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Pathwork Guide Lecture No. 50 悪循環 THE VICIOUS CIRCLE UNEDITED版 1959年4月24日
愛なる友人のみなさん、ようこそいらっしゃいました。この集いに、そしてあなた方すべてに、神の祝福がありますように。
今夜私は、人間にとてもよく見られる悪循環のひとつについてお話ししたいと思います。この悪循環、すべての人間の魂の中で、ある程度は存在しています。ほとんどの時間、その循環は潜在意識の中にありますが、そのうち一部分は意識の上に上っています。重要なのは、それをそっくりそのまま見つけ出して光の下にさらすまでは、私たちはこの循環に従っているということです。というのも、そうする以外にはそれを解消できないからです。私の言葉は、あなたの意識的なマインドや知性には深く届かないかもしれません。しかし、この悪循環から起こる感情や反応が存在する情動のレベルには深く届くのです。
おそらくあなたは、この悪循環に、部分的には気づいているでしょう。ですから、まだ気づいていないほかのすべての部分を探るために、私の話すことを使ってください。そして、この中の数人の人は、この循環のいかなる部分にもまったく気づいていないでしょう。その場合でも、まず、私の話すことは、少なくともその一部分を意識するために皆さんを導いてくれることでしょう。これはそれほど難しいことではありません。なぜなら、あなたに表れている兆候・症状が、あなたの中にこの悪循環が存在していることを分かり易く示しているからです。だからと言って、この悪循環に沿ってあなたが意識的に考え、反応している意味には解釈しないでください。それはまだ隠されているのだということを理解してください。自己発見と自己成長を目指すこの道で、あなたのワークの中でこの連鎖反応を意識の上にもたらすことができるかどうかはあなた次第なのです。これらの隠された流れに対する意識は、あなたに自由と勝利をもたらしてくれることでしょう。
あなた方の多くは、たとえ意識的にもっと論理的な方法を知っていたとしても、すべての個人の中に非論理的な思考、感情、反応の方法が存在することを認識しています。無意識の中に存在するすべてのものは原始的で無知であり、もちろんそれ自身の持つある制限された論理に従ってはいるものの、多くの場合非論理的です。
この悪循環は、幼少期に始まります。それは、すべてのイメージがこの時期に形作られるのと同じです。子どもは無力です。そして、世話してもらう必要があります。自分自身の二本の足で立つことができず、成熟した決定を下すことができません。弱く、利己的な動機から解放されることはなく、それゆえに他の人間への依存からも自由になれません。従って、子どもは、利他的な愛を与えることができないのです。大人、成熟した人は、このような愛を育てます。もし全人格が調和の中で成熟し、間違った結論から来る子どもじみた反応が無意識のマインドの中にまったくひとつも隠されることがなければ。そのようなケースでは、人格は部分的に成長し、別の部分(まさに重要な部分)は未成熟のままで残ります。知的に成熟しているのと同じように感情的にも成熟している大人は、ごく少数なのです。
子どもは愛されたいと強く望みます――事実、愛される必要があります。もし神聖なる愛と類似したものを与えることのできる大人が存在したならば、今ここで私たちが議論している葛藤は起こらなかったでしょう。しかし、この場合においても、その存在(人間)の内面の問題は、決して解決されることはありません。他の人に何ができるかできないかは関係なく、それによって解決されるものなど何もないのです! これが、すべてのまだ浄化されていない魂にとって、この不完全で未浄化な惑星における人生が必要である理由なのです。このようにして子どもは、おおよそ不完全な環境(自分を取り巻くもの)とつながりを持ち始めます。そしてその環境によって内面の問題が前面に押しだされます。神聖なる愛の欠如、人間の制限された愛が、その問題をもたらします。そしてその神聖なる愛の欠如のために、子どもはその無知ゆえに、独占的な愛情を渇望しますが、それは、神聖なる見地からも人間の立場からも不可能です。子どもの求める愛は利己的です。兄弟や姉妹、そしてもう一方の親とさえも、自分以外の者と愛を分かち合うことを望みません。ほとんどの場合、子どもは無意識にどちらの親にも嫉妬心を抱きます。しかし、もし両親が愛し合っていなければ、子どもは、より苦しむことになります。ですので、最初の葛藤は、二つの正反対の望みから生まれます。一方で子どもは両方の親それぞれからの自分に対する独占的な愛情を望み、もう一方で、両親が愛し合っていなとすれば、それにも苦しむのです。どんな親も愛する能力は完全ではありません。不完全であるにもかかわらず、子どもは、親が一人だけでなくそれ以上の人を十分に愛することができると誤解しています。それなのに、子どもは、両親が他者を愛すると、疎外されている、拒絶されていると解釈するのです。要するに、子どもが渇望する独占的な愛情が満たされることは永遠にないのです。さらに言うと、子どもがその愛情を手にすることができない場合には、「自分は十分に愛されてはいない」という付加的な「証拠」になります。
