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No. 81 二元性の世界における葛藤

Pathwork Guide Lecture No. 81
1996年版 
1961年3月3日

  
二元性の世界における葛藤 
CONFLICTS IN THE WORLD OF DUALITY


ようこそ、親愛なる友人のみなさん。神は、みなさん全員を祝福しています。神の祝福を受けたこのひとときを。

 この道の途上で、みなさんはさまざまな段階を経験していきます。大まかにいうと、これまで私たちは無意識のマインドの最初のレベルの探索をしてきました。このレベルにおいて、みなさんは人生のさまざまに異なる側面について持つ、固定化された一般概念で形成された間違った印象や間違った結論を心に抱きます。私たちは、これら魂の中の硬直した形として現れるものをイメージと呼んでいます。これらの一部は取るに足りないものだと考えられていますが、人生を歪めるのに大きな役割を果たしています。

 私たちは二元性の世界にどっぷりとつかってきました。そこは潜在意識の表層の下にある世界です。より深いところにあるこのレベルにおいて、対極の争いが繰り広げられています。この争いは、みなさんの人生に大きな混乱を創り出します。この混乱は、一見したところより些細に思える問題と同じように、大きな問題と関係しています。対極の中でも重要なものは生と死、幸福と不幸、愛と利己主義、光と闇です。人生に対するある態度、つまり自分の望むゴールへとつながるはずだという態度が混乱をもたらし、少なくともある程度は望まないゴールにつながります。この現象を理解し、この混乱した結果の原因となる行動や反応の内側にある誤りを見つけ出すには、自分に正直でいることと、気づきのための多大な努力が必要とされます。

 宗教は、神と悪魔の闘争と同じように、両極の間での闘争を象徴しています。この二元性から起こる混乱は人類を欺く魔王サタンの策略であるため、もはや神の道と悪魔の道を明確に区別することはできないと言われています。本質的に利己的で破壊的なものが、正反対、つまり正しく聖なるものとして表面レベルに現われることが多いのはこのためです。その逆もまた同じです。欺瞞を生み出す真実の歪みは、光の力と闇の力との大きな争いの一部です。人間は、この大きな争いが自分たちの外部で激しく繰り広げられているのだと間違った想像をし、自分たちはちょうどその中間で捕らえられた犠牲者に過ぎないと信じているのです。

 自分が直面する日々の選択肢の中から選択するということは、しばしば混乱を生み出します。これらの選択肢は、単に「良い」か「悪い」か、というものではありません。どちらも人間の魂の中にある同じ根本の葛藤に由来します。

 近代心理学は、これと同じ根本的な問題を認め、それを「生の本能」対「死の本能」、もしくは「喜びの本質」対「現実の本質」と名付けています。しかし、現実の本質との関係において、そこにもまた混乱があります。そのため、人々は、どちらが神を表し、どちらが悪魔を表すのかがはっきりわからないことが多いのです。喜びの本質は利己的なものであるがゆえに破壊的なのでしょうか? 他者を傷つけることなく、喜びに浸りきることができますか?現実の本質は義務や責任、仕事、達成を表すがゆえに建設的なのでしょうか?一方で、みなさんは神とは幸福であり、祝福であり、光であること、そして喜びはその本質としてみなさんにまさにそれを切望させるものだと教えられています。それに気づいていようがいまいが、ちょうどこの点で、みなさんは人類の大きな混乱の一つに巻き込まれているのです。
この道でのワークを通じて発見したすべての葛藤の下には、自分の二元性の世界とつながるさらに大きな葛藤があるのです。イメージや誤認の背後には、必ず葛藤があるのを見つけるでしょう。あらゆる点において複数の選択肢の間で引き裂かれる自分自身に気づくでしょう。幾重にも上塗りされた動機を剥がしていくことによって、その核の部分で、みなさんは基本的な両極を見つけ出すはずです。

 しかし、両極の間でみなさんが引き裂かれているこの二元性のレベルが核の部分なのではありません。その背後にあるものが二元性の世界の発端であり、二元性の世界とは、みなさんのイメージが生まれた場所と同じ場所なのです。不思議なことに、この根底にある源は、次のレベルにおいては両極の内の一方となります。言い換えれば、統合された核である源は、意識の次のレベルにおいて、両極に分裂してしまうのです。この根底にある核とは完全なる幸福、光、愛、祝福、平和へのみなさんのロンギング(切望するもの)です。本来のロンギングは至福ですが、地球上での人生はこのような充足を妨げます。そして、この妨げこそが、二元性の世界を作り出し、それゆえに葛藤を創り出しているのです。しかし、同じように、二元性の世界がこの妨げを創り出しているというのもまた、真実です。それは地球上での人生の状態、つまり喜びの本質に対立するような「現実」を創り出しました。心理学の用語、スピリチュアル用語で言えば、地球上での「現実」は、至福という聖なる本質と対立しているのです。

