top of page

No. 47 内なる壁

Pathwork Guide Lecture No. 47
1996年版 
1959年2月27日  


内なる壁 THE WALL WITHIN


 神の名のもとに集うあなた方にご挨拶申し上げます。あなた方すべてに祝福がありますように。そして、この時間にも祝福がありますように。

すべての人が、完全であること、愛すること、本当の善、そして光と真実を求めて懸命に努力をしています。この欲求は、すべての人間の神聖な輝きの中に宿っています。しかし、その欲求がいつも純粋なままで、その輝きを囲む不完全性の層を通り抜けてくる訳ではありません。それはまるで、太陽の光が汚れたガラスを通して差し込んだとき、反対側にある光はぼやけてしまっているのと同じです。

 しかし、みなさん、このハイヤーセルフから来る欲求とは別に、完全さを求める欲求は、ローワーセルフからも来るのです。これは、目的が身勝手で利己的であれば望ましい結果をもたらさない、ということに気づいている人にとっては事実なのです。もしあなたがローワーセルフの目的だけを果たそうとするなら、愛されたり、賞賛されたりすることはまずないでしょう。従って、善に対する欲求も利己的であると言えます。これを理解し、善に対する欲求が、必ずしもハイヤーセルフだけから来ている訳ではないということに、あなたの内で気づいてください。これは、多くの人にとって、より問題を複雑にするでしょうが、あなたが自分の感情や欲求、動機に気づくようになれば、明晰さを得ることができます。そしてその時、あなたは、純粋な動機と利己的な動機とを見分けることができるようになります。特に利己的な欲求を発見したあとには、時々、この混乱がとても強いために、多くの人がその善の欲求に従っていいものかどうか分からなくなります。あなたは確かに、あなたの内面と行動において正しさや善を求め続けなければなりません。しかし同時に、あなたは自分の欲求が、どの程度自己中心的な欲求に影響されているのかを明らかにする必要があります。この葛藤は、しばしば意識されてはいません。あなたは自分が真善美を強く望んでいることに気づいていますが、あなたの内なる声が、「もし私が、これこれしかじかをするなら、それは、純粋な善であり、本当に利己的ではないのだろうか?」と言うのです。このようにして、あなたは自分自身のよい動機に対して混乱し、確証が持てなくなるのです。

 物事をほとんど理解できない、いまだ霊的に幼い人間は、自己中心的な結果を求め、その身勝手さで欲しいものが手に入ると思っています。霊的な未熟さから脱しより成長した人なら誰でも、利己的な目的を果たすことは、その利己的な衝動に耐えるよりも大きな損失をもたらすということをよく知っています。このレベルでは、もっとも原始的な段階を脱していますが、いまだ利己的な欲求が感情的に成長する段階には至っていません。ほとんどの方々がこの段階にいて、まさに苦闘しているのです。

 最初のステップは常に、あなたの持つ欲求、動機、感情の意味に気づくことです。そこから先、あなたの進む道は、容易になっていきます。善に対するあなたの欲求が、聖なる輝きから来ているのか、そうではないところから来ているのかを認識してください。いったんこれが明確になれば、自己認識の中でさらに前進するだけではなく、その認識が、あなたにさらなる心の平和をもたらすでしょう。これは、気休めでも慰めでもなく事実です。あなたが、自分の中に身勝手さが大きな場所を占めているという認識をより全面的に受け入れ、そして、今のあなた自身より完璧でありたいという欲求を進んで手放そうとするとき、本当の意味において自己と向き合い始めるのです。傲慢さを手放すことは健全なことです。そして、感情的にもそうでなくても、健全であることは、あなたによい影響を与えます。あなたが自己の内面で真実に抵抗するのをやめると決意したとき、真実は、いつでもあなたに健全さと心地よさをもたらすのです。

 人が霊的に成長し、感情的に成熟するとき、自己認識は、より深いレベルへと進んでいきます。成長の最も初期の段階では、「よいこと」は外部に対してなされますが、意識的かつ故意に、その内面に利己的で邪悪な考えを抱いています。このような状況に出会ったとき、その行動には二つの形があります。まず一つ目は、この道において、そのことに関する霊的な真実を求め、その瞬間のあなた自身を謙虚に受け止めて、今はまだ変わることができないということを受け入れるように努めます。主として、他者の賞賛を手に入れるために表面的によい行いを演じる代わりに、自分自身は完璧さからは程遠い存在であることを認める勇気を持つというものです。もう一つは、他者の欠点の中に自己弁護を求めながら、自己を正当化し、そのような邪悪で思いやりのない欲求を心に抱いて独善的な「説明」をするというものです。あなた方は、これを偽善と呼びますが、多くの人が、このような行動をとっているのです。

