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Pathwork Guide Lecture No. 51 独自の意見を持つことの重要性
IMPORTANCE OF FORMING INDEPENDENT OPINIONS  1996年版 1959年5月8日

 親愛なる友よ、こんにちは。皆さんに、神の祝福を。

 あなた方は皆、神の王国、愛の王国を探し求めています。しかし、善意に満ち、基本的な霊的真理や愛の重要性を認識しているにも関わらず、他者との関係で数え切れない程の困難に巻き込まれます。このような障害は、あなたを包み込んでいる無分別と、他者の無分別に対する理解の欠如によって生じます。他者の無分別はあなたを傷つけます。そして自らの無分別の中で、どれ程、またどれだけ頻繁に、他者を傷つけているのかに気づいていません。大事な皆さん、人は互いに無分別であるということを心に留めておければ、それは更に先に進む為の足掛かりの基礎となるでしょう。

 これを念頭に置くと、現実の又は想像上の不公平において、他者ではなく自らの無分別がどのように自らを悲惨な状態に閉じ込められているかに気づきます。確かに、何かが不公平に見えたり、実際に不公平であったりすることもあるでしょう。しかし、ここでお話しすることを理解すれば、異なる見方ができるようになります。あなたが他者のせいで苦しむ時はいつも、相手はあなた程に無分別ではありません。多くの場合、あなたの方がずっと無分別なのです!これを理解すれば、おそらく自らの無分別に目を向けるようになるでしょう。あなたはいつも、自らの無分別や理解の欠如を取り除くのではなく、他者のそれと戦うという間違いを犯します。あなたが自分の間違いに気づかないのは、自らの主張を非常に「はっきりと」見ているが為に、逆に考えることでそれを強化し続けるからです。このようなマインドの傾向を心に留めておくことで、無私無欲や愛する能力の基本的な要件のひとつである客観性を自然に育てることができるでしょう。

 自分がどのように傷ついたのかに集中すればする程、自らの小さなエゴを省いて相手の視点を理解し、変えることができない何かを受け入れることが難しくなります。自分自身以外の物事や人等の変えられないもの全てと戦えば戦う程、あなたは不幸になるのです。自己が「正しい」のかどうかに関わらず、そして現実または想定されるあなたへの不当な行為について責めるべき相手が見つかるかどうかに関わらず、不幸はつきまとうに違いありません。

 相手の不当な行為のせいで不幸になればなる程、変えられないものを受け入れられなくなります。だからと言って、ただ自らの罪悪感を満足させようと苦しめられたり、不当に扱われたりすることを望む病的で自虐的な態度で不正を受け入れるべきだという意味ではありません。自分自身が間違った態度でいなければ、不当なことから実際に害を受けることは決してないという認識に基づく健全な態度で、他者の過ちを受け入れてください。

 あらゆる危機、あらゆるブレイクダウンは、そもそも間違った態度によって引き起こされます。時を経て態度を改められれば、決してブレイクダウンに苦しむ必要はありません。この極めて重要な真実を本当に理解したいと望むなら、危機やブレイクダウンから身を守ることができます。このような状態は、決して外的状況のせいではなく、その状況に対するあなたの間違った態度に起因します。実際、ブレイクダウンは子供じみた癇癪であり、癇癪よりも程度が強いとしても、基本的な態度は同じです。人間の基本的な悪循環のひとつとして、癇癪について前回のレクチャーでもお話しました。

 ブレイクダウンが起こると、潜在意識はこう言います。「私はこんなことをされるべきではない。もううんざり。この忌々しい状況が、私好みの状態に変われば、私はまた良くなる。」友よ、実際に本当にその通りなのです。しかし、これは間違った態度です。このような感情的な傾向がある時には、身勝手さが強い度合いで広がっています。正しい態度とは内側へと向き直り、この辛い状況から何を学べるかを探し求めることです。どんな辛い状況でも、重要な教訓を学べないことはないと、皆さんは今ではもう良くご存知ですね。

 自意識と自己憐憫に満ちた態度で、ある転生から別の転生へと向かう存在は、世界を自らの好み通りにしようと無理強いします。それが力ではできないと分かると、病気やブレイクダウンといった他の手段を求めます。そして、この存在の魂の流れは乱され、最終的にその人は、この態度が頂点に達する転生において精神異常に陥りやすくなるでしょう。これが精神異常の基本的な理由のひとつです。これが唯一の理由だとは言いませんが、精神異常を引き起こす他の全ての条件は、少なくともある程度このことに関連していると付け加えましょう。精神異常の背景にあるこの真実が、皆さんの世界でより十分に理解されることを願っています。

