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Pathwork Guide Lecture No.16 霊的滋養 SPIRITUAL NOURISHMENT
UNEDITED版 1957年11月8日

 神の名においてご挨拶申し上げます。皆さんはおひとりおひとりが祝福された存在であり、共に過ごすこの時間も祝福されています。今夜もまた新しい方々をお迎えすることができ嬉しく思います。ここで皆さんにお伝えしたいのは「ただ手放しなさい」ということです。この時間においては、何の疑いも持たないでください。魂が皆さんに語りかけ、答えを与えてくれるにただ任せてください。あなたがオープンであれば可能です。霊が人を通して話すことが可能なのだという、その現象に初めて直面した人がこのことを容易に受け入れられなくとも不思議はありませんが、皆さんがまだ何も知らない多くのことが可能なのです。ですから、ただ心を開いて待っていてください。そうすればやがて今お話ししていることだけでなく、今はまだ思いもよらないようなたくさんのことが存在するのだと分かるようになるでしょう。こうしたすべてのことを知的に受け入れることができるようになるだけでなく、実際に経験するようになります。そしてある真実を知れば、皆さん個人とは無関係な事柄だけではなく、皆さん自身の人生が変わるのです。今はまだ人生とは一体何なのか、なぜこんなにも苦労し試練を受けなければならないのか分からないことが多いとは思いますが、この真実が、人生の方向性や目的を与えてくれるでしょう。こうした苦労や試練のすべてには意味があります。そしてもうひとつお伝えしておきたいことがあります。リラックスし、結び目をほどき、オープンになりなさい。これはあなた方おひとりおひとりにお伝えしたいことです。過去に何度も皆さんがそうしてきたように、こうしてまた皆さんは答えを受け取ることになるでしょう。

 皆さんの問題は大抵日々の糧、つまり物質的なことです。日々の糧はたしかに重要かもしれませんが、人々が必要とする精神的な日々の糧に比べれば補助的なものにすぎません。正しい食事、ビタミン、ミネラル、タンパク質、食事方法の重要性について多くの話題が飛び交っています。人類がこうした事柄を理解し始めたのは実に良いことですが、我々霊は、物質的な滋養と霊的な滋養の欠如との間にあまりにも大きな不一致があるのを目の当たりにしています。後者は前者に劣らず重要です。我々は霊的なビタミン不足に悩む人々を多く目にします。魂や霊は霊的な滋養をとても必要としているのですが、本人は大抵このことに気づいていません。この滋養が供給され、摂取され、消化される場合にのみ、物質的な日々の糧を含む他のすべてのニーズが自動的にケアされることになります。霊的に飢えているときにもやはり、それは結果として現れるに違いありません。

 同じことが衛生面にも言えます。人類は物理的な衛生に関しては大きな進歩を遂げました。今日人々は毎日入浴し、シャワーを浴び、身体を清潔に保っています。一方で非常に多くの不衛生な魂が見受けられるのです。お話ししている魂の浄化や精神の滋養はどのようにして成されるのだろうかと疑問に思うかもしれません。具体的にはどうすればよいのでしょうか。霊的な滋養とは、霊的な真理を定期的に摂取することなのです。繰り返すことが重要なこともあるのですよ、皆さん!物質的な視点とはしばしば対照的な霊的な視点から人生を見ることで、いつの日かそれに応じて皆さんが抱く展望も変わることでしょう。精神的な滋養を定期的に摂取することを習慣にしなければなりません。長いことこの滋養を受け取っていなかった可能性があるのですから。これはちょうど、体が強く元気であるために必要な栄養の供給がない、間違った食事に慣れてしまった人のようなものです。因果関係が結びつかないまま人はこうして長い時間を過ごしてしまいます。疲れやすいこと、体が弱いことなど、栄養不足の人々は体の不調を訴えはしますがその本当の理由については考えません。同じことが霊的な滋養が不足している人々にも言えます。感情的な問題や内なる平和の欠如など、霊的な滋養の欠乏から生じるあらゆる症状とその原因を、人が意識的に結びつけることはめったにないのです。