 このような態度は非常に愚かで幼稚であって、私たちがこのことに関して煩わされる必要はありません。しかし、この偽善的な態度が、より微妙で捉えにくく、より深く無意識に埋もれていくことで、物事は無限に困難さを増していきます。よい欲求は、無意識の奥に隠され抑圧されている利己的な欲求に重ね合わされます。これは、部分的にはハイヤーセルフが心の底から努力しているために起こり、また部分的にはローワーセルフの身勝手さのために起こります。魂を、病んで弱い状態にする人間の葛藤はここから始まります。どのような形ででも、このことが当てはまらない人間が一人もいないことを我々は懸念しています。
利己的な動機を抑圧すればするほど、それだけ自己の中に混乱と無秩序を生み出します。根本的な誤解は次のようなものです。あなたは、偽善という最も未発達なものに嫌悪を感じ、それゆえに本当の感情を抑圧します。なぜなら、あなたは他に選択肢がないという誤解を抱いているからです。あなたは、間違った欲求の存在を無視しようとします。でなければ、あなたの嫌悪する偽善者に成り下がってしまうに違いないと考えているからです。あなたは、唯一健全である第三の選択肢を無視しています。しかし、この第三のアプローチがあなたの追い求めている完全性へとあなたを導いてくれます。つまり、それは、あなたの中にある間違った欲求に屈することなく、またその存在を抑圧もせず、その間違いに向き合い、認めるというものです。始めはいつも困難を伴います。なぜなら、あなたの中の感情を整理し、その意味を考え、あなたが今まで目をそらし続けてきたすべてのものに向き合わなくてはならないからです。

 あなたが自分に正直になることを学んでいくほどに、真実がより深くあなたの魂の中心部に浸透していきます。しかし、そこに至るまでにたくさんのことに取り組む必要があります。意識的な感情や思考、物の見方や結論、そして欲求と、無意識の感情や思考、その他先に挙げたものとが一体どこで分けられているのか、人間の魂の中に存在する壁を理解するのです。ご存知のように、思考や感情は、形のある物質と同様に、現実に存在するものとして繊細な物質を作り出しています。ですから、魂の内にあるこの壁も現実に存在するものです。悲しいことに、多くの場合はあなたの問題よりも大きな現実なのです。あなたの抱えている問題などは、これらの内面の壁に比べれば、はるかに容易に解決できるでしょう。壁のこちら側は、あなたが向き合い、認識しているものです。壁の裏側には、あなたが見たくないので押し隠したものすべてがあります。あなたは、自分の欠点や弱さだけでなく、あなたを混乱させるものやあなたを恐怖に陥らせるものもこの壁の奥に押し込めています。あなたが無意識に作り出した間違った結論のために、あなたは、壁の裏側に閉じ込めたものを恐れ続け、向き合おうとしないのです。

 それでは、みなさん、この内面の壁を構成するスピリチュアルな物質とは何なのでしょうか。このスピリチュアルな物質は、あなたが現実世界で何かを作るときに使っているようなものとは違います。あなたは、何かを作ろうとするとき、あなたの嗜好や必要性に応じて素材を選んでいると思いますが、それらの素材とあなた自身とはまったく無関係です。しかし一方で、スピリチュアルな物質というのは、あなた自身の思考や感情、あなたの存在が生み出すもので、それらのものから形作られます。

 ですから、あなたの持っていないものを使うことはできません。そして、あなたが持っているものとは、あなた自身のみなのです。内にある壁を構成する物質は、部分的にはあなたの善意ですが、これは、自分で作り出した間違った結論と無知のため何の役にもたっていません。この壁の目的が、ネガティブなものを隠すことだということを忘れないでください。そして、隠したいという欲求の動機の一つは、実際には善意の誤用なのです。 しかし、この壁の構成要素には、臆病さやプライド、セルフウィル(身勝手さ)や忍耐のなさなども含まれています。そして、その忍耐のなさは増大していきます。なぜなら、あなたは無知から、単純に壁を作って、多くの時間や努力を要することを閉じ込めてしまえば、即座に完全性が手に入ると考え、そして望むからです。この壁の裏側にあるものにきちんと取り組むには、あなたはあまりに忍耐がなくかつ怠惰なのです。そして、このような傾向のすべてが、あなたの魂の内の壁を作る材料となっています。