 自分の周囲の世界、変えることのできない状態に適応しなければしない程、生命力は間違ったチャネルに入り込み、創造的あるいは再生的ではなく破壊的になります。その結果、あなたはより不幸でより不調和な状態に陥ります。それは非常に不調和で反抗的な気分から始まり、分離、自己中心性、無分別の壁に更に取り囲まれます。これらの性質は、周囲の世界に対して更に強く反抗させる悪循環という望ましくない結果をもたらす行動や思考を生じさせながら、否定的な結果の原因は見えないという状態を生み出します。次の段階では、何らかの形で癇癪が続き、それが人々や状況を変えてくれるという隠れた願望の中で最終的なブレイクダウンが起こります。このことを学ぶ為に地球領域に転生に転生を重ねながらも、それを学ばない場合、最後には精神異常が生じます。

 精神異常の原理は、軽度の癇癪と同じです。霊的および心理的観点からも、両者の基本的な態度は同じです。ただ、その程度は異なります。魂の流れの方向も、思考や感情も、本質的には同じです。

 精神の健康や感情的な健全さは、どんなに望ましくない状況からも学べることを見つけ出し、その状況に対しての戦いを放棄し、内面でリラックスし、自らの内にあるその状況の原因に集中することで状況に適応していく能力と意欲にかかっています。これには一定の謙虚さと柔軟性が必要です。それは、ありのままの人生を受け入れられず、自分自身が自らの人生を形づくったという事実を無視する硬直した自己愛を解消します。多くの場合、あなたは自らの内側に答えを求めていますが、未だに正しい方法で適応しません。間違った方向で自らの内側を模索しているのです。微かに自己正当化を求め、答えを探して遠くへ行き過ぎます。真の答えは、あなたが考え、見ようとするよりもずっと近くにあります。従って、唯一の解決策は、人生が変わるのを期待する前に向き直って、まずは自分が変わらねばならないことを認識することです。本当にその気になれば、答えは訪れます。そして、おそらく最良の答えは、あなたを傷つけた人々がもたらしてくれるでしょう。

 大事な友である誠実な皆さんがこのアプローチを試してみれば、手に入れようと努力している内なる自由に達するでしょう。この方法で達成せねばなりません。傷つき、不当な扱いを受けることへの僅かな満足…そうです、そこには痛みに付随した満足感があります。その満足を手放して先に述べた態度と置き換えることができれば、痛みや不調和を伴うことなく、遥かに大きく、充実し、長続きする満足を得ることができるでしょう。無分別の連鎖から自らを自由にすることで他者への理解は自ずと深まり、それによって痛みは解消されるに違いありません!

 親愛なる友よ、このような言葉は繰り返してきましたが、多くの皆さんにはこの反復が必要です。皆さん一人一人に対しての全ての愛を込めて言います。皆さんが試すならば、安心、浄化、解放を約束できます。

 ここで、意見というテーマについて話しましょう。この道において、自らの真の意見が何であるかを見つけることは益々重要になります。多くの人は、それが本当に自分の意見なのか、何故そうなのかを自らに問いかけることなく、出来合いの意見を取り入れたことに全く気づいていません。

 人間はよく感情的な問題に没頭するあまり、自らの意見ではない意見を持っていること、また何故そうなのかに気づかないままなのです。自らの意見が客観的に妥当であるかは問題ではありません。熟考の末に到達した自らの意見ではない場合、それは正直に到達した間違った意見よりも、魂にとって有害です。このことに驚かれるかもしれませんが、自らの間違った意見の方が、自らのものではない正しい意見よりも良い理由を示しましょう。

 初めの例では、あなたは誤っているかもしれません。良いではないですか、皆さんは人間ですから判断を誤りやすいのです。常に言っているように、正直な誤りは、勇気の欠如や、正直に到達した訳ではない意見にしがみつくような病的で弱い理由より遥かに良いものです。

 なぜ自分のものではない意見を口にするのでしょう?可能性のひとつは、単純に怠惰と惰性です。個人的な影響を受けないものは、真実の為に独力で考える努力をするほど重要ではありません。従って、すぐに他人の意見を取り入れます。自分にとって重要でもなく面白くもないテーマに関して全く意見を持たないことと、他人の意見を持つことは全く別のことです。

