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Pathwork Guide Lecture No. 95 自己疎外と真の自己へと戻る方法
SELF-ALIENATION AND THE WAY BACK TO THE REAL SELF 1996年版 1962年1月5日

 親愛なる友人である大事な皆さん、こんにちは。皆さんひとりひとりに神の祝福を。自らを見出すための勇気ある葛藤は祝福されています。

 この時期は、皆さんにとって新しい年の始まりです。勿論、私達には皆さんが時間と呼ぶ存在の分断はありませんが、この時期に、皆さんの今現在のワークについての全体的な理解を助けたいと思います。皆さんの新たな洞察に相応しいアプローチを使いましょう。

 まず、人間の葛藤そのものを理解しましょう。人間は自らが中間の存在だと気づくからこそ、人間であるという状態そのものが問題なのです。皆さんは、植物や動物といった低次の状態から目覚めました。そこでは、調和的な存在状態にはありましたが、その気づきはありませんでした。皆さんはまだ、気づきある調和的な存在状態には達していません。この中間状態が人間の葛藤です。それは、自らを見出そうとあらゆる道を進む者だけではなく、成長段階、人格、努力に関わらず、全ての人間が直面する葛藤です。自らを見つける為の積極的な努力をする人としない人の唯一の違いは、前者がこの葛藤に気づきがあるのに対し、後者はそれに気づいていないことです。皆さんの戦いは、気づきある中での存在の状態を見つける事です。気づきがあれば、能動性と受動性、行動と不動を適切に組み合わせることができます。多くの場合、そのことで混乱していますね。

 人間の葛藤は、気づきがないことから生じる障害を乗り越えようとします。気づきがないとは、非現実、非真実を意味します。非真実は苦しみを生み出します。これは、スピリットと物質との間の葛藤と表現されるかもしれません。物質は、無自覚、非現実、非真実の結果です。人類は様々な方法で、物質のコントロールを試みてきました。しかし結局は、それは常に非真実の支配、個人としては皆さんの内にある非真実のコントロールに他なりません。一般的な非真実ではなく、自らの非真実に気づいて初めて、最終的にそれを乗り越えることができるのです。

 自らの非現実性、つまりは誤った結論、偽薬的な代替策、回避といったものを見出さない限り、あなたは自己存在の核心に達することはありません。ゆっくりと、しかし確実に、誤って歪んだ外的に重ね合わせたものからではなく、自らの核心から行動し反応し始めるでしょう。自らの個性の核心から行動し反応した時にのみ、他者の核心に影響が届きます。これは、他者がこのような道に取り組んでいるか否かに関わりません。これは、似たものを引き寄せて異なるものを退ける、類似性の法則によるものです。

 あなたは、真の自己、自己存在の核心を幾度も無駄に探します。あなたが混乱しているのは、単に、それに慣れているというだけで、外的な重ね合わせを真の自己と取り違えるからです。その破壊性、人為性に気づいていても、まだそれを捨て去ることはできません。真の自己の感覚、意識、経験を未だ得ていないのです。「私は誰?私の真の自己はどこにいるのだろう?」と自問します。

 私は様々な角度から、様々なアプローチを通して、あなたを自らの本質の核心へと導こうと試みています。助けることはできますが、あなた自身が認識し、向き合い、変化するワークをしなくてはなりません。要するに、これはあなたの葛藤です。幸せになり、実りある豊かな人生を送りたいのであれば、分裂のない全体になる必要があります。これは、あなたが真の自己である場合にのみ可能です。自己実現を望むのであれば、自ら闘って努力すべきというのは、論理的かつ合理的なことです。

 真の自己ではない状態、つまり自己疎外の状態はあまりにも優勢なので、目立つ症状はありません。あまりにも一般的なので、それが「普通」だと思い込んで気づかないのです。

 自己疎外について、それが何を意味し、どのように現れ、どのように認識できるのかを再度見てみましょう。自己疎外を発見するひとつの方法は、あなたのコントロールを超える状況に囚われ、無力感を感じている人生の領域を特定することです。そのような無力感がある所には必ず、根本的な問題、未解決の葛藤があるに違いありません。これを更に進めると、そのような未解決の葛藤が自己疎外の結果だと見なすこともできるし、逆に自己疎外が未解決な葛藤の結果だと見なすこともできます。どのように定式化しようと、無力感、無気力、あなたの能力の麻痺は、自己疎外の結果です。これは、誤りに基づく未解決の問題と密接に結びついています。

 特に力という偽薬的な解決策を選んだ人にとって、この言葉を誤解するのはとても簡単です。無力でないということは、常に勝利することでも、挫折や不満に決して悩まされないことでも、物事が常に理想的な計画通りに進むということでもありません。逆に、力という偽薬的な解決策を採用すれば、他者や人生により一層依存することになります。勝たねばならない! 目先の目標を達成せねばなりません。そうでなければ、あなたは弱くなり、屈辱を感じます。そのような全ての願い、そのような恒常的な勝利の達成があなたひとりに依存することはあり得ないので、あなたの方が勝利の達成に依存します。