 自己認識や完全性に向かう道の途上で人が進化するとき、人は、ゆっくりとある傾向や態度を壁の向こう側から取り出し、意識の領域へそれを移し始めます。このようにしてプロセスが進むことは、もうみなさんはご存知だと思います。これが、私が提唱し、あなた方に教えているワークなのです。このプロセスの中で、内面の壁はなくなっていくのです。壁の後ろから持ち出すものが多ければ多い程、閉じ込められているものが少なくなっていきます。これは、とてもよいワークで、ずっと続けていく必要があります。しかし、もしあなたが統一され、真に健康でありたいと望むなら、いつの日かこの壁は崩壊させなければなりません。あなたがこの壁の一部でも自己の中に存在させる限り、どれだけ努力をしてこの壁を薄くしたとしても、あなたは統一されてはいません。そして、あなたは、神が意図したように機能することができません。ですから、あなたの目指すべきなのは、この壁を完全に破壊することなのです。大抵の場合、これはすぐにできるものではありません。もし、これを性急にしようとすれば、精神は崩壊し、それが引き起こすあらゆる類の困難な事態に苦しむことになるでしょう。より賢明な方法は、この壁を薄くしていき、徐々に壁の後ろに閉じ込めたものを取り出していくことです。そのようにして壁は薄くなるだけでなく、これが適切に行われることで、壁を作り上げている要素である傾向や態度自体が弱まります。それ以外の方法では、例え壁の後ろから閉じ込めておいたいくつかのものを取り出すことや、その壁を少しだけ後方へと追いやることに成功したとしても、壁の持つ力は完全に存続し、それどころかより強力になるでしょう。それでは次に、これがどのようにして起こるのか、そしてその危険性をどのように回避したらよいのかを説明しましよう。

 もう一度強調しておきますが、いつの日かあなたの中にある壁を破壊する必要性があることを認識しておくことはとても重要なことです。人格を過度にかき乱さなくても、壁を壊すことは可能です。この内面の壁が崩壊して初めて、あなたは霊的な次元で生まれ変わることができます。そしてあなたの魂は、あなたの創造主の前で、あなた自身の前で、生まれた時のようにありのままでいることができるようになります。神聖なる物質があなたを満たし、あなたの中に根づくために、あなたは、裸になり、無にならなくてはならないのです。あなたの中にまっすぐにそびえる壁が存在する限り、その壁がいかにもろかろうが、奥に押し込められていようが、その壁の強度に比例して、聖なるものの力の効力は落ちていきます。つまり、壁が厚いほど、あなたを満たすはずの神聖な物質の力は、弱まるのです。

ですから、みなさん、あなた方はこの道で順調にワークに取り組んでいると思いますが、ここでは、あなたの中にあるこの壁をイメージしてみてください。あなたは、瞑想することでそれを見つけることができ、自身の行動を観察することによりその壁がどのようなものかを感じとることができます。そしてあなたは、自分のどこに壁が存在するのかも知ることができます。それがどこに存在するのかが分かれば、その壁を最終的に完全に破壊することがより容易になるでしょう。

 それではここで、あなたが避けなければいけない危険についてお話ししましょう。先にもお話ししましたように、壁の背後にあるものを少しずつ解放していくのがよい方法なのですが、無意識に中途半端なやり方をすることで、かえってその壁を強化してしまう危険性があるのです。では、いつ、どのようにこのようなことが起こるのでしょうか。それが起こるのは、あなたが、正しい思考や教え、信条、認識を、背後に隠し続けたいもののカモフラージュとして使うときです。みなさん、これは、よく見られる行為です。どのような真実も、この摂理を免れることはできません。多くの人が真実を探し求めており、そして真実は、さまざまな経路からもたらされます。しかし、その真実の探求がどれだけ真摯であったとしても、ほとんどの人が、自己の内にある特定のものに向き合いたくはないのです。ここでは、二つの相反する欲求が同時に存在しています。一方では真実を追い求めながら、もう一方ではその真実を、壁をより強固なものにするために利用しているのです。こうして、あなたは、自分の欠点や感情的な葛藤、恐れ、そして、ネガティブなものを真実の後ろに隠してしまうのです。このような粗野で見せかけとも言える真実の間違った使い方は、簡単に見分けることができます。それは、狂信的に独自の教えに固執するあらゆる宗教の中に見られます。すべての種類の間違いに自分を委ねるこのような人は、自分の選択した宗教的真実というものを掲げながら、あらゆる種類の間違った態度を取っているのです。

しかし、忘れてほしくないのは、基本的に、もっと分かりにくい微妙なやり方で、ほとんどの人間が同じことをしているということです。あなたがさらに感覚を研ぎ澄まし、直感力を向上させれば、あなたの近しい人たちがこのような行為に陥ったとき、そのパターンを聞き分け、しっかりと気づくことができるでしょう。恐らくあなたは、そのことに異議を唱えるでしょうが、あなたもまた同じことをしているということに気づかないふりをして別の真実を盾に使っているのです。その真実とは、宗教的なものかもしれません。または、スピリチュアルに関するものであったり、形而学的なものであったり、哲学的真実かもしれません。それは、純粋に倫理的であり、道徳的で宗教とはまったく関連のないものかもしれません。それは、心理学的真実や精神分析学的な真実でもあり得るのです。あなたが使っている数々の理論や言葉、表現は、真実であり、それ自体は正しいものです。しかし、あなたがそれを本当の自分を隠すために使えば、それは間違った使い方であり、その正当性を失ってしまいます。それらの真実は、本来の意味を失い、融通の利かない、意味のないものになってしまうのです。あなたが用心深く、自分の中のこのような傾向に注意をしていないと、どのような真実もこの摂理を免れることはできません。私があなた方にお話ししているこの教えも、同じように誤用される恐れもあります。もちろん、それは意図的にされる訳ではなく、無意識の内にそのようになってしまうのです。