 自らの意見を持たないもうひとつの理由は劣等感です。他者の方が自分より良く知っていると確信している為、自らの意見ではなくその他者の意見に頼るのです。このような方法を続けると、悪循環が生じます。自らのものではない意見を持てば持つ程、無意識のうちに自らを卑下するようになります。自己卑下に陥る程、他者の意見を取り入れねばという見せかけの必要性が大きくなります。このようにして、前回お話しした非常に大きな悪循環とは別に、ひとつひとつの間違った内的状態がどのようにして悪循環を生み出すのかが分かるでしょう。この悪循環を断ち切る唯一の方法は、勇気を持ってその主題を調べ、自由に自立して再考察することです。もし異なる見解に達し、周囲とは異なるという代償を払ってでも、それに従って生きる勇気を持てば、自ずと自分自身を尊重するようになり、その結果、この特定の悪循環を壊し始めます。一方、再び同じ意見に達したとしても、今回はそれが本当に自らの意見になったのであれば、弱さのくびきから自らを解放する勇気と努力は同じように良い効果をもたらすでしょう。

 自らの意見ではない意見を持つもうひとつの動機は、同調欲求です。同調への願望は、いくつかに再分化されています。例えば、子供や未熟な人は自分が周囲とは違うと感じ、居場所がない、孤立しているという感覚を持ち、否定的な意味で個性的です。その為、子供は皆、他の子供達と同じようになりたいと思い、想像上の相違を非常に恥ずかしく感じます。魂が成熟するとこの傾向は変わりますが、それまでは他者の意見にしがみつこうとします。

 自らの意見を敢えて追求せず、同調しようとするもうひとつの動機は、未だ権威に反抗している分野にあります。依然として所属することを切望しており、反抗は隠されているだけではなく、人生の特定の分野に限られている為、他の方法で周囲に同調することでその反抗の埋め合わせを望むのです。

 他人の意見を保持するもうひとつの動機は、反対意見を取り入れることによって、自らが否定する願いそのものを覆い隠すことです。自らの欲望が公の意見と合致しないので、その邪悪さを確信します。それに加えて、主要な悪循環から生じる一般的な罪悪感もあります。その為、自らの感情や無意識の願望と調和しない意見を持たざるを得ません。これらの感情や無意識の願望が望ましいか望ましくないかは、ここでは問題ではありません。しかし、どのような場合でも、恐れや弱さから公の意見を採用して外的に同調したとしても、誤りかもしれない欲望は排除できません。そのように採用された意見は、往々にして厳格であり、暴力的でさえあります。

 これらすべての場合において、あなたは自らの人格を冒しています。自分自身でいて、自らの結論に到達する勇気が欠けています。想像上の個人的利益の為に自らの真実を売り渡し、大抵無意識の内に自己卑下を助長します。

 付け加えるならば、親であれ誰であれ、嫌いで拒絶している権威と正反対の意見だからこそ、その意見を持つ場合もしばしばあります。この場合、動機は同調ではなく、まさにその反対です。反抗、反発、憎しみによって、意見が形成されます。従って、同調するのと同じ様に束縛されています。同じ様に依存しているのです。

 これで、独力で到達していない意見や、感情的な関与から自由でない意見を持つことがいかに有害であるかお分かりいただけたでしょう。これらの動機の内、どれが自分に当てはまり、自分を拘束しているか見つけてください。もしかしたら、これらのコンビネーションなのかもしれません。場合によっては、ひとつが顕著でも、他の要素も依然として存在しているかもしれません。

 危険なのは、自らの意見をうまく正当化できるあなたの合理化で、弱く依存的な動機を隠してしまうことです。意見の妥当性は、ここのポイントではないことを忘れずにいてください。あなたが言うことは正しいかもしれません。しかし本当のところ、何故そのような意見をもっているのですか?どうしてそれに至ったのですか?その意見を保持する内的な動機は何ですか?これがこのワークの難しさです。意見の妥当性があまりに強すぎて、その背後にある感情的、主観的理由を見つけることもあります。自らの動機を見つけるには自分自身への最大限の正直さと、その他にもう少し必要です。あなたの意見のいつくかにある僅かに感情的な風味を察知する為には、ここで書かれている全ての機微を理解し、それを自らに適応する深く根付いた善意も必要なのです。自らの反応に耳を傾け、それを感じることで、その根源にたどり着くことができるでしょう。あなたの優れた理論に注意してください!それに説得力がある程、真の動機を隠している危険性は高まります。

