何か質問はございませんか?

質問:つまるところ、真の権威者と言えるのは一人だけ、つまり、神がその御言葉を託す者だけなのではありませんか?

回答:もちろんです!まさにおっしゃる通りです。神こそが唯一の権威です。しかしながら、このレクチャーで私がお伝えしたいのはそのことではありません。皆さんは誰もまだ十分に発達していませんから、神が常にあなた方を通じて現れるというわけにはいきません。時にはそうしたことも起こりますが、しかしそれはあくまで皆さんが防御を解き、柔軟な状態にいるときに限られています。そうでなければ、神の御声は迷路を通り抜けることはできません。皆さんの中には、不完全性、恐れ、不安、自己意志などのあまりにも多くの層が存在しているために、神がその御姿を常に現すことができないのです。また、今日のレクチャーでは、神の権威を受け取るか、人間の権威を受け取るかという問題については扱っていません。私がお話ししたのは、そのような権威に対するあなた方の態度を知る、ということです。あなた方がどれほどまでに神の御意志を求めても、幼少期の反応というのは気づくことさえできないほどに、あなたの現在の反応に影響を及ぼしているのです。また、それは同じようにあなたの神に対する態度にも影響を及ぼしています。このレクチャーでは、他の人々にアドバイスや意見を求めるという問題については触れませんでした。これも一つのテーマで、直接的にではありませんが、今日私がお話しした問題と関連しています。しかし、これについては単に基本的な問題、態度の一つの要素にすぎません。最初のステップは、たとえその人の態度がどんな形をとっていようとも、人間の権威の概念に照らしてその人の態度を考えてみることです。分かりますか?

質問:今日お話しされた2つの分類の内、誰もがどちらか一つの傾向が優勢であるということでしょうか。

回答:いいえ、違います。私は、場合によっては、多かれ少なかれ、半々に混ざっている可能性があると申し上げました。ほとんどの場合は、一つが少しだけ優勢になって現れ、時としてどちらかが本当に支配的になります。この場合、いつ、どんなときに、そしてどんな状況にあるとき、またはどんなタイプの人といるときに、どちらかの傾向がより強く現れるかということを知るのは大変有効かつ興味深いことです。このことは自己探求の最も重要なヒントを与えてくれるでしょう。その中に、あなたの振る舞いのパターンを知ることができるでしょう。

質問:極端に走ることを改め、またバランスをとることに取り組むための何か特別な方法はありますか?

回答:それについては、すでに方法を示しました。最初のステップは、あなた方がそれぞれ個人としてどちらのタイプか、または両方かを見つけ、どんな時にそしてなぜどちらかの面が優勢になるのかを理解するのです。過去の幼少期にまでさかのぼり、日々の反応を観察し、理解にまで至るのは時間がかかることでしょう。しかし、一度これが成し遂げられると、あなたは自分の考えを明確化するという次のステップに進むことができます。誰にとってもこのプロセスは同じです。すなわち、間違った方法で感情的に反応するあらゆる例を認識することによって始まります。たとえて言うなら、すべてのイメージ/結論は、そのような認識なのです。日々の自己観察の中で、感情的な反応の不完全な前提を認識するだけではそれを変えることができないと分かってください。感情はその方法ではコントロールできません。それについては、私はしばしばお話ししてきました。しかし、このレクチャーで教えたやり方で感情について瞑想し、心の中で形成されるべき正しい概念と間違った反応を比較し継続的に観察することによって、感情を変えることができるのです。瞑想を拡大させて、神に正しい概念に気づくための助けを求め祈ってください。たとえそれが最初は知的な理解を求める祈りであってもかまいません。「自分はすでに感情レベルで正しい概念を自分のものにした」などと自分自身の真の姿から目をそらさず、あなたの感情がいかに正しい概念からはずれたものかを理解しながら、あなたの間違った反応と正しい概念を比較するとき、このプロセスは徐々にあなたの感情を変化させていくことになるのです。このやり方によって、あなたは少しずつ間違った感情を正しく変えていくことができるのです。発展と浄化のこのプロセスによって、あなたは間違った流れを正しい流れへと導くことができます。

質問:法を破る者たちにとっては、自己意志が主な隠された傾向で、法を支持する者にとっては恐れが隠された傾向なのでしょうか。

回答:そうです。それはもちろん真実です。これらはそれぞれの分類にとって優勢な因子だと言えます。自尊心というものもまた、両方の場合において重要な役割を果たします。さて、そろそろ霊界に戻ります。皆さんのもとに、とても力強い祈りを、あなた方一人ひとりの上で輝く天の光を残していきます。たとえ悲しくて、落胆することが起き、そこに理由を見い出せないとしても、どうか失望なさらないでください。生命は永遠です。個々の人生、つまり、一人ひとりが勇猛果敢に進むこの道(Path)の途上、あなた方は今、永遠に存在するレンガを積み上げているのです。このレンガによって建てられた家の中では、永遠の幸福に包まれて生きることができます。そこでは、一切の苦悩や悲しみや別離から解放されます。ですから、どうぞ、平和の中を歩んでください。皆さんが肉体と魂と霊の中で祝福をお受けになることを祈ります。どうか、皆さんが神の内にあらんことを!

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