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Pathwork Guide Lecture No. 49 道における障害:古いもの、誤った罪悪感、そして私は何者なのか?
OBSTACLES ON THE PATH: OLD STUFF, WRONG GUILT, AND WHO, ME? 1996年版 1959年4月10日
友人の皆さんにご挨拶をいたします。皆さんひとりひとりに神の祝福を。霊的世界にいる私達は、人間を助ける機会をとても喜びます。そして、実際に唯一の助けがあり、他にはありません。それは、自らの幸福を妨げるものを自身の内に見つけ、神の法則を見つける手助けです。
多くの人間は、神が存在するという考え以上に、邪悪な力が存在するという考えを笑って無視します。何故そうするのかは分かりませんが、残念なことに、悪や神に反するものは、皆さんの世界においては現実です。現実から目を逸らすのは理不尽なことです。勿論、自らの外側に悪を探せば、いとも簡単に他者の内に存在する悪を見つけられます。他者の内側で悪と闘うとしたら、それは間違った場所での闘いです。また、自らの外側に神を探せば、神を見つけるのは困難でしょう。従って、悪も神も、探すべき場所は自らの内側にしかありません。
「悪」または「悪魔的な力」という言葉を聞くと自動的に、具体的で過激なものを思い浮かべるでしょう。闇や悪の力という範疇に何が属するのかを明らかにしましょう。それは極端なかたちで現れる残酷さや邪悪さだけではありません。それは、あらゆる形で現れ得る全ての、無知、誤り、真実からの逸脱です。何故なら、神は真実だからです。
パスワークに取り組んでいると、自らのイメージの中に硬直や障害を見つけます。まさに未熟さと呼ばれるものです。人格のこの部分では、あなたは子供のままです。知識や成熟した洞察が欠けている為に、「悪く」いることの自覚的な意図がなくても、悪の力はあなたを捕えることができるでしょう。自己中心的でいれば、傷つくことから身を守れるし、報いももたらされるという根本的な誤認を通して、悪と破壊はあなたの内側で働くことができるのです。自己のイメージの中にあるこの根本的な誤りを見抜くことができれば、それは大きな一歩となります。それは簡単ではありません。何故なら、あなたは自身の感情的な自己中心性に気づいてはいないからです。自らの恐れは自覚しているかもしれませんが、それが自分自身への過度の関心であり、傷つくことへの恐れから来ていることに気づいていません。そして、個人的リスクを伴うように思える、外へと向かう自らの愛と感情を他者から隠します。
自らのイメージと誤った結論を特定し、分析することで、最終的に共通項を認識するようになります。建設的な態度は次のようなものです。「今のところ、私は無意識の内に、利己心は報いをもたらし、傷つくことから私を守ってくれると信じている。私はどの様に利己的だっただろう?この観点からすると、私の結論はどのような点で間違っていたのだろう?正しい結論とは何か?」このような角度から内なる問題を見直せば、これまで隠れていた感情、反応、傾向を見つけた後に、人格に変化をもたらすことができ、それは最終的にあなたの人生を変えるでしょう。
例外なく、全てのイメージには共通の特徴があります。その特徴の相対的な割合が、個人によって異なるだけです。どのイメージにも、劣等感、罪悪感、敵意、嫌悪、攻撃性、無知、恨み、幼稚な利己心、恐れ、他いくつかの妨害的な力が見られます。より原始的な人は、これらの特質を外側に表現し、外側の世界へと向けます。その人が転生を重ねて成長するにつれて、他者は上記の感情を悪いもの、間違っているものと考えており、そのような感情をあからさまに表すことは不利であると理解します。こうして、彼らは破壊的な衝動を隠し、それによって、より原始的な人の表層的な表現とは対照的に、自らの存在の奥底に障害や葛藤を創り出します。
利己主義や自己中心性といった誤りが表にある場合、その反作用は外に向かって直接起こります。破壊的な力は、あからさまに他者へと向けられる為、公然の結果をもたらします。しかし、破壊的な力に鍵がかかった状態が保たれていると、それは自らに戻り、間接的な影響しか他者には与えず、間接的な結果しかもたらしません。あなたは、あからさまで直接的な方法は誤りだと認識しているのに、もう一方の間接的な方法も又誤りであり、同じく不利益な結果を招くと未だ認識していない為、無意識の内に間接的な選択肢の方を選びます。利己心を徐々に取り除くことを学ぶのが、唯一の解決策です。自らの意識の表面下で、感情が何処で完全に間違った形で自己中心性に方向づけられているのかを認識することから、その学びは始まります。それから、利己主義が周りの人だけでなく自分自身にとっても、いかに有害であるのかを学ぶ必要があります。利己主義は、全く正反対に見える表面的な反応で隠されていたとしても、有害であることには変わりありません。