このことはフラストレーションを引き起こし、子どもは拒絶されていると感じます。そして今度はそれが憎しみ、憤り、敵意、そして攻撃とを引き起こします。これが、悪循環の第二の部分です。満たされることのない愛へのニーズが、自分が最も愛するまさにその人への憎しみと敵意を生み出してしまうのです。概して、これは成長途上の人間の第二の葛藤です。もし子どもが、自分が愛していない誰かを憎むことができたら、この葛藤は起こりません。または、自分の愛し方で誰かを愛し、その見返りに愛されることを望まないのであれば、この葛藤は持ち上がりません。自分の一番愛するまさにその人に対する憎しみが存在するという事実は、人間の精神に大きな葛藤を作り出します。子どもがこれらのネガティブな感情を恥じることは明白であり、したがって子どもは、この葛藤を潜在意識の底に押し込みます。いくら押し込んでも、憎しみはそこでくすぶり続ける消えることはないのに。憎しみは罪悪感を引き起こします。なぜなら、子どもは小さいうちから、特に、愛し尊敬すべきだとされている親を嫌うなどということは悪いことで、間違っていて、とても罪深いことだと教えられてきたからです。潜在意識の中に住み続け、大人になってからすべての内面的、外面的葛藤を引き起こすのは、この罪悪感なのです。さらに、自分の潜在意識の中に何が隠されているのかを探し見つけ出すという決心をするまで、人びとは、これらの葛藤の根本に気がつかないのです。
罪悪感には、さらに深い、避けることのできない反応がついてきます。罪を感じて、無意識は言います。「私は罰せられることを望む」と。こうして罰せられることへの恐れが魂の中に生まれるのです。もう一度言いますが、これは完全に無意識下で起こります。しかし、さまざまな兆候の中にそれが現れているのを見つけることができます。そしてそこを抜けると、最終的にあなたは、私が次に述べる連鎖反応へと導かれていくことでしょう。
罰せられることへの恐れからは、さらなる反応が生まれます。あなたが幸せで喜びを謳歌しているときには必ず、これは自然な切望(ロンギング)の状態であるにもかかわらず、自分はこれに値しないという感情が出てくるのです。最も愛する人たちを憎んでいるという罪は、子どもに、自分は良いものや楽しいもの、そして喜びに溢れたものを受けるに値しないと思い込ませてしまうのです。もし自分が幸せになることがあったならば、罰は避けがたいものに思えて、もっと大きなものになるはずだと感じるのです。従って、子どもは無意識に、幸福を避けるというやり方でつぐなおうと考えます。このようにしてより大きな罰をも避けようとします。こうして、自分が最も心から望むすべてのことを破壊するかのように思える状況とパターンが作り上げられるのです。
あらゆる不健全な反応や兆候、試み、まるでその人の意志など働かずに起こったかに見えるこれらのパターンを間接的に作り出す感情や行為などに向かってしまうのは、まさにこの幸福への恐れが原因です。これらのことは、それ自体が独立した形で引き起こされているかのように思えます。そして人はそれらに対してまったく責任を負わないかのように思えます。このようにして、より根深い葛藤が生まれるのです。人間は、一方で幸福と充足感に憧れ、他方では、幸福への恐れで自らが充足感を味わうことを禁じているのです。幸福への望みが完全になくなることは決してありません。それでもなお、この深く隠された罪悪感があるために、幸福を強く望めば望むほどに、罪の意識もまた強くなります。多数の人が抱くイメージと同じく、個人のイメージもこのやり方で蓄積され、この連鎖反応を強化していくのです。
罰せられることへの恐れと、幸せになるに値しないという恐れは、より深く複雑な反応を作り出します。無意識のマインドは、「他者に罰せられることを恐れている。けれども自分が罰せられるに値することを知っている。他者に罰せられるのはなおさら悪い。だから、私は他者のなすがまま、人びと、運命、神、そして人生そのもののなすがままなのだ。しかしもし自分で自分を罰したならば、少なくとも私は屈辱や絶望、そして自分以外の外部の力からの懲罰によって自己を貶めるのを避けることはできるだろう」と考えます。これら、愛と憎しみ、罪悪感と懲罰への恐れといった基本的な葛藤は、程度の差こそあれすべての人間の人格の中に存在します。自己懲罰への強迫的な望みもまた、間違った無知な結論の結果として、ある程度はすべての人間の中に存在するのです。
このようにして人格は、それ自体に懲罰を負わせます。これにはさまざまなやり方があり、精神が作り出す肉体の病気、もしくはさまざまな災難、困難、失敗、人生のすべての領域における葛藤などが挙げられます。個々人のケースにおいて、この領域は、子どもの頃形成した個人的なイメージに拠ります。そしてそれに気づいて最終的に解消するまで、そのイメージを、人生を通して持ち続けなければなりません。このようにしてイメージが存在する場合、例えば仕事や経歴に関する場合には、内在する自己懲罰への欲求によってそれが強化され、その人の人生において、この点においての困難が絶えず続くことになるでしょう。もしくは、愛や結婚生活に関係するイメージが存在する場合には、その点での困難が絶えず続くことになるのです。