 例えば、あなたがある特定の言葉を使うとき、その本来の意味合いをもう感じられなくなっていたら、あなたが無意識の内にこの落とし穴に陥っていないかどうか自分自身を確認するときが来ているということです。あなたは、自分自身についての実際の認識の背後に隠れているかもしれません。例えば、それは、イメージや間違った結論、もしくは、今までに見つけ出したあなたの欠点などのことです。あなたは、それらの背後に隠れ、それらを内面の壁の一部として利用しています。あたかもあなたの中にある何かがこう言っているかのようです。「私は、こんなにも頑張ったのよ。これ以上は頑張れない。今の私は、喜んで、こんなことにもあんなことにも向き合うわ。でも、それ以上は勘弁してほしいの。私の持つ欠点や内面のネガティビティを認めることは、私という存在の中心にたどり着くことを手助けしてくれる人たちを安心させると思うわ。誰も手助けしてくれる人に、私は、気が進まないのとは言えないでしょう?でも、本当に私を悩ませているのは、私が自発的に内面のものを曝すつもりはないということなの。私は、それを隠し続けることができるいい方法を発見したのだから。」

 恐らく、このようなことはあなたにとってとても奇妙に聞こえるかもしれませんし、私の話の意味することをまだつかめていないかもしれません。それでは、ここでもう少しはっきりと明確に説明してみましょう。例えば、あなたがこの道を善意と誠意を持って歩み始め、ここまで順調に成長してきたと仮定しましょう。そして、あるかなり大きな認識に至り、この道を探求しているにもかかわらず言い訳したり正当化したりして自分自身と向き合うことに抵抗するステージを乗り越えたとしましょう。だからあなたは、最初の抵抗を打ち破り、内面の壁を打ち払い、それによって特定の情報がもたらされるようになりました。以前は、この道の上にいるというだけで精一杯でしたが、今この時点で、この道をとてもうまく進み始めています。しかし、すべての抵抗が永久に克服されたとは思わないでください。あなたが内面に壁を持ち続ける限り、抵抗は避けられません。ただその形や表れ方が違ってくるだけなのです。あなたがこの道に入るにあたって、あらゆる類の疑いや不安、言い訳やもっともらしい理屈を抱えていましたが、今では、あなたは学び、そして理解しています。しかし、まだいくらか手つかずのままにされている部分もあります。そして、その部分を正当化するために、今まであなたがワークによって理解したことを利用し、都合のいいように作り上げているのです。そして、それらを過度に深刻化させてしまい、自己の中に深く入り理解することを妨げているかもしれません。あなたは、同じ言葉を何度も何度も使い、その言葉の意味合いが硬直し、言葉に生命力がない状態になってしまいます。どのような真実でも、そのようなことが起こり得ます。もし、真実が真実でなくなったなら、そして、言葉が機械的になってしまい本来の意味を失ってしまったなら、そのときは、あなたの内面をこのような視点から探求し、再び壁を見つけるときなのです。いったんそのことに気づくことができたなら、あなたは自分の無知や抵抗と健全に戦うことができるようになります。

 自分が作りあげた壁の背後にいつどのように隠れたのか、どんな真実を間違って使っているのかを見つけ出せるのは、あなた自身だけなのです。自分の感情を調べ、その声を聞くことによってのみ、あなたはその答えを得ることができます。あなたが、最初の抵抗を乗り越え、初めて勝利を勝ち得たという事実こそが、大抵の場合、あなたがこの道から再びはずれることはないことを示す重要なことなのです。しかし、これは、他の抵抗がないことを意味するのではなく、また他の勝利がないと言っている訳でもありません。あなたは、この道から決して外れることはありませんが、ある地点まで来たときにそこから身動きがとれなくなり、さらに深みに進むこともできず、同じところをぐるぐると堂々巡りするかもしれません。これは、真実やあなたの中に見出したものが身を隠すための隠れ家として使われるために起こることなのです。