 霊的な食物は勝手にやってくるわけではありません。物理的な滋養を得るときと同じように外に出て行き手に入れなければならないのです。自分の分のパンを獲得しなければなりません。パンを買いに外へ赴き、調理し、食べる必要がありますよね。霊的なパンも物理的なパンと同じです。受け取りたいと心から願うことで自分にとっての霊的なパンを得ることができます。自分に適切な供給源を探し、ある程度の苦労をして獲得するのです。読み聞きしたことを自分自身で考え、瞑想し、自分の中で何かがより良く変わるようにと何らかの形で自分に適用しようと試み、消化します。つまり霊的な滋養とはひとつには、レクチャーを聞き、適切な文献を読み、また自分よりも詳しい人とそのテーマについて話をすることも含まれます。また、正しい方法で祈り、瞑想をすることも霊的な糧となります。ここでもまた抵抗に打ち勝つために自分の内での戦いが必要です。皆さんの内で次のような声が聞こえてくることでしょう「今日、自分は疲れすぎている。こんなことをする気分にはなれないし、別に今日やらなくても問題はないではないか。それにこんなことをして一体何になるのだろう。今日私が神に祈るかどうかなど、はたして神は気になさるのだろうか」と。いいえ、皆さん。神は気になさらないのですよ。しかし皆さんの魂と霊が飢えてしまうのです。毎日、自分を開くことによって、皆さんは自分を維持し、正しい方向へと導いてくれる力と光を受け取ることができるからです。

 魂の浄化は、霊的な滋養と比べてそれ以上ではないにせよ、ある意味では同様に重要であり、今からお伝えするような方法で行われるべきです。多くの場合人々は自分にある種の欠点、態度、意見、感情的な反応があることに気づきません。人々は周囲から受ける何らかの影響や、人生で起こる出来事によって幼い頃からこうした傾向を多く持っています。こうした在り方は過去には正当化された可能性もありますし、そもそもそうではなかったかもしれませんが、いずれにせよ今では完全に廃れたものであり、とても有害です。それでも人はこうした古い反応の存在やその有害性に気づかないまま、無意識のうちにこうしたものを持ち続け、それが故にいまだにある種の反応を起こしているのです。ですから皆さん、自分自身をよく見なければなりません。自分が本当は何を考え、何を感じ、何を望んでいるのかを。こうして自分の感情の傾向や流れを棚卸しするのです。再検討をすることによって、もう置き場のないものを追い出し、これにより流れを変えることができます。自分の魂に秩序を与えることができます。必要に応じて意志の方向を変えることができるようになります。そしてその後には、欲望を変えることもできるようになるのです。意識的にこの作業を行ってはじめて、こうしたさまざまな感情、欲望、態度などを主張することができるようになります。自分の中の感情、欲望、態度などが霊的な法則に則っているかどうかは、外から取り入れることとなる霊的な滋養の力と共に検証するのであれば、見極めることができるようになります。過去に、自分の間違った内的な方向性によって、まったく無意識に何らかの霊的法則を破っていなかったかどうかが分かるようになることでしょう。こうした無意識の傾向が皆さんの中にあるとき、これらは大きな害を生み、対立を生み、皆さんの内に無秩序を生み出します。これが汚れた魂、あるいは「不衛生な」魂が表すものです。少なくとも我々はこのように見ています。居場所のないもの、洗い流されるべきもの、あるいは追い出されるべきものがたくさんあるのです。

 ですから皆さん、体を清めるように魂も清めなさい。毎日これを行いなさい。自分の一日を日々振り返り、その日に起こったさまざまな出来事に対する自分の反応を顧みるべきです。これがあなたの霊や魂を清めることができる唯一の方法です。これによってのみ、皆さんは日々霊的に成長ができ、適切な滋養を受け取ることができるようになるのです。このような態度でもってすれば、どのような出来事もあなたを落ち込ませることはありません。皆さん、これが真実なのです。人生の不快な出来事でさえ、あなたを打ちのめす力を持ちません。なぜなら皆さん、こうした不快な出来事によって自分自身について学び、また霊的な法則について、神の真理について、まだ達成しなければならないことやすでに達成したことについてさらに学ぶことができるからです。避けることのできない失敗は、日々このように自分を捉え「そこから何を学ぶことができるか」という態度でもって顧みるならば、この失敗は弱さではなく強さを皆さんに与えてくれることでしょう。そして、自己浄化において努力の余地があるところはどこなのかを示してくれることでしょう。人生に起こることは、それ自体は良いことでも悪いことでもありません。この誤った認識を信じてはいけません。あなたに起こりうる最高のことが、今のあなたには災難のように映るかもしれません。間違った姿勢で向かえば、それは災難となりえます。そして同時に、非常に幸運に思える出来事も、皆さんがそこから霊的な教訓を学び取らないのであれば、それは非常に不利なものになりかねないのです。ですからあなたに起こるすべてのことは、もしあなたがそれを霊的な観点において利用することができるのであれば、もしあなたがそれから学び、霊的に成長し続けられるのであれば、それによって幸福に成長することができるのなら、良いことになり得るのです。