 このことは、みなさんを悪循環へ陥らせます。そこからどのように抜け出せばよいのか、また真実の光の道をどのようにして見つければよいのかという質問は、とても妥当です。まずみなさんは、少なくとも部分的に、一つの核から人間が創り出した二元性の創造物について責任を負うべきは何であるのかを理解しなければなりません。

 地球上での生は、必然的に肉体の死を伴います。たとえ人生の苦難の多くを、混乱から生み出された不必要なものとして取り除いても、肉体の死は残ります。それは未だに謎で、未知であり、したがって宗教的信仰を持っているとしても、非常に恐ろしいものです。肉体の死は、人生へのロンギングとは恐ろしいほどにかけ離れたもので、すべての終わりであるかのように感じられます。本質的に、人生とは至福を意味します。すべての宗教的解釈は、それがどんなに真実であるとしても、憶測の域を出ないのです。したがって、論理的な手順に沿って進むことで、私たちは、死への恐れが二元性の世界を創り出すことを、そして二元性の世界が人類のロンギングを完全に成し遂げることに異を唱える現実を創り出すのだということを知るのです。これによって、私たちは死という問題と共に取り残されてしまうのです。これに対処するには、悪循環を打ち壊さなければなりません。

 人類は、その存在が始まってからずっと、死という問題に取り組んできました。不幸なことに、これらの試みは不十分なものであり、成功することはありませんでした。それはまるで、近道や回避によって心理的問題を解決しようとする試みが必然的に失敗に終わると運命づけられているのと同じです。正面から問題と向き合うかわりに、みなさんは真実であるとされる既成の答えをそこに上塗りしています。しかし、それはあなたという個人にとっての真実ではありません。なぜならみなさんは、そこに到達するのに、問題に直面することによって得られる強さや勇気を使っていないからです。みなさんはむしろ、恐れや弱さを回避するという道を選択しています。これは問題に対処する一つのやり方です。恐怖から信仰に頼りきっている多くの宗教的な人々は、この地球上での死という現実と直面することを避けたいと願っている例です。

 死という問題に対処しようとする別の試みは、その人が最も深く切望するまさにそのものを否定することです。人類は至福と永遠の命を切望しますが、それを望む多くの人はそれを手に入れられないことを恐れます。したがって彼らは、自分が最も切望するまさにそのものに対する否定へとすぐに入り込んでしまいます。この自己破壊性は、すべてのレベルにおいて見つけることができます。それは、人生においてあまり重要でないような側面に対する態度の中で現れますが、基本的には、死という問題に対処するみなさんのやり方です。無神論者/物質主義者、そして信心を上塗りすることで死を避けたいと願っている表面上信仰深い人々は、どちらもそれぞれその原型です。どちらもそれぞれ本質的には同じことです。つまり、自分が最も望んでいるものを放棄していることを認識していないのです。彼らは互いに激しく対立しています。なぜならお互いに、それぞれが大きな問題の解決法であると信じているものと正反対のものを表しているからです。それにもかかわらず、どちらもその答えを見つけ出してはいません。なぜなら、その答えとは自分、つまり内なる自己から出てくるべきものだからです。勇気を持ってこれらの問題や疑問、混乱や恐れに目を向け、そして今まで自分独自の対処法を使ってどのようにそれに取り組んできたかを考察することによってのみ、その答えがもたらされるのです。

 今私がお話している神へのロンギングは、遠く離れた抽象的なものに聞こえるかもしれません。魂の持つ神聖なる至福を想像しようとすると、みなさんが自動的に想起するものは、人類が求めてやまない幸福とはまったく違ったものを生み出します。みなさんは、天界の至福を退屈で面白みのないもののように想像しています。多くの人々が、まさに不幸の存在こそが、幸福とは何なのかを伝えてくれると信じ込んでいます。もちろん、これは真実ではありません。ほとんどの人にとって、「幸福」という言葉がこのように曖昧で遠く離れたスピリチュアリティを暗示していますので、その代わりとして「あなたという存在のすべてのレベルにおける至高の幸福」という言い方にしましょう。この「至高の幸福」を切望するみなさんの深いロンギングは、みなさんが地球上の現実とみなすものとの間にある葛藤の中にあります。これは、みなさんが「死」とうまく折り合いをつけることができずにいる結果です。