 無意識は、それ自体がもともと言い訳や口実を手放すのを嫌がるものです。なぜなら、そうすることで、隠してきた危険性を明るみに出してしまうのではないかと恐れているからです。しかし、多くの場合と同様に、これは無知から来るものであり、その点において間違った結論を引き出します。ですから、あなたの意図がどれほどよいものであったとしても、無意識は、内面の壁を崩壊させることを拒絶しており、あなたが正しい方向で学ぼうとするのを阻止しようとあらゆる計略を企てます。私が今このことをお話しするのは、さらなる勝利を得て魂のより深いところへと行くために、今の時点でどのような危険性があるのか、そしてあなたの中のどの部分を見たらよいのか、ということを理解してもらうためです。今あなたは、どのように自己にアプローチをしていけば、低迷を避けることができるのか理解できたと思います。みなさん、いかがでしょうか。

 ここで、私がお話ししたことをよく考えてみてください。私は、隠されている危険や微妙な危険について説明をしました。もしあなたが、心の底からあなたの中にある壁を崩壊させたいと望み、魂を空っぽでそして裸にしたいと望むなら、その時あなたは、あなたの中のどこに壁があるのか、そしてその壁がどのように存在しているのかを正確に感じとることができるでしょう。他人の中の壁に気づくのは、とても簡単なことです。しかし、人は自分の中の壁となるとまったくと言っていいほど気がつかないものなのです。あなたは、他者とは違う真実や、違う気づきの後ろに隠れているかもしれませんが、それは他者と同じです。あなたの祈りの中に意図を持ってください。まず、壁を見つけることができるように神に助けを求め、その壁を壊す勇気と謙虚さをもたらしてくれるように祈ってください。

 さて、これから質問に入る前にお話ししておきたいことがあります。2番目の小さなグループが作られるという計画が実現しました。それは、いわゆるインナーサークルと言われている最初のものによく似ています。私たちは、このグループを利用することを強くお勧めします。共通の問題意識を持ったグループワークでは、あなたは非常に多くのことを達成することができるでしょう。お互いが助け合い、イメージを見つけるために集まりワークに取り組むあなた方は、さまざまな問題や困難なこと、そして乗り越えてきた成功体験などを話し合えるさらなるグループワークに取り組むことができます。同時に、それは絆を築くのに役立つでしょう。私たちは、このような取り組みをお勧めします。そしてこれを祝福します。

 それでは、みなさんの質問にお答えしていきましょう。

 質問:心理学上の表現で言う「流れ」とは、意識や無意識の道具として使われるものでしょうか。言い換えるなら、無意識とか意識は、道具なのでしょうか、それとも、この二つは、つながっているのか、同一のものなのでしょうか。

 回答:そのどちらでもありません。「流れ」というのは、実際には、あなたの感情、思考、喜怒哀楽、態度などの結果です。つまり、あなたの意識と無意識の傾向や性格的な特徴の総合計のようなものです。それがあなたの人生を支配し、あなたの人生に特定の出来事をもたらしているのです。

 では、セルフウィル(身勝手さ)の「流れ」を例に取ってみましょう。それは、そこにあり、あなたが意識的であろうと無意識であろうと違いはありません。セルフウィルを使うことによって流れが生まれ、その流れが影響力を持ちます。セルフウィルの流れは、それ自体が身勝手なのではありません。セルフウィルが働いているということです。セルフウィルは休眠状態にあったり、使われないこともあります。そうすれば、その流れは弱くなります。つまり、それが事実上非常にうまく隠されているために、個人の性格の中でどのような影響を及ぼしているのか分からなくなるのです。しかし、例え無意識にでも、そんなふうには現れなくても、もしくは遠まわしに隠されたやり方で現れたとしても、もしそのセルフウィルが使われた場合、それは流れによって引き起こされているのです。電流のようなものを想像してみてください。電流を生み出すには、特定の条件が必要です。これとまったく同じことです。電流が発生したのは、それを生み出すための条件が整ったからです。ご理解していただけましたでしょうか。

 質問:それでは、意識や無意識は、道具のようなものなのでしょうか。それとも、倉庫のようなものなのでしょうか。

 回答:まず、倉庫は、道具ではありませんね。それは、無意識や意識を生み出すマインドです。あなた方の表現を使えば、それは性格で、意識や無意識から構成されており、意識や無意識を生み出します。ですから、道具ではありませんね。道具とは、何か受身のものです。しかし、マインドというものは、能動的に流れを生み出すものなのです。