 強い主張がある一般的なテーマを取り上げ、自分ひとりで、又は仲間と一緒に行っているワークでそれについて検証することを提案します。政治、宗教、愛や性についての考え、ある程度全ての人に関わるものであれば何でも構いません。本当はそれについてどう考えていますか?どうしてですか?別の環境で育っていた場合、周囲から違う影響を受けていたなら、あるいは人生の状況が異なっていても、同じ意見を持ったかどうかを考えてください。この自問自答は、より客観的な見解を与えてくれるので健全です。

 人は殆ど全ての見解に対して正当性を見つけることができます。また常に、正反対の見解にも一理あります。それを見ようとしてください。そして、自分がこれまでどれだけ主観的であったか気づいてください。自らの意見を保持することに個人的な利害関係があることを認められ、それが客観的な判断にのみ基づいている訳ではないことを認められれば、それはすでに大きな進歩です。このような自分への正直さは、魂にとって大きな利益です。

 このテーマに関して質問はありますか?


 質問:完全に理解していないことがあります。時間が非常に限られているので、多くのテーマについて満足な意見に至る為の十分な情報を集め分析する時間がないように思えます。従って、人は意識的に感情的に基づいた意見を採用せざるを得ないのです。

 回答:まず友よ、あなたに質問させてください。あなたは感情的な根拠に基づいて意見を採用した例に本当に気づいていますか?そんなことはないと思うのですが。

 質問:そうですね、気づかないことが多いことも確かでしょう。しかし、完全に気づいている場合もあります。例えば、僅かな時間を割く程の関心もないテーマの場合等です。

 回答:感情的に影響を受けた瞬間、そのテーマは重要な意味を持ちます。テーマが重要でないのは、感情移入できない時だけです。感情移入できない質問は沢山あります。自分にとって重要でなければ、「分からない」と言えます。従って、意見はないのです。例えば、科学的なテーマの場合、あなたが分からないと言うことは簡単でしょう。個人的に感情に触れるものがないのです。ところが、特定の分野で働いている科学者は、感情的に複雑かもしれません。そうでなくとも、そのテーマは彼にとって依然として重要です。従って、詳しく調べなくてはなりません。しかし、自分が何も知らないテーマがあることをプライドが高すぎて認められない場合以外は、そのテーマについて特に意見はないと言えるでしょう。その場合、感情的に関与することになります。こうして、何もわからない、あるいは殆ど分からない意見を取り入れることになるのです。確かに、存在するテーマの全てを学ぶのは不可能だというのは事実です。私は、あらゆるテーマについて意見を持つべきだと言っているのではありません。ただ、意見を持つのであれば、それは自らの意見であるべきだと言っているだけです。

 更に、自らの意見が客観的に真実であったとしても、それが感情に基づいており主観的だと認識するだけでも非常に大きな意味を持ちます。多くの人は、このことに全く気づいていません。だから、実際に、皆さんがそのことに気づくよう、今宵このテーマについて話しているのです。かなり長い間、あなたにできる最善は、おそらくこの認識を得ることです。一度に完全に客観的になることはできません。そのように公平な態度に達するには、人生のある分野では客観的になれないことを悟る段階を経なくてはなりません。「私はこのことに感情的に関与しているので客観的ではありません。今のところ私の意見はこうですが、これは主観的な意見だと理解しているので、完全には信じていないので、あまり深刻には考えていません。」と言うのは健全です。危険なのは、非常に優れた論拠で自らの意見を説明しながらも、自分が深く主観的に関与していることに全く気づかないまま、その意見が完全に客観的なものであると確信していることです。

 質問:意見を持つ適性がない場合でも意見を持つべきだと、あなたが仰ったと理解したのは私の誤解でしょうか?

 回答:確かにあなたは誤解していました。知らないテーマについて意見を述べることは何も悪いことではありません。逆に、それで良いのです。しかし、自らの意見に反する意見が出される度に不調和を感じたり、内面で怒りを感じたり、自らの意見が正しいと他者を説得する欲求を強く感じたりするならば、何処でどのように感情的な関与があるのかを調べるべきです。考え得る全てのテーマについて意見を持つよう私が助言するならば、それは非常に馬鹿げています。

 質問:大多数が意見を持っていると思われるテーマについて、意見を持てないという問題についてはどうですか?