それゆえに、自分が気づいていてなおかつ道理に適っていると思われる望みがうまくいかないとき、自分の人生を振り返ってみると、自分が意識している望みの成就は必ず妨げられるというパターンを発見します。それはまるでその望みは、自分とはまったく無関係なものであるかのように、そして意地悪な運命が自分にもたらしたものであるかのように見えます。ここであなたは、自分の中にはイメージや悪い結末だけが存在するわけではなく、それらに加えて、自己懲罰へのニーズもまた存在することを確信することとなるでしょう。
この悪循環におけるさらなる連鎖反応は、愛すると同時に憎むといった悪循環の始まりになるような願望の流れ(願望のエネルギー)の中で、人格の分離が生み出され、そしてそれがさらなる分離を引き起こしていくというように現れます。あなたはそれを今ではかなりクリアに見ることができるはずです。これらの相反してぶつかり合う感情のひとつを挙げると、自己懲罰へのニーズがあります。自己懲罰へのニーズを感じながらも、一方で人は罰せられることなど望まないのです。このようにして、隠された部分はこう主張します。「おそらく私はこれをうまく避けることができるだろう。そして私は、違った方法で、この憎むという大きな罪をつぐなうことができるだろう」と。現実には存在しない「想像上のつぐない」は、結局のところある種の交渉事のようになってしまいます。つまり、自分自身に対し、非現実的な高い基準を設定することでつぐないます。小さな内なる声は主張します。「もし私がそこまで完璧でいられたら、もし私に欠点も弱さもなかったなら、もし私がすべてのことにおいて一番であるなら、私は過去の憎しみと憤りをつぐなうことができる」と。そして、この小さな声は、無意識の奥深くに隠されているがために、過去のことにはなっていないのです。今もなお、現在に生きているのです。
何かを乗り越えるには、それを外に出すしかありません。依然として古い憎しみがあなたの中に居座っているのはそのためです。そしてまた、あなたがいつも罪の意識を感じる理由でもあります。もしそれが本当に過去のことであったならば、その罪悪感が意識されていないとしても、あなたが常にこの激しい罪の意識を感じることはなかったでしょう。「とてつもなく完璧」でいることによって罰を逃れることができるとあなたは考えています。このやり方で、二次的良心が作り出されるのです。常に存在するひとつの良心とは、ハイアーセルフです。永遠不滅、人間一人ひとりの持つ神聖なきらめきです。ハイアーセルフと「二次的良心」を混同しないでください。二次的良心とは、想像上の罪、もしくは実際の失敗をつぐなおうとする強迫観念から人為的に作り出されたものです。想像上の罪も実際の失敗のどちらも、人為的で過剰要求をつきつける良心によってつぐなわれることはあり得ません。誰も罰される必要などないのです。今ではもうみなさんご存じのように、実際の失敗を完全に消し去る方法はこれとはまったく違っており、もっと建設的なものなのです。これら2種類の良心を区別することができるとき、あなたは前へと進む大きな一歩を踏み出したことになるのです。
善良でピュアな神聖なる良心とは、もちろん、あなたの進歩や霊的な成長、そして個人の人生の充足に関係しています。そしてまた、あなた自身の個人的法則にも関係しています。私が個人的法則というとき、これを決して誤解してはいけません。身勝手で粗野、未発達で反社会的な分離という砦に住んでいる人びと、時に身勝手さという彼ら独自の「法則」に沿って生きたいと願っているような人びとという意味ではありません。このような人びとは、自己統制に関わる法則だけでなく、神聖なる法則をも軽んじています。先ほど触れた個人的法則とは神聖なる法則の一部であり、常に神聖なるものの枠組みの中に存在し続け、それに逆らうことはありません。神の子はすべてそれぞれに違います。成長も違えば、性格や気質も違います。そしてそれぞれに違う長所と短所を持っています。したがって、それぞれの人生で、それぞれ違った何かを必要としているのです。そして、その同じ人生の中でも、それぞれの時期に何か違うものを必要としているのです。一人の人間に適用されるものが、必ずしもその他の人に必要なわけではないのです。神聖なる法則とは範囲が広く、柔軟性があります。人間が神聖なる法則を間違って解釈したことによる硬直化と一般化など、この神聖なる法則には何ら関係ありません。人は、この間違って解釈された神聖なる法則に閉じ込められています。それゆえに人は、何を期待されているのかを非常に敏感に感じ取り、自分のすべき正しい行いは何なのかを意識的に考えるようになり、その結果そのことに抑えつけられています。これはおそらく、その人の利己的な本能がまだとても強いために、真の神聖なる良心がその逆効果となって現れているのかもしれません。けれども、その人の神聖なる良心は、その人自身が計画してきた人生へとその人を導くということもまた事実です。