 あなたは意識的に、又は無意識的に言いなりにさせようと圧力をかける他者に、自らに備わった力を注ぎ込みます。力、機知、理性を自分の外側に出し、自らの為に使わず他者に向けます。これが自己疎外です。それは、明らかに服従的で言いなりで弱い人と同じように、あなたを無力な人間へと導きます。

 真の自己であることは、あなた自身の人生に熟達することだと私が言うのは、常に勝たねばならない、望んだことを何でも手に入れるというような力任せの強迫観念のことではありません。真の自己が人生を支配するようになると、内的的な問題は最小限に抑えられるので、あなたの力は建設的かつ生産的に働きます。内面的な誤りによって、力が麻痺することはありません。あなたのスピリット、そして人間としての個性の豊かさが、その力の限り展開します。困難な状態に陥っても、自らの力で内的かつ外的な解決策を見つけ出します。何故なら、常に適切な解決策があるからです。必要なのは、それを見ることだけなのです。

 自己、他者、人生の経験が歪曲されたものではなく現実と一致したものである時、あなたは、理性、愛、理解、洞察、強さ、機知、回復力、柔軟性、適応力、自己主張、創造性といった、真の自己に備わるあらゆる良質な力を表現することができます。あなたの真の自己は自由なので、あなたは自らを十分に表現し理解されるでしょう。恐れや不安が無くなるので、あなたは識別、つまり選択や決断ができるようになります。適切で成熟した選択をすることで、現実的で有効で建設的なものと、そうでないものを区別できます。そのような明晰さがあれば、いかなる困難からも抜け出す方法が見つかり、困難そのものは足掛かりとなります。

 この段階に達することができるのは、未成就があなたを壊滅させない時だけです。何故このような影響があるのでしょう?それは、自らと他者に対するあなたの経験があまりにも歪んでいる為、どんな欲求不満も個人的な拒絶と自らの不十分さの証明として感じてしまうからです。自らの価値、評価、愛すべき存在であることは、何かが成就されているか、されていないかに左右されるものではないと十分に理解することによってのみ、このような態度を取り除くことができます。未成就は、あなたの力が阻害された結果かもしれません。その強さこそ真の自己ですが、その阻害は真の自己とは何の関わりもありません。現実や人生における特定の因子に対するあなたの歪んだ認識によって、あなたの真の自己が不活性化されているだけなのです。

 自己疎外する人は、願いや目標の未成就そのものよりも、欲求不満を遙かに痛みあるものとして体験します。言い換えれば、欲しいものが手に入らないことの痛みは、未成就によって自らの無価値さ、不十分さ、愛されない存在だと証明されたかのように感じ、自らが無であるかのように感じる付加的要因よりも遥かに小さいものです。勿論、これは無意識でのことです。実際、あなたはこの結論に気づかないよう大変な痛みに向かいます。正反対の傾向、思考、感情、態度で、これを覆い隠します。あなたの中には、このような痛みを伴う形で物事を捉えている部分があります。これが、特定の分野での失敗、拒絶、成功の欠如にまつわる、大抵は釣り合わない程の強い痛みの原因です。あなたは実際の厳しい現状のせいにして、それに理屈づけるかもしれません。それでもなお、その裏では自らの価値を外的状況と結びつけています。このプロセスと自らの誤った根拠に気づいて初めて、あなたはまずは現実を認識し、その点において真の自己を見つけることができます。その次に、もう真の自己から疎外されることがなくなります。そうしてのみ、外的状況も変わるのです。

 このプロセスを経て、自らの歪んだ現実感を洞察するようになると、現実感自体が自動的に向上します。その結果、必然的に、以前よりも力の少なさを外的状況のせいにしなくなります。豊かな人生をもたらすあなたの本来の強さや他の能力が発揮されるにつれて、無力感を感じることも少なくなります。これらの能力の硬直化は、自己疎外から生じました。それが、人生と自らに対するあなたの歪んだ経験や、手放せないこと、そして、特定の願いが筋書き通りに叶わなければ、自らは押しつぶされ、壊滅し、自分には何の価値もないと思い込む幻想に繫がります。

 あなたが失敗を恐れるのは、失敗そのものが原因ではなく、自らが劣っているから失敗したと暗示されるからです。責任に対する恐れがそれ程に大きいのは、怠惰であるが為ではなく、成就することへの失敗があなたの劣等性を暗示するからです。喜びの欲求不満を恐れるのは、喜びなしでは生きていけないからではなく、劣等感を暗示するからなのです。これが歪みであることを理解し体験すれば、最終的にはそこを抜け出すでしょう。そうすれば、成功、責任、喜びといった要素を現実で感じ体験する能力が高まり、真の自己にアクセスできるようになります。最早、自らの個性の核心から遠ざかるような見せかけの覆いの下で生きる必要はありません。これまでは可能性に過ぎなかったものを自分自身の内に気づくようになるでしょう。このことは、あなたが周縁で生きることを止め、自らの存在の中心に戻った時にのみ起こります。