外的あるいは内的な「ねばならない」という理由で、より深い感情を遠ざけようとする限り、成功することはありません。この「ねばならない」は、自己強制を示すだけではありません。(ご存知の通り、感情は強制には応じません。)これは、不純な動機も示しています。望ましくない、褒められない性向を早く取り除きたいのです。何故なら、あなたの褒められない姿があからさまになるからです。そのような動機は、あなたが排除したいと思う利己主義そのものの証拠であり、例え強制的な要素から切り離したとしても成功することはありません。しかし、相手のことを誠実に考え、自らが傷つく可能性があったとしても、周囲に幸福と愛をもたらしたいという願いの為、自己中心性を取り除きたいと思うのであれば、その動機は純粋であり、いずれ成功するでしょう。神の助けによって、非常に破壊的な自己中心性が引き起こす誤りの連鎖から真に解放されます。利己的な感情を埋没させ目を逸らすのではなく、むしろそれを明らかにし注意深く観察してください。
このようなことは全て、これまで何度も述べてきましたね。しかし私は今、皆さんの知性的な表面の知識にではなく、皆さんが自己探求によって明らかにしている感情のレベルに向けてお話ししています。これまでに認識したこと、これからも認識し続けること、このこととは見たところ何の関係もなさそうな感情的反応、この道でのワークで自分自身について見つけたこと、これら全てに当てはめてみてください。
新しい認識と出会い、魂と人生に葛藤をもたらす感情的な反応を無意識のマインドから取り除く時、おそらく二種類の躓きのブロックに直面するでしょう。このような認識は、最初は明らかに直面するのが不快でしょう。ふたつの障害は互いに矛盾しているように見えますが、両方を経験する可能性があります。ひとつ目は、同じことをずっと(表面的に)知っていたのだからと、内側にあるものを認めようとしない傾向です。「これは既に知っている。何も新しいものではない。」と言って、すぐに片づけてしまおうとします。友人の皆さん、この危険には気を付けてください。発見の大半は、漠然と既に知っている傾向や性質に関わるものです。
もし、探求によって既に知っている性向が再び示されるのであれば、それはあなたがその知識を適切に使っていないことを意味します。あなたは未だ、その知識を自らの存在全てのレベルに適用しておらず、完全に自分のものになっていません。この知識と他の傾向とが、関連づけられていないのです。この傾向の重要性、意味、結果は十分に認識されていません。従って、引き続き自らの認識と取り組む必要があります。全く知らないものを扱うかのように、新たに発見せねばなりません。そうして初めて、この間違った態度がもたらした連鎖反応、それが自らに及ぼした影響と、それが他者との関係性も損ね、その結果が内からも外からも跳ね返っていることを理解できます。
ですから「ああ、これはもう知っている」という反応には注意してください。熱心に探究し、既に知っている認識に出くわした場合、初めて発見したもののように扱ってください。あなたが見つけたものであれば、それは再発見すべきものなのです。無意識から湧き上がるこの特別な傾向は、あなたにこう伝えています。「必要なだけ私を見つけるだろう。再び私を見つけられたということは、その知識を最大限に活用していないということだ。」
この道の進歩を妨げるもうひとつの障害は、その正反対のものです。長い年月を経て、あなたは特定の自画像を形成してきました。あなたは、自分自身にも、友人や家族にも、ある種の良い資質や欠点を持つ人間として知られています。それに反するような傾向を自らの無意識の中に見つけると、「全く馬鹿げている。そんなことはありえない」と取り合おうとしないかもしれません。見つけたものと自分は正反対であると確信するあまり、単に意味が分からないのです。どちらも真実であり得るという事実を見落としています。「どちらか一方」で考えることに慣れていると、魂の中にある革命的な新事実を受け入れるのは難しくなります。認識によって示された通りの人間であれば、外側の既知の傾向は、非現実なものに違いないと考えます。従って、新たな発見を受け入れられません。しかし、特定の傾向が分裂している場合もあることを深く理解すべきです。自らの存在のある領域では、既に自分が知っている資質を持ち、別の領域、障害がある領域では、正反対の資質を持つこともあり得ます。