つまり、あなたの周囲、そして環境があなたに何か正しいことをするように求めるということです。その何かとは、それ自体が正しいことであって、あなたにとって正しいことではないかもしれません。あなたの真の良心があなたに求めることは、あなたの環境の中にある倫理的かつ道徳的な法とは対照的なものとして現われるでしょう。変に聞こえるかもしれませんが、もっと深くこのことを考えてみると変ではないのです。言うなれば、あなたの神聖なる良心が、神聖なる倫理と道徳に反することなどあり得ないのです。ですから、勇気と独立心を持って外面的な道徳観とは何なのかを考えるならば、例外はあるにせよ、ほとんどの場合、それらと神聖なる法則とが一致することを知るでしょう。ときに、外面的な道徳観は厳しく、無意味なものでもあります。それに固執することによって、自分自身の個人的な神聖なる法則に従う場合よりも、あなたは他者にも自分にもより多くの傷を負わせることになるのです。神聖なる法則は常に、それが他者を傷つけるか否かによって決定されます。人生において、他者を傷つけざるを得ない状況があるかもしれません。これらの状況は、あなたの以前の無知な状態から生じます。このような場合、あなたは注意深くよく考え、どのような決定をすればなるべく周りの人を傷つけずにすむかについて神の啓示を仰がなくてはなりません。自己の神聖なる良心の声を聞くようになるにつれて、それはあなたに自由と平和を与えます。もう一度強調させてください。あなたの個人的な法則や計画は、現実的に決して不道徳でも非倫理的でもないのです。ときにそれはそのように見えるかもしれませんが、それは文字通りでなければいけないという人間的で厳しい基準による観点で見るからです。たいていの場合、人間の厳しい基準は、あなたの二次的な人為的意識と同じように、まさにその性質によって罪深く強迫的になります。なぜならば、個人の中に住みついているものは、常に人類全体の中にも住みついているからです。
自己の内を深く感じることによってのみ、完全に自己に誠実であること(ある程度このことをあなたはすでに学んでいると思いますが)によってのみ、あなたは、真の、そして本当の良心の目的をしっかりと手にすることができるのです。もしあなたが、二次的で強迫的な良心の声で本当の良心の声を封じることがなければ、この真の、本当の良心の目的は、あなたを正しい方向へと導いてくれるでしょう。友人のみなさん、本当の良心があなたに話しかけるとき、あなた方は解放されることでしょう。あなたが直面させられるその決定は、あなたの感情がそのとき望むものとなって現れるか、あなたの欲求を満たさない形で現れるかにかかわらず、解放をもたらします。ここに難しさがあります。一般的にこういうものだとは言えず、そこにルールはないのです。あるときには、あなたの本当の神聖なる良心は、好ましくも心地良くもない、あなたの利己的な欲望に反することをするようにあなたに伝えるでしょう。自分の利己的な望みに対して警告を与える内面の声が強迫的な良心なのではないか、というあなたの期待は、根拠のないものです。というのも、ときには、あなたの本当の良心と強迫的な良心が言うことはどちらも正しいかもしれないからです。ただ、その動機が違うだけなのです。また別のときには、あなたの本当の良心が、あなたを、まさに今あなたが求めているものに向かわせることもあるでしょう。しかしあなたには、その声に従う勇気がありません。なぜならあなたの強迫的な良心があまりにもうるさいからです。強迫的な良心の声は言います。「私はとても罪深い。私は幸せになってはいけないのだ。私には、それを受け取る価値がない」と。しかし、あなたの神聖なる良心があなたに話しかけるとき、あなたは解放されたように感じます。あなたは自分自身や世界と完璧な調和のもとにあると感じるのです――どんな決断が下され、どんな結果がもたらされ、そしてそこにどんな困難があろうとも。いつでも神聖なる良心の声を理解し、それを意識することができる人はほとんどいません。常に、自分の強迫的な良心の奴隷となってこき使われ、鞭打たれているのです。そしてそれは、前にお話したような連鎖反応によって生み出されるものなのです。
強迫的な二次的良心は、満たすことが不可能な要求をつきつけてきます。そしてこの基準を満たすのに失敗するたびに、あなたは不相応なほど落胆してしまいます。強迫的良心を満足させることに失敗するたびに、あなたは自分が懲罰を避けることはできないとさらに強く感じるようになります。この二次的良心を作り上げる前にも増して、あなたは懲罰へのニーズを感じるのです。そして自分自身にこう言うのです。「私は、特に嫌いでもない人といる時でさえ、私の嫌いな人と一緒にいる時と同じく、善良で完璧でいることができない。したがって、私は自分がどれほど罰を受け、軽蔑されるに値するのかを分かっている」と。あなたがしたいと思っている取引は上手く行かなかったし、決して上手く行くはずはなかったのです。だから、この二次的良心のためにあなたが支払う代償は大きいのです。実のところ、健全に人生を生きるために支払う代償とは比較にならないほど大きな代償なのです!