 近代心理学では、この深く根ざしたロンギングは胎児が何らかの心配や責任、困難な状態で生きていた子宮への回帰願望に由来していると主張しています。その存在が成長するにつれ、人生のより多くの現実と直面しなければなりません。したがって、苦しみもさらに激しくなります。しかし、人間のロンギングは、母なる子宮よりさらに遠くへと遡ります。真実は、みなさんの魂の奥深くに、違う意識の状態での生についてのぼんやりとした記憶が刻まれているということです。それは、対立する状況も何もなく、みなさんは最高の至福以外何も知らなかったときのことです。たとえみなさんが転生をして肉体を持つ存在として生きる間にでも、徐々に、段階的にある程度はこの状態を取り戻すことができるのです。そのためには、みなさんの持つイメージや間違った結論を取り除くだけでは十分ではありません。今そうであるように、みなさんは必ず二元性の世界というレベルに遭遇します。その最も深い核の部分で一度理解が訪れたなら、みなさんは自分の死に対するもがき、もしくは、もしそう呼んだほうがいいのであれば「喜びに敵対するもの」と直面することとなるでしょう。

 前にも指摘したように、死に対処する無意識の試みには大きく分けて二つのやり方があります。どちらも否定に基づくものです。一つは回避によって、もう一つは故意に自分が最も恐れるものの中へと入り込んでいくことによって行われます。どちらの選択肢をとっても、みなさんは死に対して絶望的にもがき苦しみます。弱さというネガティブな精神の中で恐怖にしがみつき、故意に死を選択するときも、あなたのもがきが減るわけではありません。これらは、強さから健全な方法で死を受け入れるという選択とはまったく違ったものです。

 私が「死」という言葉を用いるとき、それは単に肉体の死だけを意味しているわけではありません。私は、人生のすべてのネガティブな側面について、喜びの衝動に対抗するすべてのものについて言及しているのです。その意味において、死とはまた喪失や変化、そして未知なるものをも意味します。その未知なるものとは、今みなさんがある状態よりもより良いものを含んでいます。しかし、それがまさに未知なるものであるために、それは恐怖になるのです。日々たくさんの小さな死を経験していない人はいません。

 すべての側面において、死に対するみなさんの姿勢が生きる能力と喜びを経験する能力を決定します。死に対する姿勢が健全であればあるほど、より多くの生命力がみなさんの中を流れ、したがって、みなさんの喜びの衝動の満足はさらに健全に、そして永久に続くものとなるでしょう。

 最初のステップは、自分が死というものに対してどれほど戦っているのかを見つけ出すことです。ちょうど、最高の喜びへの不変のロンギングに十分に気づく必要があるように、このことにも十分に気づいてください。どちらも深く隠されているかもしれません。死に対処するためにみなさんが選んだのはどちらの方法なのか、それを見つけ出してください。それを回避するか、その中に飛び込むか。どちらの方法もすべての人間の中に存在していますが、どちらかが優勢だということです。後者の試みでは、みなさんは自分が得ることのできた幸福を故意に妨げます。なぜなら、それをまた失うこと、もしくは自分が望む程度にまで達しないことを極度に恐れているからです。みなさんは「死、あるいは喪失とは、どうしても避けることのできないものだ。だから、それ自体を使ってそれを乗り越えるのも悪くはない」と言います。この極端な例が自殺です。

 みなさんは、死を否定する二つの不満足で有害な試みの間で引き裂かれています。これらの人為的で強制的で窮屈な試みは、みなさんが避けたいと思っているものを引き寄せ、そして手に入れたいと願っているものを失わせてしまいます。したがって、強さと癒しを見つけることは、死を受け入れること自体にではなく、いかに死を受け入れるための選択をするか、の中にあります。恐れやネガティビティ(どちらも自己破壊性へとつながるものですが)と混ざり合った受容は、健全で強い、避けがたいものの受容とはまったく異なっています。恐怖に震えるのではなく、正面からそれと向き合うことにより健全に受け入れることができるのです。それによって、あなたの中の生命力を解放します。その生命力は、健全な方法で死に対処することを学ばないかぎり封じ込められたままで残ります。

 みなさんは、解決法が受容の中にあると感じていることでしょう。しかしまた同時に、受容の中には滅亡が待っているとも信じているでしょう。この混乱が意識にのぼらないかぎり、みなさんが迷宮からの出口を探し始めることはできません。