 周縁にいる限り、自らの外側に力を注ぐことになります。個人であれ、団体であれ、何らかの権威にそのような力を委ねるかもしれません。自らに内在する力を人生、運命、「変えようのない状況」に投影するだけかもしれません。 そして、運命の好意をなす術もなく待ち望み、それが訪れなければ、自らの誤りではなく世界の不正や恣意のせいにします。あなたは誤った方向を見ています。多くの解決策が見つかるかもしれない場所に目を向けることは思いつきもしません。自らの力、強さ、能力を周縁に押し付けて、無力なままでいることを好みます。その結果、何も解決できないのです。

 自己疎外は、自らの能力や力を自己の側面に投影するという形でも存在します。しかし自己の側面に投影するのであれば自己からの阻害ではないので、それはあり得ないだろうと考えるかもしれません。しかし、自らの能力、権威、力を人格全体ではなく、人格の孤立した断片に投影することは自己疎外です。もし豊かで良い人生を期待しながら、全体の調和が取れた状態からではなく、自らの資源のひとつ、あるいは数少ない資源からのみ問題や困難の解決策を期待している場合、その過度な強調によってあなたは硬直してしまいます。その結果、他の能力を蔑ろにすることになり、自己全体の不可欠な部分が機能しないままになる為、自己疎外に陥ります。

 このことは、様々な偽薬的な解決策を使う場合にもより一層当てはまります。このテーマを扱うレクチャーと理想化された自己像に関するレクチャーを読み返せば、自己疎外の観点から、それが何を意味するのか理解できるでしょう。現実と理性を本質とする真の自己とは異質な、非現実的で不合理なものにあなたは集中します。更に、偽薬的な解決策や理想化された自己は、その本質において利己的で愛のないものであり、本質的な性質が愛である真の自己とは異質なものです。偽薬的な解決策と理想化された自己像は見せかけです。真の自己は、本質的に本物です。

 このワークをする内に、殆どの皆さんは一定の状況下だと、問題から解放されている他の領域と同じように自分が機能しないと気づくようになりました。抑制されているのです。自分自身を表現できません。自分自身とも他者ともコミュニケーションを取れず、関係を持つことができません。混乱し、不安なのです。能力も麻痺します。あなたが実際に麻痺している訳でも、どうしようもない訳でもありません。真の自己は、そのような状況下では機能しないのです。非現実性、見せかけ、周縁に留まってそこで「解決策」を見出すことに固執して、真の自己と疎遠になっているのです。

 自分自身と疎遠でない人は、自らの個性の豊かさを体験します。自らの力を体験します。手放すことができるので強制や不安から自由になり、自らを信じます。自分自身と繋がり、自らの存在の核心に触れ、その結果、他者と関係を築くこともできます。これら全ては、自分自身を過大評価することなく起こります。栄光の中で完璧である必要がない為、存在の無限な豊かさを活用します。このような言葉で表現できるでしょう。「私は強い。あらゆる可能性を持っている。外的な困難と巡り会っても、まずは、その問題と十分に向き合い、次に、表面的でも体面上でもなく、真実をもって対処しようという私の意欲によって乗り越えられる。偉大である必要はない。輝かしくある必要も、特別である必要もない。私は他の多くの人々のように素朴な人間だが、それ故に、私にはまだ実現していない偉大な力が備わっている。私の非現実性や歪んだ視点の為に、この力は表現することも展開することもできない。この力は私の中にあるが、私の現実認識がより真実に近づいた時に初めて顕現する。」これが、自己疎外のない人が、自らを経験する方法です。その人には、人生がもたらす状況の全てに対処する準備が整っています。世界全体や他者との現実的な関係においても自らを体験するでしょう。

 自己疎外的な人はこのふたつの歪曲の間を行き来して、自らを非常に小さく感じるか、非常に大きく感じるかのどちらかを経験します。他者は、その人を無価値で依存的に感じさせたり、彼らのエゴを増長させたりします。これは非常に捉えがたく、すぐには気づけません。あなたは知的にはもっと分かっており、感情的には、他者が自分に及ぼす影響をそのように経験していることに全く無意識なのです。この点で自らの内側で常に起こっていることに気づくには、ちょっとした自己観察と観察が必要です。