 奴隷となって人生に方向を強いられるのではなく、自分自身の人生を方向付けることができる唯一の方法がこれです。皆さんの力の内に宿っているのです。使おうと思えば、自分の人生を方向付けるこの力は、皆さんの手の中にあるのです。しかし多くの場合、皆さんはこれを使いたいとは思わないのでしょう。憂鬱や絶望の気分に身を任せる方がずっと楽に思えるからです。受け身になって、意識的にせよ無意識的にせよ、自分に起きたことを運命や状況、他者のせいにすることができるからです。友人たちよ、このやり方では、皆さんは本当に自分を人生の奴隷にしてしまいます。これでは自分を、コントロールなど完全に不可能である外的な出来事に自分を依存させることになってしまいます。そうではなく、自分自身に次のように伝えるようにしてください「何か不愉快なことが起こるとき、答えは自分の中にあるはずだ。解決策と同様に、その根源や原因も自分の中にあるはずだ」と。答えを見つけるのを助けてくれるよう神にこの瞬間に祈り、自分自身に真正面から向かい合う絶対的な意志が持てるように祈りなさい。もし皆さんがこの祈りを行えたのならば、もしあなたが祈るための最初の抵抗を克服できたのならば(難しいのは最初だけなのです)あなたは太陽が雨に続くように、生命が死に従わなければならないように、必然的に答えを得ることでしょう。そしてこれはあなたの魂に大きな幸福をもたらします。自分自身を征服し「私はもう奴隷ではない。これからは私が自分の人生を決めるのだ。そのためにはまず自分の中にある嫌なこと、不快なことに向き合わなければならない」と決意する瞬間に匹敵する幸福はありません。簡単なことなのです。実行に移すまでの最初の決断の瞬間だけが難しいだけです。

 人は自分が思っているよりずっとたくさんの力を持っています。自分の内にある意志の力を皆さんは自覚していません。ここにいらっしゃる皆さんの中でこのことを自覚されている方は誰ひとりとしていません。意志の力は人の人生において非常に重要なものですので、今このテーマについてお話ししたいと思います。第一に意志の力を持たない人間はこの世に存在しないということを申し上げたいと思います。存在しないのです。「私は弱く、意志の力がない」と言っている人は自分で自分を騙しているのです。なぜならこの人にとって、人生の監督者となる代わりに、自らの肩に人生のすべての責任を負う代わりに、他から監督される方がずっと楽な道であるかのように映るからです。問題は意志の力を発揮できるかどうかなのです。そして次にくる課題は、この意志の力をどの方向に発展させるかということです。自分には意志の力がないと思っていらっしゃる皆さんも、気づかないうちに常にこの力を使っています。皆さんは無意識に意志の力を使っており、そしてこれが意識的ではなく無意識なため、間違った方向に使っていることが多いのです。本当に望むことであれば何でも達成できる、と正論を言う人が多くいます。多かれ少なかれ事実でしょう。しかし自分が望むことが本当に自分にとって最良かどうかはまた別問題です。ですから意志を制御する力というものは何よりも霊的に成長し、神に近づきたいと願う人格によって吟味されなければなりません。

 自分を顧みるというこうした作業は、霊的法則と真理に従う形で行わなければなりません。高次の自己から来る流れがある一方で、しばしばこの流れは低次の自己によって歪められていることを少し前にお話ししましたね。その際、この内容についてより明確にお話しするとお約束しました。意志の力はこのいい例です。意志の力はそれ自体が最も価値のある財産だからです。意志の力なくして霊的な進歩はあり得ません。意志の力は高次の自己から生じます。意志が霊的な目的のため、霊的な成長のため、神のために、神と共に、そして神の内で使われるかぎり、それは純粋な光の流れや清らかな強さを保ち続けます。しかし意識的な意志が間違った方向にこの高次からの意志を使った瞬間、それは低次の自己によって歪められ不純な力になってしまいます。ある犯罪者の例に挙げて考えてみましょう。犯罪者は自分の意志の力を非常に顕著に間違った方向に使っています。何としてでも自分の意志を貫きたいのです。個人的な欲望を満たすことがあまりにも前面に押し出されているので、自分の目標、つまりエゴを達成するために他人を傷つけることさえ厭いません。より高度に発達した人々は犯罪が罪であることが分かっていますので、このような行動をとることはありません。しかし、他者を明らかに傷つけるような行為ではありませんが、エゴの充足を前面に押し出す形の感情や内面的な反応において、無意識のうちにですが、意志の力を間違った方向に使ってしまうことがあります。これは法則を破っていることであり、内なる不調和や外的な葛藤という結果を招きます。この一連の流れが潜在意識の中に残っているのは、この人が自分の望みが間違っていることを薄々分かっているにも関わらず、それを諦める準備ができていないからです。間違っていると分かっているにも関わらず欲しているのです。そのため意志の力は気づかれることなく間違った方向に流れ続けます。情緒的に不安定な人においてこれはしばしばとても重大な原因です。