 この混乱に直面すると、人々はたいていさまざまな形で宗教に救いを求めます。しかし、彼らは、回避や恐怖の心からそうするのです。このようにして、その教えがどれだけ真実であったとしても宗教は本当の助けにはなりません。それは間違った種類の受容が助けにならないのと同じです。このような種類の信仰はそれに帰依する人々を救ってはくれません。なぜならばそれは弱さからの受容であり、人間の動機を汚すからです。その動機の虚偽を深く感じると、それを選択した自らを軽蔑してしまいます。さらに言うと、ただ上塗りされた信仰はそのような人を助ける真の力はありません。彼らは神を受け入れ、神が示唆する信念のすべてを受け入れますが、それは真の確信から生まれたものでも、深く純粋な洞察から来たものでもありません。彼らは恐れているのです。したがって、宗教に反対する人が宗教とは麻薬だと言っていることは正しいのです。同じ理由で、物質主義に反対する人が、物質主義的なものの見方を拒否するとき、その主張は正しいのです。彼らはその考えが真実でないからだけでなく、それを受け入れる動機が恐れだからです。

 このテーマを深く掘り下げれば掘り下げるほど、私たちは、解決法が未知のものと向き合い、その恐怖に直面することの中にあることをより深く理解します。私たちに与えられた課題は、死ぬための強さを学ぶことです。なぜなら、いかに死んでいくかを知る人だけが、いかに生きるかをも知るからです。

 言うまでもなく、死に方を学ぶために、実際の肉体の死の経験を待つ必要はありません。みなさんは死を暗示するものに対して時折恐れの意識を持ちますが、それだけが死を学ぶための助けとなるのではなく、日々の生活を構成する小さな死のすべての側面もまた同じようにみなさんの役に立ちます。いかに死ぬかを知らなければ、生きることはできません。なぜなら、魂の中で二元性を引き起こす両極のものを調和させることができないからです。したがってみなさんは、未使用の領域にある生命力を解放することができずにいるのです。

 友人のみなさん、自分の信仰もよく調べてみてください。それを知ることを恐れないでください。どれくらいの程度であろうと、それはまた、弱さと恐れからしがみついているものの上に知識として上塗りされているのです。このことを率直に認めることで、確信と知であるとも言える真の信仰を確立するための、まさにそのための力(強さ)が与えられます。それは、今までは知識としてしか理解していなかった、内面の真実の経験からもたらされます。十全に死に対処することを学んだあとに、これは確かだという確信がもたらされます。みなさんの死を受け入れる能力が、積み重ねられた知識、つまり人生が終わることはなく、死とは幻想であるという知識にその基礎を置いているかぎり、みなさんの信仰は砂上の楼閣に過ぎません。しかし、信じられないことや不確かなもの、そして恐れと直面するという偉大で勇気ある一歩を踏み出し、未知なるものを受け入れることによってそれらと折り合いをつけるならば、みなさんは自分の強さを確立し、真の確信とスピリチュアルな真実の経験のための場所を作り出すことができるでしょう。そうすることで、そのときみなさんは「生きること」を学び、それが真にみなさんの一部となるのです。その生命力は解放され、至福を切望するロンギングのほとんどが、地球上にいるにもかかわらず満たされることでしょう。

 捜し求めてください。そうすれば、みなさんという存在の中にある、死を避けるという目的のためだけに生にしがみついている部分を見つけることができます。この動機はネガティブなものであり、生命の力自体を否定しています。しかし、もしもみなさんが死と向き合い、そしてそれと折り合いをつけるならば、ポジティブな精神のもとで人生を抱きしめることができるでしょう。これだけで二元性という問題を解決できます。なぜなら、二元性とは否定から生まれるものだからです。

 二元性の問題は、発達と成長の道筋に沿って徐々に取り組まれるべきものです。なぜならば、ある人にはすぐに表面化し、別の人にはより後になって表面化することもありますが、必ずすべての人にもたらされるからです。

 死への恐怖に上塗りされた部分に直面するとき、自分の信仰に忠実でないことを恐れないでください。毎日の生活の中の小さな出来事の中で死が不確かであることを知り、それを受け入れることができるときにだけ、みなさんは真に強くなれるのです。この強さは、回避することやその他のネガティブなことからはもたらされることはありまません。みなさんは、死とは生の不可分の一部であることを知るでしょう。この方向性のもとで成長する分だけ、生命力はみなさんの中を流れ、みなさんがまだ肉体に在るときであっても、本当の幸福、最高の喜び、真の安全とは何であるのかを教えてくれます。