 一度、真の自己から機能するようになれば、自分を他者より足りない、あるいは優れていると感じることはなくなります。 他者の短所を見つけたとしても、それに優越感を感じることはなくなります。自らに欠けている資質を他者の中に見つけたとしても、それに劣等感を感じることもなくなります。人格の隠れた裂け目で、自分には価値がなく無であるかのように感じれば感じる程、あなたはエゴを過剰に膨らませる傾向が強くなります。真のエゴが損なわれていなければ、エゴを膨ませる必要もなくなります。他者との関係は、相手をどのように捉え、相手との関係性で自分自身をどのように見るのかに左右されます。

 本来の自分自身以上、又は以下になるという変動の中で、自己疎外が生じます。自らの現実の状況で、自分自身を経験しないのです。それならば、どうして他者をその人の現実の中で経験できるでしょう? あなたは他者の特定の側面を経験したとしても、その側面があなた自身の個性を強めたり弱めたりするように見える程度に応じて、それを過度に重視するかもしれません。言い換えれば、力があり、強く、傷つくことのないような、特にあなたが認めて欲しい相手は、あなたから見れば現実とはかけ離れた畏敬のオーラを帯びるのです。
そのような相手に対して、あなたは緊張し、不安になり、その人を非常に歪んだ形で捉えます。

 例え、飲み込まれている劣等感から抜け出す為に、相手を使って自分自身を持ち上げる以外の目的しかなかったとしても、あなたの知的評価はかなり正確かもしれませんが、感情的体験の方は、この人物に関連するあなたの恐れと欲望によって彩られています。要するに、自己を疎外していると、他者をその人の現実の中で体験できないのです。他者はあなた自身の問題に応じて、あなたに影響を与えることになります。このような条件では、コミュニケ―ションは取れないでしょう。しかし、外的問題を解消するには、コミュニ―ケーションは不可欠です。粗雑な言い方をするなら、あなたは自らをそう経験するように、他者を潜在的な敵あるいは奴隷として経験します。

 このように知覚が曇っているのに、どのように人生を楽しみ、その豊かさを享受できると言うのでしょう?自分自身であることによってのみ、幸せになることができるのです。これは今でも簡単に理解できるでしょう。現実の中で自分自身や他者を経験する能力の前提条件である、この制限された見方や経験の条件に気づくには、自らの側で感情の新たなレベルにおいての多くの自己観察が必要です。

 又この段階まで有機的に進むまでには、この道である程度の進歩が必要です。これまでの成長の結果として、徐々にこの領域に入って行きます。これは非常に微細に起こるので、初めは自分が実際にそのような段階に入ったことさえ気づかないかもしれません。

 しかし、断言しましょう。あなたが非現実を経験した瞬間、自分がいかに自分自身や他者と繋がらず、特定の関連においてどれだけ自分自身から疎外されているのか見ることができれば、あなたは現実に向かって大きな一歩を踏み出すことになります。それは、準備ができるより前に踏み出すことを自らに強いる一歩よりも大きいのです。ここでも又いつもと同じく、その状態から抜け出す前に、まずは十分に歪みを体験しなければなりません。自らの非現実性の認識そのものが重要な一歩なのです。現実に未だ触れていない自分はどのようなのかを完全に経験する前に、真の自己と触れることはできません。

 お話しした自己疎外の様々な指標を用いて、それを体験してください。現在抱えている問題のどれかを取り上げて、どれだけ自分が犠牲者、状況の餌食になっていると感じているかという観点から見てください。それから、自らの欲求や考えを他者に表現する時、どのようにもどかしさを感じるのか観察してください。問題や本当に望んでいることが何なのかについて、自分がどんなに不確かで混乱しているか見てください。物事を変えられる所と、変えられない所について考えましょう。利用可能な全ての可能性を本当に探してみましたか?新しい考え、新しい解決策に向かって完全に開いていますか?あなたの内なる意志は機能していて、自らの行為がもたらした古い病を変える為の新たなインスピレーションを受け入れることができますか?それとも解決策を手渡されることにこだわっていますか?そのような依存は、自己疎外だけでなく、そのままでいるという意志をも示しています。更に、他者への感情的反応と、それが自分にどのような影響を与えるのかを観察してください。それは、皆さんを小さくしますか?それとも大きくしますか? あなたは他者を、それぞれの傷つきやすさや葛藤を持つ多面的で複雑な存在として経験していますか?それとも、あなたにとって感情的には、自分よりも優れているか劣っているか、強いか弱いかの相手でしょうか?