優れた資質のひとつが寛大さであると仮定してみましょう。あなたは自分自身がどれだけ寛大なのかを知っています。あなたと接したことのある人も、誰でも知っています。ところが突然、実行しないにせよ、自らの感情の中の吝嗇や貪欲さに気づきます。あなたのことをよく知る友人に「これは本当ですか?私はケチなのでしょうか?」と尋ねると、彼らは勿論「いいえ、全くその反対です。」と言います。社交辞令で言うのではありません。あなたを寛大な人として知っているのです。あなたは全ての行為において、寛大さを示してきました。しかし、心の深奥には寛大ではない一隅があります。つまり、どちらも真実なのです。別の例として、あなたが非常に勇気のある人として知られていると仮定しましょう。勇気はあなたの人生の多くの場面で現れる非常に優れた資質かもしれません。あなたは臆病さの欠片もないと確信している為に、自らの臆病な一面に出会ったとしても、その意味が全く分からず、その発見を拒むかもしれません。
親愛なる友人達よ、成長を妨害するこのふたつの障害に気をつけてください。自らの認識への反応が最も重要です。何故なら、自らの反応を通してのみ、成長と達成を判断できるからです。
今夜もうひとつお話ししたいのは、罪悪感に対する反応です。以前にも述べましたが、誰もが罪悪感を持っています。全てのイメージには罪悪感が織り込まれています。重要なのは、二種類の罪悪感、不当な罪悪感と正当な罪悪感があることを理解することです。あなたは無意識の内に、不条理で不当な罪悪感を盾にして、その背後にある本当の罪悪感を隠すことがよくあります。何故でしょうか?心の奥底では、不当な罪悪感は馬鹿げていることを分かっているからです。まるでこのように言いたいかのようです。「ほら、わたしは罪を認めるけど、そうする理由は本当のところ何もないのだ。」本当に認めるべき、向かい合うべき、変えるべき、絶え間ない苦痛の声をあなたは取り除けません。それでも、向き合いたくはないのです。それ故、無意識に非難されない何かを探します。その結果、馬鹿げた罪悪感についての内なる声と議論して、自分を悩ませる意味はないと納得しようとします。勿論、これらは全て無意識の内に起こります。皮肉なことに、真の罪悪感は、それを隠すための壁として使われる不条理な罪悪感より遥かに小さいものかもしれません。
不条理な罪悪感とは何でしょうか?それは、自らが完全ではないが為に感じる罪悪感の殆ど全てです。完全になりたいと思うことは賞賛に値します。嫌悪、恨み、攻撃性を、愛と無欲に置き換える努力はいくらお勧めしてもやり過ぎということはないでしょう。しかし、そうできるようになる前に、急いで今の自分以上の者になりたいと望むことより、まずは自分が感じていることを変えられない現状、現在の発達状態を認めて受け入れることが必要です。今のままでいることに罪悪感を感じていると、達成したい目標そのものが妨げられることになります。友よ、何度も繰り返しになるのは分かっています。でも、そうしなくてはなりません。私が強調したいのは、今完全でないことで自分を責めるのは不当な罪悪感です。そのような不当な罪悪感は、人間の人格の全領域に広がります。この道に取り組む皆さん全員が、この観点から自らのイメージを調べれば、不当ではない罪悪感が何処にあるのか分かるでしょう。
もうひとつの不当な罪悪感は、集合的イメージによって煽られた性的衝動に対する反応です。知性の影響を受けている表面上ではなくとも、確かに感情のより奥深い所で、皆さん誰もが性への罪悪感を感じています。性的衝動への罪悪感は、不当で不条理な罪悪感です。性的エネルギーが愛と融合していない為、正しいチャネルで流れていないのかもしれません。あなたが性的衝動に対して罪悪感を抱き、その認識をできる限り抑制してきたからこそ、エネルギーが正しく流れないのです。その結果、性的衝動はあなたの人格の他の部分と共に成熟できず、温かく、愛に溢れ、与え、無欲な感情と統合することができません。それどころか、自分勝手な自己中心性の中で、それは大人になり切れないままです。従って、無意識の性的欠点としては、性的衝動が存在することではなく、むしろ性的衝動の誤った方向性や分離性にあるのです。性的衝動の存在そのものは、罪悪感を抱く理由にはなりません。自分には罪深いと思われるものを排除しようするのに排除できなくて罪悪感を感じるのは、誤解に基づいて行動しているからです。そしてそれを排除できないため、罪悪感が生じます。