 文明化した生活の多くの側面は、ある程度は地球上でも得ることができるはずの最高の至福を妨げます。それらは、内なる二元性の直接的な結果であり、死ねないことからもたらされるのです。このような文明化された人生は常に、みなさんに喜びと不快という選択肢を突きつけます。よく考えてみましょう。例えば、みなさんの創造的な能力や傾向に従っていない仕事、ゆえにみなさんの好みや喜びに従っていない仕事。さらに、政治的、経済的、社会学的な要因から生じるすべての「しなければならない」を伴う仕事の状態は、内面の二元性の結果そのものであり、生きる苦しみを必然的に伴います。これが野心や衝動、そして強制を助長します。さらにこれらは、地球上での現在の人生という枠組みの中でのみ必要とされるだけの義務をその人に突きつけます。このようにして現実の原理は作られ、自分のものになるはずだった幸福の実現や心の底から切望するものがまったく正反対の場所に置かれるのです。ここで、個人の内面の問題は、人生を無駄に困難にしてしまう文明化という状態を集団的にもたらしてしまうのです。したがって、たいていの場合、不愉快極まりないみなさんの現実は多くの側面で不必要なものであり、内面の二元性が集団的に具現化したものとして現れます。一人ひとりがこの内なる問題に向き合い始めるにつれ、とても捉えがたくはあるけれども確固たる方法で、世界を変え、これらの状況を変える助けとなるのです、自己の内にあるこれらの問題に焦点を当てるにつれ、より健全なやり方で、不必要な二元性に対処することができるようになります。そして、同時に、非常に過酷な集団的現実の原理を変えるための一端を担うことになります。

 さて、別の葛藤と混乱について触れておこうと思います。このワークの道筋で、幸福や愛、充足への願望、もしくは、私が今夜使った言葉に言い換えるならば、至高の喜びへの願望にみなさんは痛切に気づいたかもしれません。このロンギングは、元はと言えば幼かった頃にみなさんが成就できなかったことから生まれ、今は誇張された渇望として現われていることを発見しました。みなさんは、成熟した愛への健全な望みと、愛されることを必要とする子どもじみた渇望とを明確に区別することを学びます。これに気付くことでみなさんはある程度はこの渇望から自己を解放します。それでもなお、みなさんは、この度を超えた要求がどこからきたのかを理解する必要があるのです。このニーズは、心の奥底に刻み込まれたぼんやりとしたかすかな記憶から生じています。

 みなさんは「もしこの望みの根源がスピリチュアルなものであるならば、なぜそれが不健全なのですか?」と尋ねるかもしれません。人類が創り出した現実が与えられているこの地球上で、このように極端な期待を満たすことは不可能だというのが、その答えの一部になります。成熟した愛というのは、受け取りたいと望むのと同じだけの愛を自ら進んで与えるものであるのに対して、子どもじみた渇望というのは一方的なものだというだけでは十分ではありません。大人の中で、子どもじみた渇望は成熟した愛の能力と微妙に溶け合い、「もしこのような完璧に満足できる愛を見つけることさえできれば、私のすべてを喜んで与えるのに」というように個人的に正当化するための理由として残ります。たいていの場合、これは本当です。しかし、答えはもっと深い場所にあります。

 一方にある未成熟な欲求と渇望、そしてもう一方にある至高の喜びと愛への成熟した望みとの違いは、感情の激しさによって決められるものではなく、時間という要素、そして誰もが持つ自己対他者という幻想よって決められます。多くの場合、本能を満足させることや望みを成就させることは葛藤を引き起こします。なぜなら、それは同時に他者にとっては害を与えることがわかっているからです。本能を満足させることや望みを成就させることは、みなさんを利己的にしてしまうのです。このようにしてみなさんは、自分は喜びと利他的態度とのどちらかを決めなければならないと感じます。これらはどちらも、神聖なる目的の一部です。人はこの二元性に、どのようにして対処すればいいのでしょうか?人類の発達の偉大なる過渡期において私が行った、最近の講義を思い出してください(講義№75)。その講義において、私は自己対他者という幻想についてみなさんに説明しました。他者の犠牲の上に得られる真の至福体験などありえません。この真実の認識は、みなさんが私の導くすべてのステップを通り抜け、この道を辿り続けることによってのみもたらされることでしょう。

 このより広いビジョンは、時という要素を反映することによっても成し遂げられるでしょう。即座に満足を得ること -- これは子どものやり方です -- は、たいてい他者の喜びに対抗して自分の喜びを置きます。しかし、拡張したビジョンから見ると、これは次第に真実ではなくなります。人は成熟すればするほど、原因と結果がたとえ密接な関係になかったとしても、それらをよりよく結びつけることができるようになります。時間とは、みなさんの幻想の世界の産物であり、それゆえに原因と結果との間にある時間の長さは、みなさんの物事に対する理解と評価によって大きな違いがあるのです。人が感情的に、また霊的に成熟すればするほど、幻想という側面をしっかりと脱ぎ捨てることができるようになります。時間の中にいながらも、そのような人は、時間の持つ架空の特性を知覚するようになります。事実上、たとえ原因と結果が直接的に連鎖していなくても、それを見るという能力の中で、それが実現します。原因と結果が密接に連鎖しているとき、小さな子どもですらもそれらを関係づけ、そこから何かを学びます。ゆえに成長のプロセスは、たとえ原因と結果が時間の中で分離しているとしても、それらを結びつける能力によっても決定づけられるのです。