これらのゴールに到達することができないとき、いったい何が起こるのでしょうか? 当然ながら結果的には、自分は常に不十分だという感覚と劣っているという感覚を持たざるを得ません。自分の強迫的良心は理不尽で、現実的ではなく、達成不可能なものであると知らないために、そして分離と言う壁の中に隠れて、自分ひとりが失敗し他者は成功すると信じ込んでいるために、あなたは完全に孤立していると感じ、憎むだけでなく、「善良」でいることも「純粋」でいることもできないという罪深い秘密に対して恥を感じるようになります。
完璧になることは正しく良いことだ、とあなたは言うかもしれません。「神聖なる良心とて、この完璧性を望んでいるのではないか?」とも言うかもしれません。確かにそのとおりです。以前私は、神聖なる良心と強迫的な良心はときに同じものを求めると言いました。しかし、それがどのように成し遂げられるのかは異なります。神聖なる良心は、あなたがまだ完璧になることができないと知っています。神聖なる良心は、罪悪感を抱くことなく、恐れを抱くことなく、今ある自分自身をそのまま受け入れることによって、いかにして完璧さを手に入れるのかを少しずつあなたに示したいと望んでいます。強迫的な良心は、そのような方法をまったく知りません。今、すでに完璧だと言えるかもしれません!さらに、これら二つの声の間にある動機もさまざまです。神聖なる良心には時間があります。神聖なる良心は、より愛するという目的のための究極のゴールを求めています。そして、完璧さというものの真実こそが、愛と幸せを与え、幸せになり、そして愛されるようになるための唯一の方法であることを知っているのです。
二次的良心は、弱さと恐れによって動機づけられます。駆け引きをするのです。良いもの、良くないもの、健全なもの、受けるに値するものを避けようとします(それは「懲罰」をあなたがどう見ているかに拠ります)。あなたの二次的良心は、自分がまだ完璧ではないことを認識するには、高慢すぎるのです。そしてまた、今ある自分自身をそのまま受け入れるにも、高慢すぎるのです。したがって、あなたは自分の決めた高すぎる基準にそって生きられないことで、自分は劣っていると感じざるを得ないのです。人間の性質の中のすべての劣等感には、この共通点が見受けられます。そしてこの事実を感じ、経験することがないうちは、あなたが劣等感を脱ぎ捨てることはできません。あなたは、この悪循環のすべてのヴェールをはがし、その理不尽さと理性の欠落をしっかりと見なければなりません。あなたは、あなたにそれを作り出させた感情を乗り越えなければならないのです。そのときにのみあなたは、この連鎖反応を逐一断ち切り、感情的自己の内に新しい概念を作り出すことができるのです。
劣っているという感覚の正当化は、決して真の原因ではありません。なるほど、何らかの点において他者はもっと成功しているかもしれません。しかし、それがあなたに劣等感を感じさせているわけでは決してありません。自ら作り出した高い基準がなければ、人生のすべての領域において、他者より良くなる、もしくは少なくとも他者と同じくらいに良くなるというニーズを感じることはありません。他者が人生のいくつかの領域であなたよりも優れていて、上手くやっているということを冷静に受け入れることができるでしょう。そして一方で、他者に欠けている自分の強みや優位性を持っていることも受け入れることができます。他者がそうであるように、知的で、成功し、美しくあらねばならないということはないのです。これらは決して、あなたが持っている十分ではないという感覚、劣っているという感覚の真の理由ではないのです!この真実は、最も立派で、最も大きな「成功」をおさめ、最も美しい人々であっても、しばしば彼らよりも立派ではなく、成功もしておらず、美しくもない人びとよりもさらに強い劣等感を持っていることがあるという事実によって裏付けられます。
不十分であるという感覚と、劣っているという感覚は、この大きな悪循環を閉じる働きをします。そして再び、無意識の小さな声が騒ぎ始めます。「私は失敗した。私は自分が劣っていることを知っている。けれども、もし私が他者から一定の愛、尊敬、称賛を受けることができたら、ただ受ける取ることがきたら、すごく満たされるだろう。私は愛を要求するという点において正しかったということを証明することになるだろう。また、私の憎しみはそれを否定することで正当化されることを証明するだろう。(私たちはここでこの循環が完全な円になることを覚えておかなければなりません)ただ受け取るということは、愛を受取ること、私の両親が私に与えなかった愛を受取ることが可能であると証明することにもなる。さらには、自分の強迫的良心の基準に沿って生きることに失敗したために、自分は価値などない人間だと疑っているが、それほどに価値のない人間ではないことを示してくれる。」
必然的に、これらの言葉は決して意識的に考えられるものではありません。けれども、表には見えない下の部分で感情はこのようにして騒ぎ始めます。したがって、この循環が閉じ、そしてそこはまたその循環の始まるところにもなり、愛されたいというニーズは、もともとのものよりさらに逼迫したものになるわけです。これらの連鎖反応がずっと続いてまるでリレーのように、このニーズを確実により強いものにして、この悪循環は続いて行くのです。
他方で、そこには、憎しみとは不当で根拠のないものであるという疑念が常に存在します。それは確かに不当で根拠がないのですが、別の意味においてそうなのです。無意識の内に、もしそんな愛が存在するとしたら、そうしたら自分は正しかったのだ、そして両親や他者は間違っていたのだと感じているのです。したがって愛の渇望は、弱く不健全で完全に未成熟な動機をもって、より緊迫したものとなるのです。このニーズが満たされることは決してなく、このニーズが明らかになればなるほど罪の意識はより大きくなります。その結果、悪循環の中でぐるぐるまわりながら次々と現れることは人生が進むにつれてより悪いものとなり、常により多くの問題や葛藤を作り出してしまうのです。