 回答:それは問題ではありません。自らの意見でないことが多いものの、多くの人が意見を持っているという事実は、あなたが学んでいないテーマについて意見を持つべきだという理由にはなりません。それは何も悪いことではありません。パターン化している場合、つまり、自分自身にとって重要なテーマであるのに意見が形にならない場合には、自らをよく見つめるべきです。そのパターンを調べれば、何かが見えてきます。何故、意見を持てないのか分かるでしょう。意見を言えないことの背後にある心理的な理由は何でしょう?
自らにコミットすることへの恐れかもしれません。摩擦を避ける為、好かれ「尊敬される」為、他者から浮かないようにする為、特定の責任を回避する為に、意見を述べることを控えているのかもしれません。信念を持つと、その瞬間からある種の責任が伴います。意見を形にできないことの背景にはそれらがあるのかもしれません。ほんの僅かな一見重要ではない症状から、比べものにならない程遥かに重要なものが見つかるかもしれません。この新しい視点から人生を見つめ直せば、自分のものではない意見を持つ理由や、心理的かつ感情的な理由で意見を形にできない、むしろ形成したくない、 隠れた理由に関する手掛かりが見つかるでしょう。

 質問:死後、肉体が崩壊し、その後、サトル・ボディーのひとつが崩壊します。それはエーテル体ですか?それともアストラル体ですか?

 回答:親愛なる友よ、ここではそのことに立ち入る必要はありません。それに関しては、オカルトや秘境的な文献で十分に述べられています。それに、それは本当に重要なことではありません。

 質問:この質問は、考えていた疑問の一部に過ぎません。霊的なボディーがただひとつの体となると、それには深い感情や感情的な人格というものはあるのでしょうか?

 回答:はい、あります。でも非常に異なる形を取ります。確かに、神によって創造された全ての霊的存在は人格であり、従って、感情、反応、意見を持っています。しかし、それは人間の未浄化なものとは大きく異なります。ハイヤーセルフ、あなた自身の内に住む神聖なる存在は、銘記し、感じ、見ますが、その感情は、あなたの感情と子供の感情とが異なるように、人間の感情とは異なります。ある状況においては、あなたの反応は子供の反応とはかなり異なるでしょう。お気に入りの人形が壊れたら、子供は世界が終わったと思うでしょう。子供には、それは悲劇ではないことが分かりません。大人としては子供に共感しその悲しみを理解しますが、喪失の影響を同じように受けることはありません。未浄化の人格と神聖なる人格との間にも、同じような関係が存在します。神聖なる人格は、あなたの外的な人格を見守り、観察します。何があなたにとって良いかの意見が、多くの場合に異なります。それは、あなたを正しい道へと導こうとします。時々、あなたはその導きに身を任せることもあれば、そうでない場合もあります。自らの身勝手さと無分別が障害となるからです。

 神聖なる人格が外的な人格と同じように感じたり反応したりしないという事実は、神聖なる人格が感じも反応もしないことを意味する訳ではありません。その感情は洗練されており、遥かに賢明です。目標は遥かに高く、比べものにならない程に限りなく広く、長期の見通しがあります。

 質問:愛は成長するものだと教えられます。しかし、そこまで愛がある状態ではなく、時々何をするのが正しいことなのかと迷う場合、その正しいことをする準備がまだ完全にできていなくても、正しいことをすべきだと感じます。愛のためにそうすべきだと感じるのです。その場合、「すべきこと」として行うことは正しいのでしょうか?

 回答:一般化することはできません。どのようなケースで、どのように「すべきこと」が実行されるかによります。強迫的な「すべきこと」は、勿論望ましくありません。しかし、このパスワークにおいて自己認識を育てる過程で、自らの特定の行為がそれ自体は良くて正しかったとしても、それを支える感情なくして行われたことに気づいたとしましょう。あなたは、報酬の駆け引き、罪悪感の緩和、自己破壊の欲求の助長などの弱く病んだ動機から正しいことをしました。これら全ては無理強いに繋がります。さて、問題によっては、心をこめてそれを実行する準備が整うまで、正しいことの実行を中断するのが正しい場合もあるでしょう。しかし、別の場合には、あなたの欲望はまだとても粗野で、それを公然と表現することは、他者そして言うまでもなく自らに害を及ぼすかもしれません。これを認識してください。危害を加えることを避けたいと願う人格の部分と、そうではない人格の部分があります。これまでのところ、あなたは入り混ざった動機から、正しいことを行ってきました。その動機には部分的に良いものもあり、他の部分では病んだ弱い動機を正しい行為で隠す為のものです。この事実を認識することで、あなたは勿論正しい行動を続けるでしょうが、今では内なる動機に気づき、自らの動機の全てが善良で純粋だと自分自身を欺くことはなくなるでしょう。そうして無理強いはなくなります。行為は変わりませんが、例えあなたが純粋な愛の動機が未だ持てなくても、その認識を通して動機は変わります。