 これを学ぶために、みなさんは過去と現在の原因と結果を結びつけなければなりません。この道のワークにおいて、みなさんはこれを学びます。しかし、今できることという意味では、忍耐力も養わなければなりません。望みの成就に対するみなさんの本能的衝動が他者の幸福を邪魔するならば、もしくは自分が切望してきた満足をすぐに手にすることのできない他の理由があるならば、みなさんはこのより広い見方を養うことができます。望みと言うのは本来それ自体健全なものです。その望みから即時的な側面を取り除いてみてください。そうすれば、あなたは法則を見始めます。その法則は自然な道筋をたどっていることがわかるでしょう。そしてあなたは、少なくともある程度まで時間から自分を放つことができるのを知るでしょう。幸福と利他的主義との間の難しい選択は、相対的な時間という要素の中だけに存在します。

 幸福へのロンギングが即座に満たされないとき、これもまた、一種の死として現れます。たいていの場合、それは惨めな苦痛として感じられ、その感覚はみなさんにとっては死のように思えるでしょう。即座の満足を手放して生きていく姿勢を保ち続けるとき、捜し求めているものを手に入れたいという望みを保ち続けるとき、みなさんは死に対処する健全な方法を使っています。望みをあきらめることそれ自体が、実際に死の不健全な受容なのです。健全なやり方の中で強くなるにつれて、最終的には求めるものを手に入れるという経験が、必ずみなさんにもたらされます。みなさんは、肉体の死が幻想だということに気づかざるを得なくなります。それは、知的に上塗りされたことによってではなく、毎日少しずつ死ぬことに対処することや健全な方法で死に向き合うことからくる強さによって必然的に気づくようになるのです。一度この葛藤を克服すると、死んでいくことの強さの中に存在する、生きることの真の強さへと向かう道が平坦で滑らかなものになるのです。

 このテーマについて、何か質問はありますか?

 質問:毎日の生活やワークの中でこのテーマにアプローチするには、どのようにすればよいのか教えていただけますか?どのようにして時間を排除できるようになりますか?

 答え:これは誤解です。地球上に生きているかぎり、時間を消し去ることはできません。みなさんができるのは、今までとは違った理解、つまりより広いビジョンを発達させることだけです。原因と結果がより密接につながることで、みなさんの知覚の中で時間には実体がないという特性が減少します。そして、時間の背後にある何かを感知するようになります。
最初に行うのにベストな実践的アプローチは、このワークの中でみなさんが用いているプロセスです。この道でのワークにおいて、全ての人が、自分の人生において起こってきた膨大な回数の不幸な出来事は、他者のせいで、もしくは無慈悲な運命によって引き起こされてきたという確信に取り組むことから始めました。ワークを続けるにつれ、みなさんは、自分自身の反応や態度こそがこのような出来事を引き起こす原因だということを、理論ではなく実際に発見しました。このことは、みなさんにとって素晴らしい気づきとなりました。みなさんはまだ、人生のほかの分野においてはそれほど成功していないのかもしれませんが、みなさんはこの道を歩き始めることを選択し、今、原因と結果を結びつけることができるのです。以前は原因と結果が密接につながっていなかったため、これができませんでした。しかし、注意深い探求が、その関係性を明らかにしました。問題を見つけ出し、それを解決すればするほど、時間の持つ架空の特性(幻想)をよりはっきりと感知することができるようになります。

 よって、この点で、みなさんは新たな宿題を手にしたのです。これを深くワークすればするほど、自動的にみなさんは時間の背後にある別の次元を知覚できるようになります。私は、永遠という言葉を使いたくありません。時間の背後にあるこの別の次元は究極的な最終段階ではありません。その背後にもまた、何かがあり、そしてそれを超えるとまた何か別のものがあるといった具合です。ですので、私が勝手に言葉を選ぶことはできません。