解決策は、性的衝動を排除することではなく、愛に対する恐れ、本質的には利己的である恐れを取り除くことなのです。自らに愛することを許せば、性的衝動は愛と融合し、セックスに関して罪悪感を感じる理由はなくなります。親愛なる友人の皆さん、このことを理解してみてください。無意識の思考が、どれだけ混乱しているかを理解するよう努めてください。利己主義と分離から生じる、愛することへの恐れへの罪悪感ではなく、皆さんは、神から与えられた力に対して罪悪感を感じているのです。自らの性的衝動を宇宙の唯一無二の現実と解決法である、愛と結びつけてください。愛と性的エネルギーを結びつける為には、まさにあなたが歩んでいる道によって魂を成長させるしかありません。
よくある不当な罪悪感についてお話ししてきました。それでは、正当な罪悪感とは何でしょうか?利己主義が自分を守ってくれるという無知な信念から、作為であれ不作為であれ、他者を積極的または受動的に傷つけた時に感じる罪悪感は正当なものです。親愛なる友人達よ、現段階では不完全であることの罪悪感と、人を傷つける身勝手さへの罪悪感は、明確に区別してください。不完全であることそのものに、罪悪感を感じるべきではありません。しかし、いかに意図的ではなかったとしても、自らの不完全さ、無分別、無知から、他者を傷つけることへの罪悪感は、正面から勇気をもって向き合うべき正当な罪悪感です。私が説明したこの二種類の罪悪感のタイプの違いは微妙で繊細ではありますが、天と地ほどの違いがあります。このことについて、よく考えてください。非常に重要なことです。
正当な罪悪感に対して、どういう態度を取るべきか?健全で建設的な態度とはどういうものだろうか?それは、次のように自らに言い聞かせることです。「過去にはどうしようもなかった。私は無知で無分別で利己的だった。自らの小さなエゴを忘れて、敢えて愛するには臆病すぎた。そのような態度で他者を傷つけたことを認め、今、私がどのようにして彼らを傷つけたのかを知りたいと思う。行為、言葉、思考、感情的反応、私がしたことでもしなかったことでも何であれ、相手を傷つけたことに違いはない。私は本当に変わりたい。神の助けを借りて、私は成功するだろう。その為には、私の態度が他者に与えた直接的、あるいは間接的な傷を明確に認識しなければならない。」そして、自分が他者に与えた傷について考えてください。理解する為の洞察力を与えてくれるよう神に求めてください。自らの「悪さ」を誇張し、絶望的な気分にさせる破壊的で誤った罪悪感へのプライドなしに、自己責任を担う勇気を持ってください。
他者に与えた傷を認識する際に起こり得る、誤った三つの反応があります。ひとつ目は、自らへの絶望。自らに絶望するような、否定的で破壊的な罪悪感です。ふたつ目は、自らの正当化。そのような反応を自分は「強制された」という現実または想像上の過ちについて他者を非難すること。三つ目は、否定。自らが描く自己像に合わないかもしれない不完全さを見ることに対する恐れによる拒絶。その時々において、これらの反応のいずれかを体験するかもしれません。それぞれに注意しましょう!正しい方法を見つけましょう。自分が傷つけた人の気持ちになって考え、正当な罪悪感を引き受け、変わりたいと願い、愛することへの恐れを捨てることを望んでください。これは健全で建設的な態度です。自らの誤ったイメージの結論によって、意図せず、気づかずに他者に与えてしまった傷に気づいた時に感じられる痛みは、健全な痛みです。それは、自らの恐れや利己主義をなくす動機となるでしょう。
親愛なる友人達よ、自らのイメージとイメージの結論について基本的な理解ができたら、自分自身を明確にする為に、正当な罪悪感と不当な罪悪感を区別するようお勧めします。直接的にせよ間接的にせよ、事実としてせよ意図的にせよ、自分の間違った結論によって他者を傷つけたかもしれない所を見つけてください。気づかずに他者を傷つけてしまったことを心から反省する勇気があるならば、その正当な罪悪感を引き受けて向かい合うことができるなら、それは思っている以上の強さをあなたに与えるでしょう。それは、健全で建設的な態度を育みます。それは、魂に生命力を呼び起こします。何故なら、何より生命力は、真実であり勇気だからです。正当な罪悪感を受け入れることは真実であり、それには勇気が必要です。そうすれが、生命力はあらゆる邪なチャネルに浸透し、影響を与えます。そして、無知や感情的な未熟さの為に内側にはびこっている邪悪な力が持つ破壊性の全てはゆっくりと、しかし確実に解消していきます。
このテーマについてご質問はありますか?