 今お話ししていることはすべて、一般的な意味での犯罪や罪とは無関係です。罪とは程度の問題に過ぎません。霊的な法則から逸脱するものはすべて罪です。あるいは無知と呼んでもかまいません。どちらも同じことです。人々はよく、一般的な罪には決して触れることはなくとも同時に非常に悪い何かを求めます。人々が求めるこうした事柄は社会の倫理の基準にさえ反さないかもしれません。それでも当人が望むものは、その人にとって、あるいはその人の人生にとって間違っている可能性もあるのです。罪や霊的な掟は皆に同じように設定されているものであると同時に、とても個人的でもあるからです。罪や霊的な掟の逸脱もまた同じです。ある人にとって作家になることは運命であり、そうなることによって自分がこの世で果たすべき仕事を最もよく果たすことができるかもしれません。一方で別の人にとって作家になることは、転生の目的である課題を無視することに繋がる可能性もあるのです。作家になることが罪だとは言えないわけですが、人によっては間違ったことかもしれということです。なぜならこの転生で引き受けた仕事を全うするときのみ、人は幸せになれるからです。そして誰しもが課題を持っているのですよ、皆さん!どのような立ち位置にあろうと、家族がいようと、一人で暮らしていようと、あなたには課題があります。とはいえ課題を見つけようと遠くを探そうとしないでください。あなたが助けたいと思うかもしれない他者のことを、先に考えてはいけません。確かにそれもできるようになるとは思いますが、まず自分自身を見出し、それから他者を助けるのでなければなりません。他者の課題を他者と共に果たす前に、まず自分の内にある課題を果たさなければなりません。自分の力と成長に応じてではありますが、可能なかぎり霊的な発達、浄化、完全なる自己認識を獲得しなければならないということです。そうすれば皆さんは正しい道を歩んでいることになり、残りが何であれ、すでに課題の一部を達成していることになります。自分から始めさえすれば、あとは指一本動かすことなくすべてが自然とやってきます。保証しましょう。まず自分自身から始めなさい。

 意志の力の話題に話を戻しましょう。意志の力を正しい方向に使うために最も重要なことは、第一に次のように自分自身に語りかけることです「私の中にあるどのような意志であれ、これからは神の意志に従い使っていきます」と。我が友人たちよ、皆さんの内ですでに活動している意志の力は、このように自分自信に語りかけることでしばしば方向を変えることでしょう。最初は嫌だと感じたとしても、あなたは幸せになるでしょう。なぜなら何があなたにとって最善なのか、何が一番の幸福をもたらすのかを、あなた以上に神はご存知だからです。抱えていた問題は突然消え去ることでしょう。約束します。意志の力の大部分がまだ眠っている人々にとっては、突然、自分の内にあるとは思ってもみなかったような清々しい強さでもって、意志の力が押し寄せてくることでしょう。もしも皆さんが何にも増して神の意志を優先すると本当に心からそう思うのであれば、もしも皆さんが神に約束をし、この約束を守るのであれば、言葉にし、その言葉を生きるのであれば、すべての疲れ、すべての弱さ、すべての消耗は、肉体的にも精神的にも、まるでそんなものは存在しなかったかのように消え去ることでしょう。「私の内にあるどのような意志の力も、御心のままに使わせていただきます」これが人生におけるより良い方向への変化の始まりです。ここに基盤があるのです。皆さんがこのことを心に留め、自分の意志がひどく魅力的に映るときでも何度でも、この言葉を実行するそのときが始まりなのです。きっとこう自分に言いたくなることもあるでしょう「なぜ神は私がすることなすことに反対をする必要があるのだろう。あまりにも小さなことで、何の害にもならないのであれば、それを行ったところでどうということはないではないか」と。そしてもちろん、こんなとき皆さんは答えを待とうとはしません。なぜなら自分が一番気に入った答えをすでに受け入れているからです。こうして皆さんは自分の意志を神の意志よりも優先させます。我が友人たちよ、小さいことや大きいことなど、そんなものはないのです。あなたにとって途方もなく大きく思えることが絶対的な真理においては非常に小さいかもしれませんし、その逆もまた然りです。最も小さなことは、最も大きく最も重要なことへの足がかりとなる可能性もあるのです。最も小さなことが非常に重要な表れであり、すべての問題の鍵であることもあるのです。見過ごしてはいけません。過小評価をしてはいけません。神があなたに望んでおられることは、たとえ最初は多少の犠牲を払うことになるとしても、あなたの近視眼的な考えよりも優れているに違いないという確信を持ってください。自分の人生を本当に心から神の手に委ねるとき、神に自分を委ねるのなら、あなたは幸せになるに違いありません。それ以外ないのです。それが唯一可能な結果なのです。しかし視野がまだ曇っている現時点では、一見犠牲のような扉を通るよう導かれていると感じることでしょう。しかし後になって振り返ると、今の自分を理解することが難しいと感じるようになるでしょう。過去にとても重要で魅力的に思えたこと、あるいは、諦めるのがあまりに困難に思えたことが後になって自分が運び続けた重荷に見えるようになるからです。実際に重荷だったのですよ!今お話ししているこれらすべては、あなたを神から引き離す重荷だからです。すべてですよ、皆さん。