 毎日の生活の中で死と向き合うことを学ぶという実践的アプローチについては、説明するまでもないことなので、私が話す必要はほとんどありません。至高の歓びへのロンギングの基本的な流れ(エネルギー)を認識し、気づくためのワークをしてください。そして同じように、死の全ての側面を認識し、気づくためのワークをしてください。これは、それほど難しくありません。みなさんの意識の焦点をどこに向けるかの問題です。さまざまな自分の機嫌や感情、恐れ、心配や不安、それらすべてが死の個人的な形を象徴しているのですが、それらを見つめることによって、本当は死に対してどのように反応しているのかを知ることができるでしょう。感情的な反応での中で、自分が死に対処する間違った二つのやり方の内どちらの方法を使っているのかを見つけ出してください。みなさんを震え上がらせるすべてのものに気づくことを学んでください。この恐れを抑圧してはなりません。

 そうすることで、みなさんはネガティブなものだけでなく、変化をも恐れているということがわかり始めるでしょう。なぜならそれは、みなさんにとって未知なるものだからです。これは、また別の両極が繰り広げる戦いです。一つは前へ進み出ようとする精神、もう一つは変化を求めないことが安心だとみなしている精神です。停滞というのは、永遠というあり方の歪みです。

 自分はネガティブなものへの恐れと同じように、幸福へのロンギングにも気づいているとみなさんは言うかもしれません。いいえ、違うのです、友人のみなさん。これら二つの流れが自らの内側に存在していることを、ほんのわずかな程度であっても、誰一人として気づいていません。この表現を使ってもよいのならば、「意識がそれている」という状態なのです。このワークによって、自分が基本的に切望しているもの、そして恐れているものへの気づきに対してより明確に焦点を当てることが可能となります。この気づきが進むにつれて、私が今お話してきたことの意味を理解していくでしょう。

 質問:私たちの現実はネガティブなものであり、私たちはそれに脅かされているとあなたはおっしゃいましたが、その意味がわかりません。

 答え:肉体の死や病というものがあり、物質世界は、必ず腐敗し崩壊していく運命にあります。そこには苦しみが存在し、みなさんは毎日の生活のためには働かなければならず、好むかどうかにかかわらず義務を負わなければなりません。人生は常に変化し、喪失と、みなさんの中に不安を創り出す未知なるものをもたらします。これらすべては、至高の喜びへの望みを満足させることを妨げるようにみえます。それはみなさんの望むところではないでしょうが、これが今の進化の段階におけるみなさんの現実です。

 質問:健全な受容と不健全な受容との違いを、もう少し明確に説明していただけますか?例えば殉教者において。

 答え:不健全な受容は、敗北主義的精神を含んでいます。前に示したように、何かへの恐れは、まさにその中にみなさんを突進させます。それが回避することのできるものであってもなくても、恐れるものの正反対にあるものへのみなさんの抑圧された願望が、みなさんに、まさにその願望を放棄させるのです。健全なやり方とは、「もちろん、死とはありがたくないものだ。何が起こるのかは本当にわからないし、だから私はそれを好まない。しかし、死とは生の一部であり、私のもとにそれが訪れるとき、それを受け入れるのに十分なくらい、私は強くあることだろう。皆それを通り抜けてきたのだから、私もそうするつもりだ。すべての不確かさに十分に気づくことで、私は死と出会うだろう。今、自分がまだ死を恐れていることに私は気づいている。しかし、避けることのできないものを受け入れることを私は学び、そのことで、最終的には、この恐れを手放すことができるだろう」という言葉で表すことができます。このことは、死だけではなく、人生の他のすべてのネガティブな側面にも当てはめることができ、そして、毎日の生活の中で訓練していくことができます。

 言葉にするのがとても難しいのですが、おそらく、張りつめた魂の動きを視覚化し、手放すことによって、みなさんの理解が深まるでしょう。何か恐ろしいものから逃れようともがいているとき、みなさんは張りつめ、その恐れから自分を引き離そうとします。まさにこの行為こそが、みなさんをその恐怖の中に突き落としているのです。勇気、自己と正直に向き合うこと、そしてリラックスした態度こそが、必要とされる強さを生み出します。この特質の欠如が、みなさんを自分の恐れるものの中に突き落とし、もしくはそこから逃げ出させるのです。どちらも同じ結果しか生み出しません。すなわち、否定です。

 質問:禁欲主義者に対してはどう思われますか? 禁欲主義者とは、そこから逃げ出しているのでしょうか? その人は現実を直視しているのですか? それとも回避しているのですか?

 答え:概して、禁欲主義者は、自分の恐れるものから逃げ出すことで、自分を手に入れようとしています。自己に課した苦行によって、その人はすべての喜びや幸福を失います。言い換えれば、不必要な苦行を選択しているのです。なぜなら、それ以外の困難を、その人はとても恐れているからです。

 質問:スピリチュアルな禁欲主義者についてはどうですか?