質問:最初の質問は、最後に言われた言葉についてです。感情的な未熟さの意味を分かりやすく説明して頂けますか?
回答:感情的な成熟とは、何よりも愛する能力です。多くの人が、自分にはその能力があると思っています。勿論、感情的な成熟は程度の問題です。しかし、傷つくことへの恐れ、失望への恐れ、人生のリスクへの恐れがある所には、感情の成熟は存在しません。感情が成熟は、利己主義を知りません。勿論、これは地上での相対的なものであり、皆さんがいる存在領域では、絶対的なものはあり得ません。利己的であればある程、未熟なのです。外側のちょっとしたことに非常に無欲であっても、外側の無欲が、感情的な利己心または自己中心性を隠すこともあり得ます。自らの財産は手放したとしても、愛することへの恐れや、傷つくことのリスクの為に、他者に対して愛を出し惜しみします。従って、知的には成熟していても、感情的には未熟なのです。感情的な成熟とは、生きることへの代償を支払うのを恐れないことです。生きることへの代償には、時に傷つき、失望することも含まれます。成熟した人はこのことを知っており、それを望んで受け入れ、その価値を実感します。隔離された世界に閉じこもり自己中心的になると、他者だけではなく自分自身をも阻むことになります。感情的な成熟とは、自らの感情を恐れないことでもあります。否定的な感情がある場合、恐れてもその感情を消すことは不可能です。それどころか、その否定的な感情と向き合わない限り、その起源や原因を理解することはできません。そうして初めて、感情を抑制するという誤ったコントロールではなく、真のコントロールを手に入れることができます。感情的な成熟では、時折の傷つきも受け入れるので、ポジティブな感情も恐れなくなります。暖かさ、安らぎ、優しさで他者を包み込むことは、その後、自分に何が起こるのかより重要になるので、ポジティブな感情を出し惜しみせず、思い切って表現するようになります。
感情的な成熟とは、完全な決断を下せるようになることです。ケーキをとっておくのと食べるのとは、同時にはできないことを受け入れられるようになることです。殆どの人は、無意識の内に両方を手に入れたい願い、それによって自分自身や周囲と対立します。感情的に成熟した人は、常に代償を払う必要があると知っています。感情的な成熟、あるいは感情的な健全さとは、自分の望みを知り、手に入れられるものを望み、その代償を払うことを厭いません。自分の存在のあらゆるレベルで自己中心性を放棄し、外側の反応とは正反対なものかもしれない無意識の反応の奥深くにまで達し、それを十分に知るようになることが、本当の意味での感情的な成熟の達成です。
これらは普遍的な真実であり、あらゆる価値ある宗教や哲学で教えられています。人類は長い間ずっと、この考えに沿って生きるよう努力してきました。それでも、人々は自己欺瞞の危険を殆ど無視し、この真実と一致しない反応を隠す為に、何層もの意識の層を用いる習性から目を逸らしてきました。その為、多くの場合、外的には普遍的な真実に従って行動している人々を見ても、彼等の行動が本物とは感じられません。彼等は内的には、普遍的な霊的真実に反する多くの反応を隠しているからです。
私が、皆さんを導く特権を与えられているこの道は、このような危険を遠ざけるものです。外側と内側の反応をひとつにしてくれます。ここで、私達の目的を明確にしておきましょう。私達は、皆さんの未発達な部分、利己的な反応において原始的な部分を見つけたいのです。それは、正直に感じている外側の反応と非常に異なる為、自らの利己主義に最初はショックを受けるかもしれません。この外側の反応が本当に誠実なものなのか、つまり自分ができる最善なのか、それとも殆ど意識している偽善なのか、魂を覗き込む為には、外的なマスクを解かなくてはなりません。そこには、自分自身に対する意識的な信念とは正反対の性向や感情が数多くある筈です。