 意志の力を動員し、まず神の意志に従ってそれを使うとき、皆さんは活動性と受動性、主導性と俯瞰が正しく混ざった状態を手に入れることになります。力を使うことが正しい場面であればどんな場面でも、戦うため、克服するため、活動するために、皆さんはそれを全うするのにじゅうぶんな強さを持つことになります。皆さんには神の持つ霊界のサポートがあるからです。流れに逆らわず、流れに身を任せることが皆さんにとって正しいことなのであれば、いつでもそこに平安を見出すことができることでしょう。その瞬間、その状況において受け身であることが正しいことなのですから。

 「神の望みはどのように知ることができるのですか。神の意志とは何でしょうか。どうすれば戦うときと積極的になるべきとき、そして受動的になるべきときを知ることができるでしょうか」と私に聞かないようにしてください。本当に知りたいと思うとき、皆さんはこの答えを手にすることができます。本当に知りたいと思うのならば、この具体的なテーマについて瞑想する時間をとり、神に尋ねるのではないでしょうか。神は答えを示してくださるでしょう。多くの、本当に様々な方法で答えてくださいます。このことについては何度もお話していますので繰り返す必要はありませんね。皆さんが神の意志を知らないということが問題なのではありません。問題は、皆さんが本当に神の意志を知りたいと願っているかどうかです。今この小さな瞬間に自分の関心に反してでも、神の意志を実現すると決意しているかどうかだけの問題なのです!もし皆さんがこうした条件を満たしているのなら、神の意志を実現することができるでしょう。こうした条件を満たしているのなら、答えを受け取らないわけがありません。祈りや、神の意志は何かという問いに対する答えを、本当にいつも、皆さんが受け取っているのを我々は目にするのですが、多くの場合皆さんは受け取ったものを見ようとしていません。意図的に目を閉ざしています。親愛なる友人たちよ、実行が難しいのは最初だけです。自分の人生を、そのすべてが意味するところを神に捧げることは、難しいのは最初だけなのです。一度それを行い、平和と喜びを経験すれば自信を獲得しますからその後は何ひとつ難しいことはないでしょう。なぜ最初は難しいのでしょうか。皆さんの中にまだ疑念が潜んでいるからです。「神の意志は私を不幸にするのかもしれない」という疑念がまだ皆さんの中に潜んでいるからです。自分自身に真摯に挑んでみると、とてもシンプルなこの作業に躊躇する理由にこの疑念が挙げられているのが本当であると分かると思います。ここにすべてへの鍵があるのです。さて親愛なる皆さん、質問をお受けすることにいたしましょう。

 質問:他の惑星に意識的な生命が存在するかどうか教えていただけないでしょうか。

 回答:そうですね。私たちがここで話している多くの領域がそうであるように、惑星や星などはそれぞれすべて、霊的生命が存在する領域です。

 質問者:有機的な意識的存在がいるという意味でしょうか。

 回答:霊的存在もまた有機的です。すべての器官は光を放つ物質の中に存在しているからです。そしてそこには確かに意識があります。とはいえ、皆さんのような物理的な生命と同じものは存在しません。物質が違うだけであり、密度が違うだけです。こうした霊はもちろん物質化することもできます。ある条件下では物質化ができますし、これまでもそうでした。このようなとき皆さんは物質化した霊を生身の人間だと思うことでしょう。しかし他の惑星の生命は、皆さんのような物質的な形とはまったく異なります。光を放つ物質は皆さんとは大きく違うものなのです。皆さんにとっては目で認識できない物質でも、振動も種類も皆さんとは異なるものの、我々にとっては濃密な物質であることには変わりありません。一方で闇の力や闇の力を成す物質は、皆さんのそれよりもはるかに粗いので、これもまた皆さんには見えません。輝いているのではなく、まったく反対で、粗すぎて知覚できないのです。皆さんは、皆さんの世界を超えた世界の生命はすべて微細な物質だと考えているようですが、そうではありません。よほど高度に発達して密度の違いに視覚の焦点を合わせる力を持つ霊でないかぎり、別の振動に慣れた目には、密度の違うものは自動的に見えなくなります。物質化がないかぎり、他の領域に存在する物質の質感を見ることはできません。