答え:まったく同じです。禁欲主義とは、多くの場合、酷い自己欺瞞であり、生命力の完全な否定です。死の原理を恐れるあまり、生命力を完全に否定しているのです。それは非常に自己破壊的で有害な死の扱い方です。

 質問:一般的に不快だと言われるような問題を達成し、やり遂げることによりもたらされる至高の喜びについては、どのように説明されますか?

 答え:ここでも、それは、動機とそれが成し遂げられた過程によります。もしそれが純粋で健全なものであれば、私がお話したプロセスがそこに生かされています。二元性とは否定の結果であるために、これ以上否定せず、それと正面から向き合うことによってのみ、人は二元性から抜け出す出口を見つけ出すことができるのです。これによって、二元性の背後にある統合が姿を現わします。そうすることで、喜びと痛みは一つになるのです。しかしそこには、想像上の上塗りにすぎない不健全なやり方があり、それらは幻想なのです。

 質問:健全な状態は、不快さに重点を置くことを否定するのではないですか?

 答え:いいえ、その正反対です。死とは「在る」ことを終わりにしますが、しかし、これが真の意味において起こるのは、死というものがあなたのために存在しているのだという事実に向き合うことにより死をワークしてきたときだけです。それを否定すると、あなたは否定と回避という危険に見舞われることとなります。もし最終的な結果に対する思い込みに故意にしがみついているならば、まさに正反対の影響が現われます。自分のためにまだ存在しているものを否定することはできません。

 質問:生と死、ですか? それとも生もしくは死、ですか?

 答え:生と死、です。

 質問:ということは、それは不快ではあり得ません。さもなければ、生もしくは死になります。したがって、健全な態度は不快さに重点を置くことを否定しないのではないですか?

 答え:そこに辿り着くまでのプロセスと最終的な結果を、混同させないでください。多くの宗教的な哲学がこの真実を教えてきました。しかし、最終的な結果は、それが未知なるものであるというだけの理由で、未だ不快に見えるものに直面するのを避けるために使われてきました。健全な方法において死は喜びであることを真に経験することができるようになる前に、死とは虚しく、恐ろしいものであるという自分自身の持つ歪みを経験しなければなりません。それを通り抜けた後にのみ、生と死は一つであり、喜びと痛みもまた一つであるという認識に到達することができるのです。

 質問:毎日の生活の問題や自分が見舞われる酷いことが不快なものであると考えることは、同じように非現実的なことではないのですか?これらを十分に会得した人にとって喜びではないのですか?不健全な態度という観点を除くと、このことは不快の原理を否定しています。

 答え:一度その状態に到達すれば、みなさんはそうであることを知るでしょう。しかし、そこに到達するまでは、それを言葉で話すのは危険なことになり得るのです。すでに、これは何度も行われてきました。回避と自己欺瞞は常にすぐ手に届くところにあるため、注意深くいなければなりません。人類は真実と向き合うことを恐れているために、その誘惑は絶大です。真実が不快であることなどあり得ませんが、みなさんの一時的な現実の状態や歪んだビジョンの中では、不快なものに思えます。人々は、まだ自分たちが見つけていない真実を手放さなければならず、同時に、まだ自己の内にある不真実の部分に直面しなければなりません。どんなにそれが困難を極めようと、それがみなさんのものであるかぎり、みなさんは幻想という地獄の底を覗き込まなくてはならないのです。

 コメント:私は、「否定する」という言葉の解釈に関係があると思います。もしそれが、何か存在しないものを意味しているならば、それは間違っています。しかし、それが何かが現実でないことを意味しているならば、それは幻想です。それはまた別です。

 答え:はい。それは真実です。しかし、死に対する否定を教えたとき、この真実を元来備えていた教えはたくさんあります。しかし、幻想の地獄と直面するという不快な出来事を避けるために、近道をして結果に辿りつくという傾向の結果として、人類は「死は存在しない」というような言葉にしがみつき、それを誤用しています。その結果が、恐怖と弱さから生まれる単に上から被せられた信仰です。したがって、最も恐ろしく見えるもの、つまりそのすべての側面における死は、それ自体を否定する前に直面されなければならないものであると、注意深く常に心に留めておいてください。

 友人のみなさん、今日の講義は簡単ではありませんでした。それでも、この講義は進歩のための考えや素材を十分に与えてくれることでしょう。

 みなさん一人ひとりの上に祝福があらんことを。神聖なる強さと愛が、みなさんを包みます。この愛は現実です。この愛を感じ、みなさんの毎日の生活に溶け込ませてください。祝福あれ。平和のうちに、神の内にいてください!


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