マスクによって得られると思っていた満足感は得られませんでした。最終的に、それがあなたを怒らせました。善のマスクを無意識に着けた時、その背後にあるものを隠そうとして逆の態度を取ったのかもしれません。そして今、あなたは報われなかったのは真の善意ではなく、偽りの強迫的な 「善意 」だったことに気づかないまま、虐げられ、利用されたように感じています。誤った結論を導き出すと、あなたはようやく自らに誠実になれたと信じ込み、反対側の極端に向かい、最初の無欲のマスクの後ろで見つけた部分を演じてみたくなるかもしれません。そうです、この部分はあなたの中に存在し、それは認める必要があるものです。しかし、反抗心や怒りも同様に表面的な層に過ぎないことを認識し、その背後を見てください。適切なバランスを保つ方法を知っているものを自らの内に見つけてください。本当の自分は、表面に現れる程に善良でもなければ、マスクの背後にある「悪い」もの、嫌悪、攻撃性、抵抗、怒りに満ちたものでもありません。あらゆる否定的な反応は、本質的には人生に対する戸惑いへのひとつの反応であり、誤った感情的な結論の結果です。自らの怒りや反抗を認め、長い間抑圧してきたものを体験してください。しかし、これらの手に負えない感情を全て行動に表すような人間であるかのように、それが自らの最終的な真実だとは考えないように。これらの感情を抑制することと、自らの人生への答えを知らず、自らの存在への鍵を未だ見つけていないことの症状として受け入れることとの違いを見つけてください。
大事な皆さん、このアプローチを理解するよう心がけてください。そうすれば、不必要な落とし穴を避けることができます。人生への答えを見つける為には、自らの否定的な第二の層に留まるのではなく、それを認める勇気を行使しなければなりません。誤った結論に基づいて形成されたマスクの層の偽りを先に認識したように、次の層の偽りも認識する必要があります。そうすれば、発見した新たな層を誇張することなく、自らに正直になれます。以前の「無欲」が効果的でなかったのは、それが偽りだったからであって、本当の無欲が効果的ではない訳ではないことが腑に落ちるでしょう。このアプローチは、皆さんを感情的な成熟へと導いてくれます。そして皆さんは真の男と真の女にします。私は今意図的に、人間とは言わず、男と女と言います。何故なら、感情的に成熟していな人間は誰も、真実には男と女にはなることができないからです。
質問:春になると特に、疲れを感じる人が多くなる理由を説明してもらえますか?
回答:疲れとは常に、魂の有機体において生命力が誤用されたことを示します。魂の破壊的な力が抑圧され、その力が最終的に溶けてゆく正しい流れに導く意識の光が遮断された結果が疲れなのです。もし敵意や攻撃性が抑圧され、恐れも抑圧されて向き合われることなく、自らの理想にそぐわず罪悪感を感じるからという理由で嫌悪が無視されるならば、自己は破壊されます。自己破壊はその有機体によって様々な形をとり、様々な症状を引き起こします。疲労はそのような症状のひとつです。
春は自然が蘇る季節です。生命力が成長する全てのものに注ぎ込まれます。植物、木、草、花、果実、野菜、動物界、さらには鉱物界にまでも。それは人間にとっても同じであるべきです。人間が宇宙と調和し、魂が停滞することなく成長している時、春は人を蘇らせ強めます。しかし、障害があるとそうはいきません。神聖な生命力とは異質な要素によって、障害は生み出されるのです。自己欺瞞は偽りであり、偽りは生命力に敵対します。抑制は常に自己欺瞞です。従って、自己欺瞞や抑制が存在していると、生命力はあなたを再生することができません。それどころか、ふたつの相反する力が魂の中で衝突すると回線のショートが起こる為、悪影響を及ぼすことになります。生命力はあなたの内へと流れ込み、また内から外へと流れ込むことを望んでいます。何故なら、魂の奥深くには宇宙全体、ひいては生命力の泉があるからです。しかし、相反する力によって封じ込められている為、生命力はあなたを満たすことができません。
抑制や自己欺瞞がなければ、春はあなたを蘇らせます。疲労は、あなたが自分自身から知識や認識を抑制している症状です。疲労を、自らと向き合うことへの抵抗を打ち破る為の意志や努力を倍増させる動機にしなさい。そうして初めて、身体、魂、精神、感情、マインドにおいて、真に完全で健康になれるからです。内なる状態を示すどんな症状にも感謝しましょう。
質問:私の質問はヨブに関するものです。彼は、人生で何を誤って、どんな欠点を持っていた為に、あれ程に苦しんだのですか?