病んだ動機で覆い隠さず健全で成熟したやり方で愛を求めるときにのみ、そして愛されたいという望みと同じだけ愛したいと望み、それによって「人生のリスク」を引き受ける準備が整うときにだけ、愛はやがてその姿を現すのです。この悪循環が強くてその中に留まる病んだ人は、幼稚で子どもじみた愛を求める限り、愛を見つけることは決してできないということを覚えておいてください。愛のために何かリスクを取らない限り、成熟した愛し方を知ることはないのです。子どもはこの責任を負おう必要はありません。けれども大人は違います。
未成熟な人は愛を求め、切望します。悪循環に起因する動機から求めます。つゆほども自分が愛そうという意図を持たない人からでさえも、愛され、かわいがられ、大切にされ、称賛されたいと思うのです。自分が愛そうという意図をある程度は持っている人であっても、彼らの与えたいという気持ちと受け取ることへの強迫的なニーズの割合は均等ではありません。この根本的な不公平のため、これは機能しません。というのも、神聖なる法則は常に正当で公平です。あなたは、自分が与える以上に受け取ることはできないのです。弱く強迫的な動機を持たずにあなたが自由に与えれば、与えたのと同じものがすぐに返ってくるというわけではありません。しかしそれは、徐々にあなたのもとへと流れ込みます。これが、好循環です。もし「何かを証明する」という動機を持って弱さに降伏することがなければ、あなたが与えたものは必ずあなたのもとへと戻り、流れ込みます。もしあなたが与える制限された愛の動機が無意識下で悪循環に根ざしているならば、その見返りとしてあなたが愛を受け取ることは決してありません。自分の隠された流れによって常に惹きつけられる環境の中で出会う人よりも、偶然に、基本的により成熟したやり方で愛することができるであろう人と出会ったときでさえも、それは同じことです。議論の糸口をさぐるために、自分の感情は最小限しか与えていないのに、愛を受け取るというあなたのニーズが満たされたと仮定させてください。その場合においても、実際には、あなたのニーズは満たされることはないのです。その理由は簡単です。なぜなら、あなたの内面の苦しみは、違う答えを求めているからです!それを得られればあなたを正しい方向にむかせてくれるという間違った概念の中であなたが求めている愛は、答えではないのです。言い換えれば、あなたは、自分の病に効く治療はないという治療を探しているのです。だからそれは渇望として残り、決して静止することはありません。それはまるで、底なしの井戸のようなものです。
このようにして循環は完成します。自分自身の中にあるこの循環を見つけ、経験し、特にそれがどこにあり、どのようにしてうまれたのか、そしてそれは誰のためにあなたの内側で生きているのかに関して理解することは、この道おけるあなたの取り組むべきワークです。これらすべては、それを本当に解決する前に、あなたの個人的経験となる必要があります。もしあなたが、この循環を、感情的に開放することなく知的な理解だけにとどめるとしたら、その知識があなたの助けになることはありません。繰り返します。もしあなたが、連鎖反応のこれらあらゆる点を自分の感情にあてはめることができなければ、あなたとは完全に切り離された状態で存在している他のあらゆる知識と同じように、単にあなたが取り入れた理論的な知識の断片にすぎなくなってしまうでしょう。したがって、個人的なワークの中で、あなたはこの循環を見つけ出さなければなりません。そして、間違った前提がどこにあるのかを理解すれば、それを打ち壊すことができるのです。子どもとしての自分が、今ではもう必要のないある感情、態度、ニーズ、無能感を持つことを正当化したことに気づかなければならないのです。そしてまた、自分のネガティブな感情に対して寛容になることを学ばなければなりません。それらを理解しなければいけないのです。自分の感情的な傾向や要求、願望の中において、どこで自分が意識的な知識から逸れているのかを発見しなければなりません。愛は与えなければならないもので、受け取ることばかりに関心を向けるべきではないということを、あなたは完全なまでに理解し、さらには説いてさえいるかもしれません。しかしみなさんは、感情の中においては、やはりこのような知識から逸れています。この循環を壊すことを望む前に、この矛盾が十分に意識されなければならないのです。あなたが、これらすべてを認識し十分に取り入れた後にだけ、そして今まで隠されていた感情の理不尽さについてよく考えた後にだけ、その理不尽な感情はゆっくりと、徐々に、変わり始めるのです。理由が分かったらすぐに変われるんだと期待しないで、余裕をもって、そしてそれが固定化してしまった習慣なのだと理解してください。長い時間をかけて間違った傾向の子どもっぽさを理解したあとに、繰り返し間違った傾向を発見するならば、そのとき、そしてその時にのみこれらの感情はゆっくりと成熟へと向かいます。今のところあなたは、自分の感情が何を求めているのかに気づいていません。つまり、あなたの感情は、自分が与える以上に受け取りたい、自分だけが愛されたい、ということを要求しているのです。そしてあなたは、無意識下で、もしも自分の愛する人がほかの誰かを愛するならば、その人は自分のことはそれほどには愛していないという間違った結論とともに生きているのです。これは完全に未成熟であり、間違った結論の上に成り立っています。これらの感情的反応を意識の上に浮かび上がらせることによってのみ、あなたはそれを認識することができるのです。そうすることであなたは一つひとつ、悪循環に気づくようになるでしょう。これらの感情が表面に浮かび上がった後、なぜ、どのように間違っているのか、またどんな点において間違っているのか、その感情について考えることができるようになるのです。そして感情を浮かび上がらせて、その感情の無知、利己性、未成熟さに恥じることなく直面し、そして自分の意識的な知識をこれらの感情にあてはめることができると、潜在意識の中で間違った結論を生み出し続ける昔の、悪しき感情的習慣に引き戻されそうになるとき、あなたはそれに気づくことができるようになります。これら一つひとつの気づきは、さらに深く、個人的な悪循環を打ち壊すのを助けることでしょう。このようにしてあなたは自由に、自立するのです。