 質問:「~ねばならない」が終わり、義務が始まるのはどこなのですか?そしてそれらの違いはどのように見分けるのでしょうか。

 「~ねばならない」や何かを強制することは、常に真実でなかったり、ごちゃ混ぜになったり、混乱している動機の結果です。義務とは、完全に自発的な行為です。あなたが脅迫的な衝動なしに、義務を果たすならば、それはあなたがそうすることを決めたからです。もしかすると、あなたは、人生に何かを強制されたように感じるかもしれません。しかし、人生とは完全にあなたが選択した通りにはならないし、受け入れなければならないさまざまな状況や困難をもたらすということに気づいたなら、好きとか嫌いとかにかかわらず、健全な態度とはありのままの人生に「イエス」を言うことなのです。そうすればあなたは、自発的に義務を受け入れることができるでしょう。もし、あなたが感情的にありのままの人生を受け入れられず、他に選択肢がないという理由で義務を遂行するなら、あなたは何かに強制され、自分の意思に反してそれを行っており、それゆえに、それは「~ねばならない」行為になるのです。例えば、以前にもお話ししたように、人生の不完全さは、その精神で受け入れられなければなりません。これには、義務となるようなことも含まれます。例えその抵抗が無意識であっても、このような不完全さに常に抵抗する人は、まるで服従を強いられる子供のように自分の意志に反した行動をとります。成熟した態度とは、もっと自由なものです。このような本当の意味での自由とは、いつでも好きなことばかりできるという意味ではありません。しかし、必要なことは前向きに受け入れ、内面では、「イエス」と言えるということです。言い換えれば、負わされて避けられない義務、それに対しての葛藤を受け入れることと、意思に反して何かを受け入れるように強制されることとの間には明らかに違いがあります。その違いは、あなたの態度の中にあるのです。

 質問:人のオーラと存在領域、または魂像との関係性とそれらの違いは何ですか。

 回答:これらは、まったく違うものです。それらは互いに何の関係もありません。存在領域とは、その人の行い、思考、態度、感情などから作られています。人格は急には変わらないので、存在領域は、急に変化するようなものではありません。ですから、存在領域は、人格が変化するまでは、変化もなく、そのままの状態を維持し続けます。それは、その人の人生の産物で、後にその人の霊的な住処となります。

 オーラは、人格から放射しているもので、あなたが何を築こうと直接的には関係はありません。次のように説明するとよく分かると思います。存在領域とは、あなたの行動の結果です。その行動には、無意識のものも含まれています。それは、あなたの魂の活動です。オーラとは、あなたが受身でいる状態で生成されるものです。それは、あなたの存在そのものが生み出すものです。それは、あなたという存在であり、あなたのすることではありません。これが一番わかりやすい説明だと思います。他には、説明のしようがありません。そして、その表れ方に関して言えば、違いはもっと大きくなります。透視能力を持つ人は、人のオーラが見えます。それは、オーラ体から発しており、人の肉体の中にも浸透しています。それは、さまざまな感情、身体、魂が病んでいる部分やその人の基本的な性格をさまざまな色で反映しています。一方で、あなたの活動で形成される存在領域を見ることができる透視能力者はほとんどいません。それを見るには、限られた目的の中で、私たちの助けを必要とします。誰もが持つ能力ではないのです。これ以外に説明する言葉が見つかりませんが、理解することが難しいことはわかります。しかし、最大限私の言葉を活用してください。

 質問:権威に関するレクチャーに関連があるのですが、特定の権威に対して、無意識では、その権威を支持しているにもかかわらず、意識的には、激しい恨みや嫌悪、反感を持って反発している人に対して何かさらにアドバイスをいただけませんか。

 回答:喜んでこの質問にお答えしましよう。特定の権威の形に対して、意識的に反発している一方で、無意識では法の支持者でいることをいったん認識すれば、変化する可能性は十分あります。しかし、この認識がなければ、何も変化は望めないでしょう。そして、次のステップは、私が繰り返し何度も言っていることですが、次の視点から、毎日の生活におけるあなたの反応を観察します。「私は、どのように感じているのか。私は、どのようになりたいのか。私はなぜこのように反応するのか。この反応の背後には、何があるのか。ある状況で、私をこのような反応に駆り立て、違う状況では、まったく違う反応に駆り立てる感情とはどのようなものなのか。なぜ私は、法の支持者であったり、法を破る者であったりするのだろうか。」

 あなたが、自分の感情を意識し、はっきりさせることを学び、これらの質問に対する答えを得ることができたなら、あなたが最近発見した反応の原因となっている、自分という存在のより深い層を理解することができるようになるでしょう。しかし、それも最後の答えではありません。それは、最後の答えへと導いているものにすぎません。

 日常のあなたの反応を継続的かつ客観的に観察してください。そして、その反応に対するあなたの考え方を見つけ出してください。あなたの反応の背後に何があるのかを見つけるために、日常の反応から学びを得てください。これ自体がすでに、大きな癒しの力になるのです。さらに、焦ることも緊張することもなく、変わらない忍耐力でこれを続けていけば、あなたがとるその態度の原因となる間違った考え方をすべて見ることができるようになります。大切なのは、その結論を通して、なぜ、どのようにその結論が間違っているのか、正しい結論はどうあるべきなのかを考え直すことです。質問するというプロセスを育て、いかにして感情がいまだに古いパターンに固執しているのかを観察してください。この感情というのは、脳のメカニズムに比べてゆっくりと働くので、初めは気づかない程わずかでも、徐々に変わり始めます。これが、唯一の方法なのです。