回答:自己認識の欠如、及びプライドや恐れがもたらす自己欺瞞のせいです。彼には、既に完璧であろうとする焦り、霊的な慢心に関わる焦りがありました。彼は、勇気と誠意をもって本能と向き合わず、本能を抑制する為に、善への欲求を利用しました。
質問:一部の解説者が言うように、神の全ての恵みに値する家長として彼は自らを演じた、言い換えると、彼は独りよがりだったというのは本当ですか?
回答:はい。それがプライドです。この点だけでなく、他の点でも彼にはプライドがありました。そして、極端な身勝手さを示しました。彼の身勝手さは、努力と自己認識の謙虚さでしか到達できない段階に既に達していることを望んだのです。
質問:受容とは対極的な「ポジティブシンキング」の形での期待について、以前に話されたことをもう一度説明して頂けませんか?
回答:これらの基本的な信心深い態度にはそれぞれ健全な形がありますが、極端に受け入れると歪みが生じます。正しく理解されたポジティブシンキングとは、全ては最終的に良きことへ向かうと知っているという意味です。何故なら、神聖なる力は絶対的な真実であり、破壊的な力によって征服されることはないからです。だからと言って、自らの過去と現在の誤りの影響を簡単に取り除ける訳ではありません。人格のどのレベルであっても影響は存在しており、あなたはそれを受け入れ、通り抜ける必要があります。自分自身と人生のリスクを肯定的に受け入れることが、最も建設的な態度です。それには、まだ完璧でないのなら完璧な人生を期待せず、今の自分を受け入れる謙虚さ、そして自らと向き合い、ありのままの人生と向き合う勇気が含まれます。
ポジティブシンキングが誤用されると、今あるものと向き合わなくなります。基本的な内的完成がある程度存在する場合にのみ、ポジティブシンキングは成功します。それ以外の場合は失敗し、失望するに違いありません。解決するには忍耐と根気が必要な根深い人格的な問題を、単なる処方で一掃できると思い込み、焦る傾向があります。
受容もまた、誤用されたり誤解されたりすることがあります。健全な形で受容することは、意志の働きだけで一度に変わることはできないこと認めて、自らの不完全さとその結果を担うことを助けます。それは、どんな不愉快な結果も健全な薬として受け止める謙虚さと忍耐力を示します。ただし、悲観的になり、不必要なネガティブな出来事を待ち望むという意味ではありません。その病的な感覚から、受容はマゾヒスティックな傾向や絶望感を助長し、不必要なだけでなく病的な諦観に甘んじるという自己欺瞞を生みます。それは間違った罪悪感を助長し、自らを罰することを求めます。
この両方の基本的な信心深い態度の正しい形と間違った形を区別する必要があります。間違ったポジティブシンキングは、身勝手で短気です。間違った受容は、「苦難」を助長し、自らを犠牲者と見なします。極端を選ぶと、常にその対極を生み出します。つまり、健全な方法は中庸なのです。自らの不完全さの影響を受け入れ、勇気と謙虚さの精神でその体験を通り抜けることです。代償を払うことで、幸福と平和が見つかります。自分でいつも作っている十字架を自ら背負うことは、平安を与えてくれます。ポジティブシンキングの間違った解釈がさせようとする、感情を急に変えることは不可能だと受け入れてください。受け入れて初めて、感情は徐々に変わり始めるでしょう。
質問:言い換えれば、仕事での失敗や成功を期待することとは、全く関係ないのでしょうか?絶望的な態度で仕事に取り組むかどうかは関係ないのですか?