人間の魂は、その深い場所に、すべての叡智、すべての真実を含合しています。しかし、これらすべての間違った結論がそれを覆い隠しているのです。それらを意識して、一つひとつそれを切り抜けると、あなたはついに、神聖なる良心、あなた自身の計画に沿ってあなたを導く内なる叡智の声を開花させるというゴールに到達することができるのです。神聖なる法則が、個人的な法則と一般的な法則も同じなのですが、あなたの内面的外面的反応によって冒涜されるとき、あなたの神聖なる良心はあなたに人生の秩序をバランスを復活させる方向へとあなたを容赦なく導きます。まるで懲罰のように思われる状況が起こりますが、実際にはそれはあなたを正しい道筋へと向かわせるための治療なのです。どこであれ、どんなときであれ、あなたが道を逸れると、バランスが再構築されなければなりません。そうすることで、困難を通して自分の内なる方向性を変えることができるところに最終的にたどり着くのです。そして、必ずしも外面的、意識的な行動としては現れないかもしれませんが、無意識下の子どもじみた要求と目的において、あなたは変わるのです。
親愛なる友人のみなさん、この悪循環を探求し、あなた自身の人生においてどのようにこの循環が作用しているかに気づいてください。
これについて何か質問はありますか?
質問:憎しみと敵意が表に出てしまっている子どもには何が起こるのでしょうか? そのような子どもも罪の意識を感じるのでしょうか?
答え:外部への表出は、子どもにおいてはよく起こることです。子どもがいわゆる癇癪を起こすときには必ず、これらの感情が表に出ています。しかし必ず子どもは叱られ、そのことがいかに「悪い」ことなのかを学びます。それは、このような癇癪の真の意味を隠しておくためのニーズを強化します。たとえその憎しみが完全に意識されているときでさえも、後になるとたいていの場合抑圧されてしまいます。それからは、同じ癇癪が大人になっても内面で続きます。年齢は関係なく、この悪循環が意識に上って初めてそれは終わります。子どもじみた癇癪の形として病気になる人もいるかもしれません。あるいは、周囲の人々の生活を困難なものにする人もいるかもしれません。この不幸によって、このような人々は常に他者に迷惑をかけることとなります。なぜなら子どもじみた種類の完璧な愛情と世話を受取りたいという意志と脅迫的なニーズを押し付けようとするからです。この程度は人によってさまざまです。ときにはとてもはっきりしていますし、また別の時には微妙で、隠されています。このような振る舞いについて人はこう言います。「見ての通り、私は不幸だ。あなたは私の世話をしなければならない。私を愛さなければならない」と。子どもじみた癇癪が外面上には現れてはいませんが、これも癇癪です。子どもの頃の敵意がときに外部に表出するという事実は、だからと言って必ずしも後になってそれが抑圧されることはないという意味ではありません。
質問:魂(Soul)とスピリット(Spirit)との違いを説明していただけますか?
答え:あなた方は、肉体だけでなく、ほかにもいくつかのオーラ体を持っています。これらのオーラ体それぞれが、人間の人格のある側面を表しているのです。あなたがより高く成長するにつれて、これらのオーラ体は解消し、最終的に本来のスピリットの体、つまり本来の霊的な存在が残るのです。これらのさまざまなオーラ体は、その物質の密度の度合いが異なっています。もっとも密度の濃いものは人間という形、つまり肉体であり、少なくともあなた方のいる領域になると密度が濃くなります。転生のサイクルが始まる前の、もっと低次の領域もあります。そこでは人間の肉体よりもさらに物質の密度が濃くなります。それは、あまりに密度が濃いために見ることも触れることもできないのです。人間に関する限り、見ることも触ることもできないものは、「微妙な(捉えがたい)物質」というカテゴリーに入れられてしまいますが、実際にはそうではないのです。非常に密度が濃いので肉体的知覚では見ることができない物質と言うものがあります。それは本物の微細な物質で、あなた自身よりも微細なものです。転生していないスピリットがあなたを通り抜けられるのと同じように、あなたはその物質を通り抜けることができます。しかし、あなたが存在している次元では、もっとも密度の濃いものは肉体です。そして他にもさまざまな密度の物質があります。地球上でのそれぞれの人生であなたはこの肉体を必要としますが、それぞれの地球上での人生の後その肉体を脱ぎ捨ててしまいます。いわゆる肉体的な死のあとすぐ、肉体と共に、肉体より微細な別の物質からなるからだをも脱ぎ捨てるのです。そして、魂の体、もしくは感情の体が残ります。この体の中にこそ、あなたのすべての感情や気持ち、態度や傾向、別の言葉で言うとあなたの真の人格があるのです。より成長し続けると、魂の体は、他のすべての体と同じように溶解し、そしてスピリット、つまり本来の存在だけが残るのです。魂とは、あなたの内に住む不滅の、永遠のものであり、今夜私がお話した神聖なる良心を含有するものなのです。そしてそれはすべての叡智、すべての真実、そしてすべての愛を含有しますが、たくさんの層によって厚く覆われているのです。
質問:人間が眠っている間、魂は、肉体にとどまるのですか? それとも英気を養うために一時的に体を去るのでしょうか?