 質問:もし私たちが突然幸福を感じる、または心地よい香りを時折感じるとすればそれは、周りに調和した霊がいるということでしょうか。

 回答:そうですね。このように調和のとれた霊があなたに近づくことができるということはまた同時に、何か他の理由、たとえばあなたの中に内なる勝利のような理由があることを意味することでしょう。原因と結果なしには何事も起こりえないからです。そして香りを感じるというのはすでにそれ以上の話であり、霊的な体験であり、サインです。このサインは、今自分が向かっている方向に進むための励ましとして与えられるものである、あるいは、その方向へ進むべきだということを思い出させてくれているかもしれません。いずれにせよ、それは恵みのサインです。次の勝利を容易にするための助けと強さを意味します。

 質問:自分が霊的に進歩しているのかなと、ちょっと思ったのですが。

 回答:どうでしょうか、少しお時間をくださいね。そうですね、その通りです。あなたは確かに進歩しています。あなたの中にはでもまだ気づいていないいくつかの要素があり、ご自身で再度しっかりと見てみる必要があります。そうすれば自分の霊的成長の度合いがはっきりとわかり、こうした疑念はすべて解決されますから、自問する必要はなくなるでしょう。それでもまだこうした疑念が解決しない場合は、今お伝えしたように、あなたがまだ認識していない、適切な光の下で検証していないいくつかの要素があることを意味します。それでも、霊的に成長しようとする意志や、霊的な成長を求めていることはすばらしいことで、それ故にあなたはここまで歩み、私の話を聞くことができる立場にまでなっているのです。お分かりになりますか。

 質問:神の意志についてなのですが、人間がその気はなく、しかし心から間違ってしまうことはありえませんか。

 回答:そうですね、一時的にはあり得ますが今日私がお伝えしたような状態に人があれば間違うことはないでしょう。たしかに適切な霊的滋養を受け取っていない人であっても、神の意志に従おうとする善意をまだ持ち続けることは可能かもしれません。しかしこのような場合人はどのように神の意志を探ればいいのか分からない、あるいは神の答えを待つ忍耐力がありません。もしくは答えが用意されていることに気づきません。そうなると人々は間違いを犯す可能性があるわけです。しかしこのレクチャーを聞く、もしくは読んでいる皆さんのように正しい方法で神の意志を見出すのに必要な条件を備えている場合には、皆さんにはそれだけの責任があるということであり、失敗することはないでしょう。真にオープンであるということは、自分が一番嫌なことを聞く準備があらかじめできているということです。こうして心を開き、自分の運命と人生を神の手に委ねるとき、答えを得ることができるのです。ここには疑問の余地はありません。あなたは決して間違いを犯すことはありません。なぜなら最初の答えが偶然ではなく本当だったかどうか確信が持てない場合は、2回、3回そして4回と尋ねることができるからです。答えは幾度も幾度も、おそらくさまざまな方法でやってくるでしょう。他の人を通して、サインを通して、何かが起こることによって、自分の中の声を通して、夢を通して、もしかしたら悟りの感覚、この何ものも揺るがすことのできない深い知という悟りの感覚を通してやってくることでしょう。さまざまな方法で答えを受け取ることができます。もちろん、あなたが表面的にこの探求を行い非常に浅くそれについて考え、答えを待ちさえしない場合には間違いを犯すことになります。しかしもしあなたが誠実にこの探求を行い、自分自身を開き、何度も何度も尋ね答えを待つならば間違うことはありません。