 これとの関連で、最近の個人セッションの中で私が言った大切なことをお話ししたいと思います。なぜなら、それはあなた方すべてにとって大切なことだと思うからです。

 権威というものは、感情的にあなたが敵対するものやあなたの望みを禁ずるような束縛する力を意味するだけではありません。権威は、個人的にあなたがもっとも愛している人々によっても示されます。なぜなら、あなたは、彼らに依存しているからです。多くの人は、子どものときにこれを経験しています。大人になってからも、いくらか違った形でこの状況は繰り返しています。

 あなたは、両親を愛しています。けれども、彼らは、あなたにとっての権威者なのです。あなたが両親を愛しているがゆえに葛藤は起こります。自分の愛する人に依存せずにはおられず、それゆえにその人が権威となる、という問題をどのように解決したらいいのだろうとあなたは思うでしょう。この問題の答えを見つけるために、あなたの愛を調べてください。そして、正しい中道を見つけるのです。一方に極端に偏った状態では、自己を手放すこともできず、結局愛することもできなくなります。恐怖が強くセルフウィル(身勝手さ)も増すため、自己を手放すことができないのです。もう一方に偏った状態では、今度は、間違った方向に自己を手放しすぎることに起因する過度の依存状態になります。このようにバランスを欠くと、不健全で有害な流れが優勢となってしまいます。再びバランスを取り戻すためには、問題点に気づき、その間違った二つの両極を理解するまでその問題を直視しなければなりません。よく見られる傾向に、自己をまったく手放さないということがあります。それを何度も繰り返し調べてください。それをただ受け入れ、ガイダンスと気づきを求め、祈ってください。そうすることで、あなたの感情は少しずつ正しい中道を見つけていくでしょう。

 過度に依存しているために愛する人が権威者となっている人は、健全で真実の愛において自己を完全に手放してはいるけれど、しかし自分の人格を束縛され、依存したままにしない新しい方法で自己を保つことことを学ぶでしょう。あなたは、自己を完全に手放すことで、以前よりもっと自由で新しい自分を取り戻さなければなりません。自己を手放す恐怖は、人間に共通する弱さであり、それはしばしば病気の原因となります。しかし、まったく正反対のケースも見られます。しかし、あなたが考えるよりも、これらの両極はもっと似ていて近しいものなのです。真に手放すとき、正しい方法と正しい状況が選ばれます。そこには、誤りは存在しえず、互いに成熟した他人と自分自身が出会う場となるでしょう。いまだ成熟していない人は、自己を手放すことを巧みに利用するようなことを無意識に選択します。そして、そのことが生み出す恐怖が、自己をまったく手放せなくしてしまうのです。成熟とは、意識的に理解することです。その理解が、次第に直感的な力を育てていきます。そして、その直感によって、過度に何かを利用することがないような正しい選択ができるようになるのです。

質問:スピリットの世界では、自己から逃げ、安易な道を選択してはいるけれど、真実を求めている人をどのように判断しますか。

 回答:それは、この質問にある人の進化の状態によります。すべての人に同じことが言える訳ではありません。ただ正しく生きようと努め、罪を犯さず、平均的でまずまずの人生を送る人もいます。そのような人たちにとっては、それでいいのです。そのような人生を送るための努力だけが必要なのです。それが、今生でできることのすべてなのです。しかし、そのような人は、いい加減な気持ちでこの道を歩み、途中で立ち止まってしまう人に比べれば、より多くの充足を見つけることができるでしょう。後者は、恐らく、その人のベストを尽くしてはいないのです。

 人は常に、みなが同じようであると考えがちです。しかし、霊的年齢が違うので、みなが同じとは言えません。個人の人格の持つ違う点において、すべての人が進化の違った段階に到達しています。そこには考慮されるべき異なる基本的な要因があるのです。人格、強さ、そして、使命は、それぞれに違っており、それは前世から引き継がれるものです。例えば、怠惰やプライドのために、またはどんな理由があるにせよもっとも楽な道を選択するために、自己を探求し、自己と向き合える人が、もしそれを投げ出す場合、その結果はその人の存在が必ず感じとります。

 我々のスピリットの世界では、モラルに照らして物事を判断することはありませんし、罰することもありません。それらはすべて間違いだからです。ですから、そのようなものはありません。罰するとすれば、それは、あなた自身が自分を罰しているのです。もしあなたが自分の作った計画に背くのなら、もしあなたがこの人生のために立てた計画を実行しないのなら、最後には、自分自身を追い詰めるような状況を引き寄せることになります。そしてそれは、あなた自身のためなのです。あなたは、この事実を他の誰かに見るかもしれません。それは、神が彼らを罰しているのではなく、彼らが計画した人生とは違う方向へ向かい出したので、人生が彼らを追い詰めているのです。人生の計画が守られなかったとき、その計画自体が達成に向けて働き始めます。その人が持つ計画に反するような選択がなされたら、その計画は、人がその計画を着実に実行しているときとは違う働きをするのです。しかし、結局は同じところに辿り着きます。