 人生に不満を抱く時、それは自分の可能性を全て実現できていないと感じているからではないかと自らに問いかけてください。もし答えがYESなら、あなたは自分自身と疎遠になっています。そうでなければ、一時的な嵐があったとしても、人生に不満を抱くことはない筈です。あなたには、パスワークのプロセスを通して一歩一歩これを変えていく力があるのです。

 私達が常に用いている「自分探し」という言葉は、あなたにとって新たな意味を持つようになるでしょう。本当の意味での「自分探し」とは、真の自己を見つけることです。あなたの内の何かを積極的に変えない限り、このような「自分探し」は起こりません。基本的に、この道はふたつの主要な段階に分けることができます。第一段階では、自らの問題、誤り、非現実性の根を認識し、それに気づくことです。その意義、原因、結果、相互関係、関連性を、その全容と深みから理解することです。第二段階は変化です。変化は様々な形で起こります。変化に気づかない程に、緩やかで自然に起こることもあります。変化は、自らの非現実性や歪みを洞察し、理解することで起きます。理解が深まれば深まる程、より自然に変化します。そのような変化は、進化の法則、有機的成長の法則に基づいています。

 しかし、人格的な問題の特定の側面に当てはまる別のタイプの変化もあります。このタイプは、十分な洞察と理解を得た後、新しい別の行動や反応を必要とします。このような変化は、それほど緩やかではありません。外面的であれ内面的であれ、新しい非常に断固とした行動からなります。もう古い行動パターンには従わないという決意が必要です。新しい行動パターンを確立する為には、あなたの意志が必要なのです。しかし、自分にとっても他者にとってもその価値があることを十分に確信していない限り、また、その決断が完全に自分のものではなく外部の権威に基づいたものであるならば、絶対にそれを行うべきではありません。しかし、一度この確信のポイントに達したならば、特定の自己規律を用いる必要があります。

 これも又、微妙で容易に誤解を招きかねます。自主的な決断や十分な確信なしに自律を強要すれば、その動機は不健全であり、建設的な結果はもたらしません。その動機は、他者に従いたかったり、他者をなだめすかしたいというものであったり、理想化された自己像から来るものかもしれません。その結果は、不安と新たな破壊的パターンになるでしょう。

 とはいえ、自律と決断の反復が必要となる時は来ます。そうでなければ、自らの自由意志と理解があったとしても、古くから染みついた習慣を根絶することはできないからです。この抜本的な変化への準備ができているか否かは、あなた自身にしか分かりません。感情が未だ、新しい方法の有効性と利点を疑っているならば、準備はできていないということです。古い方法をやめる時に大きな不安がある限り、力強い手放しや抜本的な変化の準備は整っていません。この場合、隠れた誤りを更に明るみに出し続けなければなりません。答えを見つけたいのであれば、「何故そのように感じるのか?」と自らに問うことで常に成果が得られるでしょう。正しい方向に進もうとする善意があなたを不安で満たすのであれば、少なくともこの点に関して、あなたは未だに善意は自らの不利になるという刻印の下にあるということです。勿論、現実はそうではありません。しかしまずは、善意が具体的な内的問題に対する生産的な生き方なのだという外的知識を生かす所に辿り着かなければならないのです。
人格の変化が起こらない限り、真の成長や幸福はあり得ません。皆さんの考えていることは分かります。変化は起らない等と言わないでください。それは大きな間違いです。宇宙と、その内に存在する全てのものは絶えず変化し、常に流動しています。あなたの体でさえ、数年前と同じではないのです。気づいていないとしても、物理的な物質でも全ては変化しています。生きていて成長している存在といつも一緒にいると、成長が起こっていることに気づきません。振り返って初めて気づくのです。しかし、生命の本質は変化です。変化がなければ、生命はありません。停滞していれば、あなたは苦境に立たされます。あなたは不幸です。生きていません。人間の葛藤の多くは、自然の法則に従って有機的かつ健全に成長する部分がありながら、停滞したままの部分があるからこそ存在します。

 明らかに未だ発展途上である人々が一定の調和の中で生きている一方で、遥かに高度に成長した人々が、苦しみ、不調和で、不幸せなのは何故かとよく質問されます。友人達よ、それは、前者の人々がその潜在能力に応じて着実に成長しているからです。彼らの人生は、平坦で矛盾がありません。より高度に成長した人々は、自らの潜在力に気づいていないことが多く、内在する可能性を実現していません。彼らはより高次の段階にいるので、より多くのことができる筈です。ところが、彼らは既に発達し、現時点では成長させる必要のない部分を過度に強調する一方で、軽視された部分は停滞したままになります。変化がないのは、彼らが変化を望んでいないからです。既に自由だからこそ楽しめることに集中しながら、ワークを必要とするものは実を結ばないままになります。不調和を引き起こすのは、そのような食い違いだけではなく、彼らには更に多くのことを成し遂げる能力があるという事実です。彼らは死んで停滞しているものに命を吹き込むことができるのです。


 この要因は、人間の葛藤の本質的な部分です。過去の成長で、ある領域の足枷から既に自由になった為に成長や変化を喜ばしく感じるならば、あなたは常に流動的です。同時に、変化に直面し、変化を起こす為のワークが未だに必要とされている所では、変化や成長に対する抵抗が、人格の別な部分であなたを凍らせ硬直させています。この不均衡は、いわば人格全体が眠ったままでいる場合よりも耐えるのに痛みを伴います。一度、特定の段階に達すると、後戻りして人為的に「眠る」ことはできません。自然と宇宙のリズムに従わねばなりません。再び調和を取り戻すための唯一の解決策は、あなたの存在の全てのレベルにおいて、現実、成長、変化をより完全に、それよりまた完全に気づいていくことです。