 質問:私たちは未来の人生で現在の自分を思い出すことができるのでしょうか。そして過去の人生における古い問題に取り組むことができますか。

 回答:来世で現世の自分を思い出せるかどうかは、それぞれの個人に大きく依存します。たしかにこれからの時代、人々の霊性がより発達すればこれまで前世を思い出せなかった多くの人がそれをできるようになることも事実です。しかし全員がそうなるわけではありません。ほら、今日の人々の中にも個人の発達によっては前世の何かを思い出せるようになった人々がいるでしょう。このような記憶はこうした人々のところへやってくるのです。発達が進めば進むほど、より多くの覆いが剥がれるからです。ですから今日でも可能ですし、将来にはもっとそうなることでしょう。当人の発達の度合いによって決まることです。高度に発達した人ほど完璧を目指し、霊的に取り組めば取り組むほど過去の転生について知ることができるようになります。そうであれば、こうした過去の転生についての知識は良い目的のために使われるでしょう。古い問題に関してお答えすると、まったくおっしゃるとおりです。何度も何度も繰り返し別の人生で同じ問題に、解決するまで対処することになります。今世で解決していない問題は、環境が違っても来世でもやってきます。国や生活パターンが違っても、問題は解決されないかぎりまたやってくるのです。問題とは何だと思いますか。それはあなたの欠点が具現化したものにほかなりません。あなたが自分の欠点を浄化すれば問題は消滅します。そうしない場合には問題は別の形でふたたび現れ、次の人生でもまた現れるのです。

 質問: ヨハネス・グレバーが著作の中で、旧約聖書でモーゼのような偉人が霊に会いに行き、決断について尋ねたときのことを書いています。戦争を始めるべきか、その戦争が勝利をもたらすかどうかなどについてです。私たちは自分で決断するべきと教えられています。しかもこのような偉人達は霊的に私たちよりもずっと進んでいたわけです。

 回答:こうした人々は神の御心を実現することを強く望んでいました。それは決断であると同時に時に最も困難なことでもあるのです。民全体の福祉に関わるこのような場合に自分たちの個人的なチャンネルを通してではなく、霊に尋ねることにはそれなりの理由があったのです。指導者が答えを個人的に受け取ったと伝えても、人々は彼を信じなかったかもしれません。こうした人々は神の霊を強く信じており、霊の証言を受け入れていました。個人的に答えを聞くことができれば本人は満足したかもしれませんが、誰も答えを信じなかったかもしれません。そのため福祉全体に関する質問では霊に尋ねたのです。

 質問:人間に一人以上の霊的な守護者がいることはありますか。また高い位の霊が低い位の霊を手助けすることはありますか。

 回答:低い位の霊にもたしかに守護者がいます。しかし人間と同様に、低い位の霊にはその姿が見えません。時には守護者が守護されるものから離れており、近づけないこともあります。これは守護されるもの自身の態度によるものです。それでもそれぞれの霊には、どこかに、何らかの形で守護者がいます。人間に関して言えば誰もがたしかに守護者を携えています。複数いる人もあれば、一人のみの人もあります。場合によりけりですが、決して不公平ということではありません。一人の守護霊が3人、4人の守護霊がいる場合より強いときもあります。何の進歩も望まずただ毎日を過ごしている人よりも、より多くを成し遂げている人の方がより強力な守護霊を携えています。すべて非常に公正に決定されているのです。とはいえ、それぞれに少なくとも一人は守護霊がいます。

 質問:最近よく言われている宇宙船や空飛ぶ円盤を霊界では見ることがありますか。これらを目にすることは価値あることとされているようなのですが。

 回答:このことについて情報を提供する資格が私にはありません。以前にもそうお伝えしましたし、これからもそうお伝えするつもりです。私がこうすることにはとてもしっかりとした理由があるのです。なぜ私がこうしたことについて話すことができないのか、数年後にはご理解いただけると思います。
質問者:前回のレクチャーに関して質問があります。あなたは人間の周りにいる多くの霊、闇の霊や高次の霊についてお話しされました。私たちがこうした霊を呼び出すとき、我々は主に意識的にそれらを呼び出しているのでしょうか。

 回答:いいえ、意識的ではありません。ほとんどが無意識のうちに行われています。少なくとも闇の霊に関しては意識的に呼び出されることは非常に稀です。もし誰かが本当に意識的にこうした霊を呼び出すのなら、その人自身が非常に邪悪な性分の持ち主であるに違いありません。真理と光の霊に関して言えば、人はこうした霊を意識的に呼び寄せるべきであり、また呼び寄せることができます。たとえ意識的に呼び出すことがなかったとしても、欠点を克服し、低次の自己と戦い、神の意志を満たすことを何よりも望み、神の法則に従って生きる瞬間、あなたはある種の物質を自分自身から発散し、光の霊をあなたの方に引き寄せることになります。同様に、もしもあなたが低次の自己に屈服し、神の法則に反するならあなたは闇の霊を磁石のように近くに引き寄せる質をご自身から発することになります。たとえばあなたが怒りを発すると、怒りの霊が引き寄せられます。あなたが利己主義を発すると、こうした性質を専門とする霊を引き寄せ、このようないわゆる専門家はあなたをさらに過ちの方向へと促します。こんな具合なのです。自分から出たものはまた、自分に引き寄せられます。類は友を呼ぶということです。