 経験や時間の要素は、確かに違ってくるでしょうが、結局、結果は同じになります。人生の計画は、バランスと調和をもたらすように働きます。バランスと調和に対して無知に行動すれば、それだけそれらを確立するプロセスに不調和をきたします。しかし、最後には、バランスと調和はもたらされるのです。これは、自然の癒しの力です。そして、同じような癒しの力が、我々を構成するさまざまな要素や肉体、そして魂のために働いています。何かがこの宇宙の力のバランスを欠こうとすれば、自然の癒しの力がそれを元に戻そうと働き出します。しかし、このバランスを取り戻そうとする動きが、時に、劇的な変化のように見えることがあるのです。あなたが計画に背くとき、魂の中でも、雷や地震のような天変地異が起こるのです。しかし、最終的にバランスは取り戻されます。そのような劇的な変化以外には、あなたが取ってきた間違った方向を直視させ、考え直させる方法はありません。それこそが、自然治癒力なのです。

 長い間、あなたは、人生の不幸は他人の不当行為や悪意、そして間違いがもたらしたものと信じ、自己を騙し続けてきました。しかし、そう信じ続けることにも限界があります。最後には、自分の過ちに追い詰められ、その苦痛は自分自身が作り出したという避けられない事実に直面するという状況に陥ります。そしてそのとき、あなたは目覚め、自分で進むべき道の方向を変えることを決意するでしょう。これが私たちの見方です。このような慈愛に満ちた癒しの法則が宇宙には存在しています。そして、我々スピリットが人の魂や内面の光景を見るときに、その人が、魂のプランをどれだけ完全に、もしくは部分的に遂行しているのか、道を逸れてはいるが完全に目的地を見失っている訳ではないのか、または完全に目的の道を逸れてしまい、ゆっくりと最終的には悲劇のように表れる状況を作っているのかが手に取るように見て取れます。しかし、これも、自然界に存在する癒しの力に他ならないのです。

みなさん、私は、あなたやあなたのまわりの大切な人々、そしてスピリットの世界同様、この地球上のすべてのものに祝福を、癒しや愛、強さや勇気をもたらします。この道をこれからも進み続けてください。いまだ道を見つけていない人は、神の御意志と唯一の真実を見せてほしいと祈ってください。そして、この真実のみを受け取れるように自分を開いてください。平和の内に歩み、あなた方すべてを包み込む私たちの愛を受け取ってください。そして、あなたが自分の内にある感覚を外に向かって広げるならば、あなたはひとりぼっちではないと知るでしょう。神の内にいてください。

###

以下の注記は、Pathwork®の名称およびこのレクチャー資料の使用法を示したものです。Pathwork®の商標/サービスマークは、The Pathwork Foundation(パスワーク・ファウンデーション)によって所有され登録されており、The Pathwork Foundationの書面による許諾なく使用することはできません。The Pathwork Foundationは、その単独裁量権において、Pathwork®の商標を、協力団体やその支部のような他の組織および個人による使用を許可します。

著作権にかかる規定
Pathworkのガイドの著作物は、The Pathwork Foundationの所有資産です。このレクチャーは、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーに準拠して複製され、いかなる方法においても変更または省略することはできません。また、著作権、商標、サービスマークおよびその他あらゆる公示の削除は許可されません。
レクチャーを提供される側は、複製と配布のための費用のみを支払うこととします。The Pathwork Foundationのサービスマークまたは著作権で保護された資料を使用する任意の個人や組織は、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーを遵守することに同意したものとみなされます。これに関する情報またはこのポリシーを入手するには、The Pathwork Foundationにご連絡ください。Pathworkという名称の使用は、The Pathwork Foundationによって承認される変容のプログラムを修了したファシリテーターとヘルパーにのみ許可されています。

日本語版の取り扱いについて
Pathwork in Japan (パスワーク・イン・ジャパン) の許可なしに、無断でコピー(複製)、貸与、頒布、販売することを固く禁じます。また、文書およびインターネット上(ウェブ、メール)での引用・転載を含む公開も禁止します。

また、本レクチャーの受領者は、英語版から日本語版を作成する際に発生する複製・配布・翻訳などにかかる費用をご負担いただきます。

さらなる情報やPathworkへの参加については、Pathwork in Japanにお問合せください。
ウェブサイト:www.pathworkinjapan.com
お問合せ先 :pathworkinjapan@gmail.com

※ガイドレクチャーに関するお問合せはメールで承っております。下記メールアドレスまでお願いいたします。
pathworkinjapan@gmail.com



© Pathwork in Japan All Rights Reserved.

bottom of page