 従って、変化は不可能だとは言わないでください。むしろ、可能なのは変化だけだと言えるでしょう。変化は、創造における唯一有機的で自然なプロセスであり、それは皆さんの内にあります。この道で適切にワークすれば、これまで凍りついていた魂の物質をいつでも溶かすことができます。この魂の物質を始動させ、成長させ、やがて実際に目に見える変化が起こるようにするのです。

 真の自己をどのように見つけるのか、更なるヒントをもうひとつお話ししましょう。皆さんの多くは、既にこの段階にいるか、この段階に近づこうとしているので、現時点で適切な、特定の段階での成長のリズムについて説明したいと思います。

 少し前に、ニーズについてお話ししました。そもそも、あなたは具体的なニーズに気づいてさえいません。勿論、理屈の上では、物理的なニーズであろうとなかろうと、誰もが何らかのニーズを持っていることはお分かりでしょう。しかし、いかなる感情的ニーズも具体的には感じていません。この無自覚さは、この道を歩み始めたばかりの人だけに当てはまるものではありません。既に別の部分でかなり進歩した後でも、依然として自分が何を必要としているのかに気づかないこともあるかもしれません。表面的にでも自らのニーズに気づくようになるには、注意力を集中させ、自らへの相当な正直さで自分自身を掘り下げる必要があります。友人達よ、真のニーズを見出す前に、偽りのニーズを見つける為に意識の外側の層を取り除かなければならないとしたら、これは自己疎外のもうひとつの実質的な証拠ではありませんか? 真の自己と結びつき、その現実と繋がっているなら、真のニーズが満たされているか否かに関わらず、あなたは自らの真のニーズに対して絶対的な気づきがある筈です。

 このように進むにつれ、真のニーズに気づくようになります。真のニーズも細分化されます。最初に、愛、理解、他者との親密性、創造的な充足、これらを受け取る必要性に気づきます。受け取るという行為を通して、これら全てを求めて努力します。あなたの感情的な気づきの中では、どんなに微かなものであっても与えられるもので、このニーズを満たしてくれる誰かあるいは何かが必要であるかのように感じます。今挙げたニーズは全て、真のニーズにも偽りのニーズにもなり得ます。そのことはご存知ですね。

 こうして、与えることの必要性に気づくでしょう。受け取る必要のあるものを与える必要があるかもしれませんが、感情においての重点が変わります。愛を受け取るよりも与えることのニーズが、より意識の中へ入ってきます。他者と関わり、他者を理解するというニーズの方が、他者に理解されるニーズよりも明確になります。この点でも、出口が見つからないかもしれません。皆さんは対象を見つけることに依存しており、そうしない限り、ニーズは満たされないままになります。現在と以前との唯一の違いは、以前は満たされていないことを間接的に経験し、曖昧でおぼろげだったのに対して、今は自らのニーズと満たされていないことをはっきりと自覚しているということです。満たされないことへの切迫した認識は、実際のところ、真のニーズが満たされていないこととは全く異なる原因があるかもしれません。何故なら、真のニーズは、決して不安や切迫感を生み出さないからです。偽りのニーズに変えられた真のニーズだけが、そのような力を持ちます。従って、真のニーズを満たせるようになるずっと前に、その満たされなさを意識的に経験しながら自らの真のニーズに気づいていることは、安心、調和、平和がもたらします。それは、あなたが現実と真実の更なる段階に入っているからなのです。
真のニーズを自覚することから逃げるのは、満たされないことに直面するのが苦痛だからというだけではなく、満たされないことが自らの劣等の証明になるからです。強さ、勇気、謙虚さ、決断、現実に一度到達して、与えて受け取るという真のニーズと向き合い、一時的な欲求不満に耐えられるようになれば、あなたが考えるよりも遥かに大きな真の自己の領域に達しているのです。それがあなたの真の自己だからです。自らの故郷を見つけることで得られる強さに比べれば、満たされないという問題そのものは背景に退きます。疎外された自己である異邦人は、あなたの存在の核心という現実の中に故郷を見つけます。

 この地点に到達するには、数多くの脇道や回り道を通らなければなりません。そこに一度辿り着いたなら、空虚な期間、満たされないニーズとロンギングを自覚する期間を過ごさねばなりません。偽りの謙虚さや弱さではなく、まだ効果の残っている動きに合わせたパターンがもたらす可能な限り我慢できる強さで、満たされないことを見て、それに耐えると、そのような認識をする以前に悩んでいた苦しみに悩むことはなくなります。