 質問:こうした引き寄せ合いに相互作用は起こるのでしょうか。

 回答:もちろんです。

 質問:双方から働きかけ合うのでしょうか。

 回答:そうです。そして働きかけをし合うだけでなく、お互いに学び合います。たとえば闇の霊の場合はこうです。彼らは特に神を愛する人々に勝利すると闇の世界での任務を果たすことになります。闇の霊たちは神を愛する人々を神から引き離すことに熱心なのです。闇の霊たちは無神論者、犯罪者は気にも留めません。このような人々はすでに闇の霊の手中にあるのですから。しかし神を愛する人々や神を求める人々は別で、闇の霊は特にこうした人々を征服することに熱心です。その結果、神を愛する人々や神を求める人々が自分の弱さに屈することになるのです。闇の霊はこのような仕事を成すことによって彼らの住む世界で特別な報酬を得ることができます。神を愛する人々を、彼らの本質とは完全に異なる邪悪なことをするように仕向けることでは何事も達せないことを闇の霊はよく知っています。一見無害に見える欠点を使ってこのような人々をゆっくりと、しかし確実に、暗闇や鬱、自己卑下の気持ちへと引き込み、ひいては神からの分離へと持ち込むことに成功するのです。欠点そのものによって負かされるというよりは、欠点があることで自分自身に嫌気がさし、その結果戦いを完全に放棄してしまうということなのです。よくお伝えしていることではありますが、同じ過ちで躓くこと自体は悪いことではありません。こうした躓きを認識し、そこから学び、正しく建設的な態度で受け止めさえすれば躓きは悪いことではないのです。実のところ、躓きなしに進歩はありえません。根深いものはこうした躓きなしには克服できないからです。しかしこの躓きが絶望と自己嫌悪の態度でもって起こると、暗雲はますます広がります。こうなると人はどんどんそれぞれの闇の霊、闇の世界と関係を持つようになるのです。闇の世界で生きるために罪を犯す必要はないのです。闇の世界で生きるための波動は罪を犯す以外にもあるからです。一方、もし人々が闇の力の道具とならず、闇と戦う場合(自分自身の欠点を極めてよく知ることによってのみこれが可能です。なぜなら欠点によってのみ闇の霊に誘惑されるのですから)このような場合に闇の霊がどうなるかお分かりになりますか。このような場合闇の霊はその発達の段階においてより高い場所へと行くことになるでしょう。闇の霊は学ぶことになります。直接ではありません。この霊はまだあまりに闇の中にいるので、まずは敗北を知るだけでしょう。この敗北はしかし、彼の住む世界での居場所を失うことに繋がります。もし彼が敗北に次ぐ敗北をすれば、この闇の霊の立場は苦しいものにさえなりえるのです。そしてこの苦しみが唯一、この霊を神に近づけます。なぜならこのときはじめてこの霊は完全な絶望の中で、ある種最後の手段として、神に立ち返ることになるからです。闇の世界で勝利を収め、強さと力があるかぎり、決して神に立ち返ることはないでしょう。人間ひとりひとりの小さな勝利が、あなたの気づいていない他の多くの存在と共に、宇宙において膨大な連鎖反応を起こしているのです。私の友人である皆さん、もし皆さんが自分の勝利によって、あなた自身やあなたの周囲だけでなく、他の多くの霊たちに対しても、どれだけのことを成し遂げてきたのかを知ることができたなら、皆さんは本当にこれまでよりもっと頑張るようになるのではないかと思います。あなたの勝利によって影響を受けるのはこれらの悪い霊だけではありません。どこにも属さない、道を踏み外した霊もそうなのです。どこにも属さないこうした霊はあなたの周りによくいて、闇の霊よりもはるかに直接的な形で皆さんの勝利から学びます。皆さんが自分に打ち勝つとき、皆さんは実際に偉大なる救済計画の重要な一部なのです。そのとき皆さんは戦いに積極的に参加する兵士となるのです。最前線の兵士なのです。そして最前線に立つ兵士は、反撃をしない人々や後背地にいる人々よりも、より良い武器や力、保護を必要とします。こうした武器と力は神の霊界からの導きや悟り、認識として皆さんにもたらされるのです。

 愛する者たちよ、私はこれにて自分の世界に戻ることといたします。皆さんおひとりおひとりを祝福いたします。親愛なる皆さん、皆さんは祝福されています。自分自身の問題を神と共に、神の内において解決できるよう、今、あなた方に流れている力を手にしなさい。
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日本語版の取り扱いについて
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