回答:態度とは常に関係があります。しかし、楽観的な態度が良い結果をもたらし、悲観的な態度が悪い結果をもたらすとは言い切れません。自分自身について明確でない限り、意識的にポジティブで楽観的な態度を取っていたとしても、無意識に対極の態度を取ったりする可能性もあります。これは様々な理由で起り得ますが、ひとつは、本当に望んでいるものがよく分からないということです。原因を理解していない為、この葛藤によってネガティブな結果がもたらされると、失望して勇気を失います。もう一方の極端な例では、失望を恐れるあまり、常にネガティブな態度を取る人もいます。ネガティブな態度で身を守り、失望を避けようとします。このように、ポジティブとネガティブどちらの態度も、その奥には別の何かが隠れている可能性があります。
重要なのは、意識的に考える何かではありません。無意識に感じる何かに気づけるようになることの方が遥かに重要です。単なる処方的な考え方では、意識的に望むものを効果的に手に入れることはできません。内なる自己、無意識の反応、内なる葛藤と問題を理解する必要があります。そのような理解を通じてのみ、来たるべき冒険、希望、人生における何に対しても、正しい態度を最終的には見つけられるでしょう。
正しい理解が得られるまで、中立的な態度をお勧めします。楽観的または悲観的にならず、身勝手さを手放してください。ただ、自らに起こることから学ぶことを望んでください。どんな出来事も、それは自分が今どこにいて、どんな問題に取り組むべきかを示します。どんな出来事も、自らの無意識な反応の投射であると考えられます。感情を観察すれば、最終的には自分の内側に突き抜け、より完全な自己理解に必要な認識を得られるでしょう。今あなたに起きていることは、殆どがあなたのイメージの結論が作り出す繰り返しのパターンです。外側の出来事の内側にある根源を認識するよう注意を向ければ、人生への鍵が与えられます。これまで、人格全体がおそらくそのような認識と戦ってきたのでしょう。
魔法の鍵はありません。無意識の動機と傾向を理解しない限り、何事も本当に解決することはありません。外側の対策が時には効果的に思えることもあるかもしれません。しかし本当のところ、あなたの人生の問題は、あなたが自らを見つめることへの抵抗に打ち勝った時、つまり内なる防御の壁を下ろした時に初めて解決できるのです。何を守っているのですか?何故自らを守る必要があるのですか?内側でこの抵抗や戦いを感じる時、このように自らに問いかけてください。皆さん、私は今、あなた方に語りかけています。そうすれば、人生の様々な場面で正しい態度を見つける為に、外的で強制的なルールは必要なくなります。そのようなルールは松葉杖なのです。
無意識のマインドを知ると、ただ自然に存在します。人生をそのまま受け入れます。失敗もするし、成功もするでしょう。人生はその両方をもたらす筈だし、皆さんにはそのどちらにも対応する力が備わっています。その両方が皆さんを強くします。もし人が失敗や失望から身を守る為に、正しい態度を取ろうと心配するとしたら、それは失敗や失望を非常に恐れている印です。それ程に恐れるのは、健全な抵抗が欠けているからです。これは病気に対する抵抗のような、ポジティブな意味での抵抗です。自分自身を探究する道で解消していくべき抵抗のことではありません。恐れは病気なのです。
親愛なる友人の皆さん、今、神の愛と真理の力が与えられています。皆さんに注がれています。それはあなたのハートを貫き、満たします。真実を喜びなさい。恐れていた真実、嬉しくはないかもしれない真実を見いだすことの喜びを知りなさい。これは大きな喜びなのです。この健全な活動を学んでください。その中で強くなり、あるべき姿で人生と出会ってください。このようにして、愛に満ちた男と女になります。平和の内にいなさい。祝福されていなさい。神の内にありなさい。
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日本語版の取り扱いについて
Pathwork in Japan (パスワーク・イン・ジャパン) の許可なしに、無断でコピー(複製)、貸与、頒布、販売することを固く禁じます。また、文書およびインターネット上(ウェブ、メール)での引用・転載を含む公開も禁止します。
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