答え:一時的には体を去ります。さまざまなオーラ体があり、異なる無意識状態の中で肉体を去ります。たいてい睡眠中に、感情の体は肉体から移動します。ときには多く、ときには少なく。そして、あなたがシンボルへと変換する映像を、夢として作り出します。もし眠っている間にも、感情体が肉体に残るならば、深く眠ることができません。その状態は眠りを妨げるのです。しかし、本当によい眠りが訪れると、感情の体もしくは魂は肉体を離れます。これが肉体の休息です。感情の体は近づいたり遠ざかったりしてより拡大します。お分かりでしょうか?
質問:はい。人間は、休養のためぐっすり眠らなければならないのでしょうか? それとも軽い眠りで十分なのでしょうか?
答え:ぐっすり眠るほどゆっくりと休養をとることができます。あなたが目覚めたとき、その事実を体感するでしょう。ぐっすり眠ったときには、軽く眠ったときよりもとてもリフレッシュした感覚を味わうことができます。感情の体は、ぐっすりと眠るほどに、肉体から移動するのです。
質問者:たった10分眠っただけで完全にリフレッシュできる人もいますが?
答え:もしその眠りが十分に深ければ、10分間の眠りであっても、一晩中落ち着かず眠りを妨げられながら眠るよりも、よりよい休息をとることができるでしょう。なぜなら、緊張した状態では、感情の体は完全に肉体を去ることができないからです。
質問:昔、あなたではなく別のスピリットが、非常に長い祈りや瞑想をするのは良いことだと話されました。数年後、それが私の習慣となりました。しかし、以前そのことについてあなたにお尋ねしたとき、あなたは、それはあまりいいことではないかもしれないとおっしゃいました。なぜならこのような祈りは型にはまった厳しい習慣となることがあり、そのときに自分が何をしていたのか念頭から消し去ろうとしなければならないからだ、と。私は、発達していると思われるスピリットによってこの習慣的パターンに入ることを学んだはずなのですが。それはなぜなのかと不思議に思っています。
答え:人間が初めて霊的成長の道に足を踏み入れるとき、そして祈りというものに慣れておらず、さらには思考を集中することにも慣れていないとき、このような瞑想はよい訓練となります。祈りや瞑想を通じて集中を学ぶことは好ましいことです。なぜなら思考がある浄化のプロセスを経験することを通じ、あなたはある意識を構築するからです。つまり、あなたは、利己的でない思考を養うことを学ぶのです。あなたの思考は祈りによって高められ、ゆえに、あなたの発達のこれからのステージへの道のりがクリアになるのです。だから、集中力は、祈りを通じて、利己的でなく建設的な思考を養うことと結びつくことができるのです。確かに、集中は別の課題との関係において学ぶこともできますが、世俗的な事柄と結びつけて学ぶよりも、この方法で学ぶほうがよりよいのです。ですから、祈りの中で起こってくる思考プロセスの浄化、そして集中は、どちらもこの道に必要なものなのです。別々に学ぶこともできますが、同時に結びつけて学ぶこともできるのです。一度この訓練を学んだら、硬直化して生気のないような機械的な祈りにならないように警戒を怠ってはなりません。さまざまな活動や姿勢が、人間の発達のさまざまな側面に適用されます。ひとたびある地点まで到達したなら、型にはまった機械的習慣を続けることは、たくさんの側面に害を及ぼしてしまいます。もしあなたの祈りが今ではそのバイブレーションを失ってしまったならば、現在の成長段階における自分のニーズに即した短い祈りに変えた方がよいでしょう。このときにはもちろん、現在抱えている問題や内面の障害物にも注意を払ってください。あなたが学んだ集中力は、あなたがこの道で取り組んでいるすべてのワークにおいて、自己発見という目的のために使われるようになるでしょう。何度も繰り返しマインドの中で同じことをごちゃごちゃ話すよりも、こちらの方がもっと生産的です。一年生になったばかりの子どもたちは、後に学ぶことよりも違った何かを学ぶものなのです。
ここにおられるすべての方に、これらの言葉を読むすべての友人たちに、あなたの愛するすべての人びとに、そしてあなたの家族に、友人に、神の祝福があらんことを。この祝福をあなたの内に取り込み、自己発見の道の途上にて、あなたの勇気や意志の力を強くするのに使ってください。解放を可能にするのはこれだけなのです。解放とはつまり、あなたの持つすべての間違った結論からの解放であり、あなたに罪の意識を感じさせ、神があなたに与えたいと思われるものを受け取れなくさせている強迫的な高い基準からの解放なのです。神があなたに与えたいと願われているものとは――幸福、光、そして愛です。親愛なる友人のみなさん、平和のうちにあってください。神の内にあってください。
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