 しかし、偽りの謙虚さや弱さからではなく 、自らが始動したパターンの未だ消えない結果を必要な期間耐えられる強さから、自分自身の満たされなさを見てそれに耐えられるようになれば、 その気づきを得る前に苦しんでいた程の苦しみを味わうことはありません。満たされなさが、あなたを弱めることはありません。それどころか、より深く、より完全な洞察を得て現実に近づき、あなたは徐々に、異なる結果をもたらし始めるでしょう。古い否定的な結果は、それをもたらした原因を見つけてもすぐには解消されません。新しい建設的で肯定的な原因が力を発揮し、それ相当の結果を生み出すまでには、ある程度の時間がかかります。これは一夜にして起こることではありません。

 それ以前の無意識の真のニーズの不満と、意識的な偽りのニーズの不満とは対照的な、意識的な真のニーズの不満が一定期間続いた後、自らの現実を更に探究し、学び、手に入れている間に、部分的に満たされる期間がやってきます。気づかない内に起こる古いパターンへの逆戻りを観察して、時には挫折や絶望を感じるでしょう。こうした外的な逆戻りや失望は、いわば、新しい生き方を強める為に必要です。それは統合され、あなたの一部とされ、エッセンスにおいてそうあるように、あなたの「第一の天性」となります。

 この時点で、あなたは故郷への道を見つけています。それに向かって暫定的な一歩を踏み出しています。時折、その成果も得ています。しかし、あなたは未だこの新たな地にしっかりと根を下ろしてはいません。依然として、古い習慣に惑わされ、揺れ動き、そこから遠ざかります。この満足と不満が交互に起こる中で、このような形でこの期間を使いたいと願うなら、あなたは自らのホームグラウンドをしっかりと掴むチャンスがあります。こうしてあなたは、健康、現実、生産性において、全く新しいパターン、新しい原因を打ち立てる道を開くのです。ただし結果は、言ってみれば機(原因)が熟すまでは現れないでしょう。

 質問:自らを律する内に、ある特定の認識をした為にパターンを変えたくなる地点に到達した時、戦いが始まります。新しいやり方をしたとしても、良い気分はしません。古いやり方では不幸せだと分かって、変えたいと思っているのに、正しい行動をしてもどのみち良い気分はしません。あなたは先程、その段階では準備が整っていないと仰いましたが、いつになったら自らを律するのでしょう?

 回答:その段階での自己規律の形とは、何故それを正しく感じないのか見つけることです。理解の妨げになっているのは何ですか? まだ納得しておらず、それが良くて、役に立って、安全なことを疑う何かがあなたの中にあるに違いありません。破壊的だと分かっていても、その古い破壊的な形に未だにしがみついている部分がある筈です。それを明らかにしてください。そうすれば、この店での誤りを無くすことができます。従って、自らに無理強いしたり、他者に対する行為を自制したりするのではなく、自らを理解することに自律してください。
質問:悲しみに暮れている時、誰かと別れ、そうせざるを得なかったと知り受入れていても、なお深い痛みに苦しみます。自らの感情に気づき、自らの愛の深さに気づいていれば、なおさらです。これは健全だと言えますね? 癒しには時間がかかりませんか?

 回答:健全か不健全かということでは質問に答えられません。どのように感じるかということに依ります。全く健全な場合もあるし、なんらかの不健全な性質が含まれている場合もあります。一般的な答えで判断するのは非常に困難です。完全に個人差の問題です。私のアドバイスとしては、健全であるか否かを判断する為に、無力感、弱さ、自己憐憫、人生の悲惨さに晒されているという感情が何処にあるのか自問することです。人格が、その別れによって自らが貧しくなったと感じるなら、おそらく健全な悲しみに加えて、不健全な悲しみがある筈です。しかし、自らの困窮を感じることなく喪失が感じられるのであれば、それは純粋に健全なものです。
質問:もし人間が内面に相反するふたつの流れを見つけて、片方の偽りを認識してからもう一方が始まるなら、自己規律はどこで生じるのですか?

 回答:以前にも言ったように「規律」という言葉を用いると誤解を招くかもしれません。抑圧、抑制、真の成長には役立たない、強引で表面的な行動に繋がるかもしれません。むしろこの流れが何故存在するのか、更に理解する方向に集中力と判断力を向けるべきです。外側の答えは一目瞭然かもしれませんが、それとは殆ど関係のない内側の答えもある筈です。この流れはある種の偽薬的な防御かもしれません。ある種の偽りのニーズを満たすのかもしれません。その意味を理解すれば、そこから進む方法が分かるでしょう。自らの奥底で最初に見つける答えは、まだ最終的な答えではないかもしれません。その答えにはより深い「何故」が含まれるかもしれません。あなたが述べた段階は、この領域での探究が終了していないことを示しており、その為、必要な規律を伴う変化は時期尚早です。ここでは、更なる気づきを得ることだけ考えましょう。他の領域では、既に変化は起きているかもしれませんが、この点では未だ起きていません。繰り返します。このような探求は、感情的、精神的、霊的、そして肉体的存在にさえも絶えず変化を生み出します。何故なら、ひたすら率直に自らと向き合っているからです。しかし、これは私が説明した第一タイプの変化であり、より直接的な規律を必要とする第二タイプの変化ではありません。最初の段階でも規律は存在しなければなりませんが、それは更に自らに向き合うこと、本当に感じている事とその理由を説明することに重点が置かれます。