 以前の動機が無理強いであり、完全に本物ではなかったことが分かると、逆の極端に陥り、粗野な感情を爆発させる危険性があります。間違った動機から正しい行為を行なっていた場合、「正しい」動機から間違った行為をすることが適切であると考えるのでしょう。少なくともそれなら正直だからです。正直である為に、有害な利己的な行為をする必要はありません。動機がまだ純粋ではないこと、純粋な愛の動機をまだ持てないことを認識すれば十分です。それに、利己的な行為を望むのは、決してあなたの全人格ではありません。それは一部でしかあり得ません。自己欺瞞と無理強いによる行為をやめた後、神聖なる自己と一体にできるようになる前の中間段階では、自らの気持ちと、特定の結果を求める駆け引きをやめるべきだと理解しながら、正しい行為を続けることができます。こうして、神聖なる自己の顕現という完璧な状態に達するまでのギャップを埋められます。これが愛を学ぶ方法です。まずは、過去と現在の動機について自らに正直になります。次に、まだ愛することができなくても、正しい行動を続けます。間違った行為をすることは、これまでの正しい行為以上に自分自身に真実ではないことです。この点において純粋でない限り、人格は常に分裂しているからです。自分自身とひとつになれば、完全に愛情深くなります。その時まで、自分がこの目標に達していないことを認識すべきですが、それは正しい行動を諦めることではありません。そのようにして、あなたの中で、徐々に何かが成長し花開くでしょう。正しい行為を自己欺瞞なしに行うことで、いつの日かその行為をする自分自身と完全にひとつだと感じられるようになることを願いながら、魂の中で光と愛の力を育てるのです。分かりますか?

 質問:はい。今のところ全部とても明確です。以前のレクチャーで、人間は完全に愛することも完璧であることもできないと聞きました。それでは、人は他者からどれだけの愛を期待できるのですか?多くの欠点があっても、愛されることを期待できますか?

 回答:愛を期待することは、愛を手に入れる妨げになるかもしれません。それは何を意味するでしょう?その人の中に、まだ駆け引きが残っているということです。心の奥底で、実際に次のように言っています。「安全ならば、私は愛するつもりがある。私が愛するのと同じだけ、私も愛されると確信する場合にのみ安全なのだ。」人によって様々な愛の形があることを理解するまでには、数多くの探求が必要です。そのような理解によって、同じ愛の形が帰ってくることを期待せずに愛することができるようになります。ある人の小さな行為が、他の人の素晴らしい行為よりも大きな意味を持つかもしれないと気づくでしょう。それはとても相対的であり、その感覚を養うことは可能です。

 あなたは「欠点があっても、愛されることを期待できますか?」と尋ねました。おそらく、最善の態度は、欠点のある他者を愛するのと同じだけ、欠点のある自分も愛されることを期待するというものです。友人の皆さん、まさにそうなのです。厳格に聞こえるかもしれませんが、そうではありません。魂の流れの磁力はこのように働くのです。他者の欠点に不寛容であるのと同じ分だけ、あなた自身もジャッジされ、その程度の愛を受け取ることになります。それ以外の方法はありません。

 質問:正しい行動に関して、強迫観念に縛られている人は、どのようにして正しい行為と間違った行為を見分けられますか?

 回答:多くの場合、それは不可能であり可能でもあります。ある選択肢が正しく、別の選択肢が利己的であることが明らかな場合も多いものです。

 コメント:地球上の言語では愛とみなされるものが、実際には憎しみに相当することも非常に多いことは、これまでに学んできました。

 回答:それほど明確ではない場合、自分自身がより一層明確になるまでは、とにかく大きな決断はできないし、すべきでもありません。私が話したのは、明らかに分かる利己的か無私の選択を迫られるような日常の小さな行為です。あなたが提起した問題は、全く別のテーマです。それに関しては次回、より幅広く取り上げたいと思います。このふたつは全く別な質問です。

 では親愛なる友人の皆さん、神の名において祝福されますように。自らの道を歩んでください。続けてください。例え事態が絶望的で暗く見える時があったとしても、神の力と光は、常に皆さんにもたらされる筈です。決して忘れないでください。皆さんにその気がある限り、神の光は再び現れます。太陽は再び輝きます。ここにいる皆さんを祝福します。皆さん、平和の内に、神の内にありなさい。


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