 質問:分かりました。相反するふたつの流れが存在する限り、まだまだ深く調べる必要があるということですか?

 回答:勿論そうです。[ありがとうございます]

 質問:最近、私の質問が波紋を呼んだので、質問するのに躊躇があります。どうやら、私の質問は知的ではないと思われているようです。質問の前に、率直に伺いたいのです。高次に発達し魂達は、私には不可能な理性を使っていませんか?何故なら、お互い共通の土台の上で話をしない限り、コミュニケーションの手段はないのではないかと思うからです。

 回答:親愛なる友よ、まず第一に、誰かが何かを理解できないのは、知性の欠如の証しとは誰も言えないと思います。非常に知的な人であっても、問題がある場所ではブロックされます。他では存在する知性が、ここでは機能しないのです。他の人々よりもそれが一目瞭然に見える人々もいますが、そのようなブロックは全ての人に起こることです。それから完全に自由な人間はいません。私はこれまで、緊張、偏見、息苦しさ、先入観を手放すことへの恐れが何処にもない人間は見たことがありません。これは勿論、特定の視点を必要で安全だと選ぶディフェンス機能によるものですが、それは単なる説明に過ぎません。この事実を無くす訳ではありません。ブロックされている人は、問題を誤解したり、誤って解釈したり、不安や葛藤を抱いたり、言われたことを正反対に受け取ったりします。その度合いが違うだけで、ジャッジする人は誰でも、異なるテーマで、多少の差はあったにせよ、同じ様な状態なのかもしれません。ですから、皆さんはとても良い仲間なのです。もしかしたら、あなたはより好戦的な様子で質問するかもしれませんが、私は気にしません。人間の友人達が何と言おうと、あなたが誠実で誠意がある限り、このような質問をすることをお勧めします。それは必要であり、あなたの為に良いことです。そして、皆の為に良いことです。

 理性の種類については、理性はひとつしかありません。種類がある訳ではありません。これも又、程度の問題に過ぎません。その違いは、未だ人間的な葛藤の中にいる人間は、その理性が損なわれるということです。知性は損なわれていないかもしれませんが、理性は損なわれます。理性は真の自己から来ます。ですから、自己疎外の程度に応じて理性は機能しなくなります。真の自己は、純粋な理性であり、純粋な愛です。叡智と呼ぶこともあるでしょう。片方だけでは考えられません。愛のない理性や叡智はあり得ず、逆もまた然りです。
つまり、私達は皆、コミュニケーションをする同じ器官を持っているのです。ある存在が、既に葛藤を克服して他の存在よりも発達していたとしても、コミュニケーションが不可能だということではありません。コミュニケ―ションは、それに関わる人々の意欲で大きく左右されます。理解しよう、理解させようという意欲があれば、問題の半分は解消されます。皆さんの中で、私とコミュニケーションを取るのが難しいと感じた人はいないと思います。

 それでは、あなたの質問は次回にするよう提案します。数多くの質問がある場合には、再び質疑応答の時間を設けるかもしれません。

 親愛なる友人の皆さん、皆さんは全員、スピリット、魂、肉体において祝福されています。これらの言葉が、皆さんが自己実現を積極的に続けることを助け、あらゆる素晴らしい力、理性、愛、創造力、機知、喜び、既に内在する幸福の為の能力を引き出す助けとなりますように。これらを外側に求める必要はありません。これらは、皆さんの中に宝物として存在します。誤り、逃避、自らの真実と向き合うことへの恐れから解放しなさい。自らの基準よりも世間を満足させるという意味で、表面的に生きることをやめなさい。人生のどの領域でも、見た目の為に生きないように。真実と現実の中で生きてください。あらゆる問題に全面的に向き合いなさい。客観的な目で見てください。急がないように。そうすれば、真の自己の元へ帰る道が見つかります。
祝福されていなさい。皆さんの中で、解放を待っている全てのものを喜んでください。来たるのは喜びのみです。まもなく、人間の葛藤が喜びの源となり、前進するそれぞれの歩みが成長と幸福の実現を意味する地点に達するでしょう。平和と共に、神と共に!



【訳註】原文中のDisciplineという言葉は、文脈によって、規律、自律、鍛錬などの言葉で翻訳しています。


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