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Pathwork in Japan
No.32 決断をする
Pathwork Guide Lecture No.32
1996年版
1958年6月20日
決断をする
DECISION-MAKING
皆さん、主の御名によりご挨拶申し上げます。皆さん全員に祝福を。
「神を愛する者には、全てのことは良きこととなるように働く。」この聖書の一節を吟味して、より深い意味を見つけましょう。「神を愛する者」という言葉が意味するところは、単に神を信じているということだけに留まりません。神への愛を宣言し、祈りを唱えるだけでもありません。ご存知のように、神への真の愛とは、霊的にワークし、成長し、個人的に関係する心理的側面全てにおいて神の法則を知ることを意味します。自分の行い、言葉、考えが霊的法則に従うだけでなく、感情も従うように、自分自身を徹底的に知る必要があります。感情において神を愛するようにならねばなりません。もちろん、それを達成するには長いプロセスが必要です。
霊的成長の道を歩む者だけが、神を本当に愛することができます。では、「全てのことは良きこととなるように働く」の部分はどう説明できるでしょうか。友よ、これは確かに真実です!成長と浄化の道を歩む者にとっては何が起ころうとも、それは良きことの為でなければなりません!この言葉の意味するところは、ある一定の成長段階に達して初めて実感するに至ります。この道を歩み、神への愛を証明していく者には、明らかな悲劇、災難、不幸であっても、良い結果がもたらされないことはありません。しかし、皆さんの多くはこれを知りません。皆さんは依然として、この世界が偶然と運の世界、あるいは不公正でさえあるという幻想の下に生きています。もっとも、それが本当だとは「考えて」いないかもしれませんが、多くの人はそう「感じて」いるのです。そして、それがあなた方の大きな誤りであり、悲劇的な幻想です。一方、この道を歩んでいない者、言い換えると、何をおいても一番に神を愛していない者は、自らの身に起こる最善が良きことの為ではないことにやがて気づくことになります。最善であった筈のことが、後に困難や試練を創り出すかもしれません。それは、この道を歩み始めた瞬間、将来の転生において初めて良き方向に働き始めるのかもしれません。その人の成長において、その時点までは、究極的には良きことなど何もありません。しかし、魂の進化における決定的な時期であるその時点からは、起こること、起こったこと、起こるであろうこと全ては、良き方向に向かう筈なのです。そして、この自己浄化の道を私と共に学び、レクチャーを聞いている友人の皆さんにとって、これまでの人生、過去から現在までの全ての悲劇、困難、悩みについて考えることは、素晴らしい訓練と瞑想になるかもしれません。もし、そこに何らかの良きことを見出すことができたなら、更なる高みへと一歩前進したことになります。
これらが皆さんにとって単なる言葉に留まるならば、それは十分とは言えません。このことの真実を深く理解する所まで至らねばなりません。理解不足で、特定の状況や出来事の中に未だ良い点を見つけられないならば、それは自己認識の重要な部分が未だ欠けていることを示しているに違いありません。何故なら、自己認識があれば、それぞれの不運がどのようにして特定の欠点を引き起こすことを見つけ出し、神聖なる法に逆流する感情の流れの無知を直ちに明らかにすることができる筈なのです。内面の弱点全てを知ったならば、このような一見不利な出来事がなければこれらの弱点が意識に上がることはなかったと理解するでしょう。皆さんはそれを本当に理解することはできないでしょう。これは変容の基本的な要件です。関連付けることができない場合は私の所へ来て、より具体的に質問をしてもらっても構いません。あなた自身の魂の内に、繋がりが見出せるよう導きましょう。友人の皆さん、一旦この道を歩み出したら、例え間違った行動や誤った判断でさえ皆さんの為になることを覚えておいてください。それは、外部からもたらされる無意味な出来事以上のものになります。
同胞を愛することが宇宙の最も重要な法則のひとつだということは、皆さんご存知ですね。愛を得る方法、愛を阻むもの、愛したいように愛せないこととどう向き合うかなど、愛については長い時間をかけて話し合ってきました。しかし、ここでは、既にある程度愛することができている何人かの友人に向けてお話ししようと思います。それは程度の問題に過ぎません。完全に浄化されない限り、あなたの愛は神聖で完璧なものにはなり得ません。浄化がなされていない程度に、あなたの愛はぼやけたものになるでしょう。
神の愛からの逸脱は、個人の性格の複雑さに応じて様々な形で起こる可能性があります。ひとつの方法は、愛する人をあまりにも高く位置づけることです。言い換えると、愛する人が未だ持っていない完璧さを彼あるいは彼女に与えてしまうことです。それが本当にあなたの愛の証であると感じているかもしれませんが、それは大きな間違いです。それは真実ではありません。過大評価されることは、愛される側にとって負担に違いないのです。時に意識的に、しかし多くは無意識のうちに、愛する対象はそれを感知し、従って理想化された自己像に従って生きる衝動を感じます。人間は皆、愛に飢えています。そして殆どの人は、間違った方法で愛を求めています。つまり、まず愛を受け取り、その後、リスクがなければ愛を与えるのです。この愛への切望は、対象者に理想化された自己像を維持する苦闘を容赦なく課します。期待に添えないならば、愛が危険にさらされるかもしれないと恐れるのです。同時に、対象者は愛を与える者を恨みます。深い部分で、その種の愛は誤っていると感じるからです。浄化されていない魂には、偽りの前提で与えられた愛を失うリスクを冒す強さがありません。その為、自ら仮面をつくり上げざるを得ないと感じますが、勿論その奥では、真に心地良く、安らかに、自分自身や本物の人間として愛されていると感じることは決してありません。
友よ、自身の内側を探ってみてください。無言のうちに、あるいは考えなしに大切な人に過剰な完璧さを要求していませんか?それを確認できたなら、それは良い愛でも健全な愛でもなく、皆さんにとって、そして愛する相手にとっても益することのないことが分かるでしょう。他者の有害なマスクを壊すのを手伝うことは、ある程度あなたの力でできます。これは、自分自身の仮面を壊し、勇気を持って本当の自分に向き合うだけでなく、相手を単なる理想化された自己像ではなく、ありのままに見て愛そうとすることでもできるのです
また、現実よりも完璧な愛の対象をなぜ必要とするのか、深く隠されたその理由を認識してください。おそらく、自らの内にある程度のプライドがあり、それを与える愛の種類で隠しているのでしょう。更に、寛容と思いやりが欠落しているに違いなく、人をありのままに受け入れることができないのです。皆さんは、相手の不完全さに目をつぶることなく、そのままを受け入れて愛することができる筈です。このようにすれば、愛する人はあなたの期待から解放され、いかなる形でも強要されたり、負担を感じたりすることはありません。自分が愛する時、どのように愛しているか考えることを忘れずにいてください。誤った方法で愛していないか良く考えるのです。
ここからは、別のテーマについてお話したいと思います。誰の人生においても、決断に関するテーマは非常に重要です。何故なら、全てが決断ですから。これは行動や分かりやすい物理的な選択だけでなく、決断に伴うあらゆる感情的な態度にも当てはまります。大多数の人間は、明確で成熟した決断を下すことができません。その為、魂は病にかかり苦しんでいるのです。魂の内に大きな無秩序が生じ、それは当然、混乱や葛藤へと繋がります。この観点から人生を、とりわけ葛藤を見始めることは、この道を歩む皆さんには大変有益なことかもしれません。これまで、真の決断をして来ましたか?それとも時に、その決断に関係する事柄を検討したり向き合ったりせず、表面的な決断をして、物事が当然のように思い通りにいかないことで挫折感を味わいませんか?自分自身、周囲、人生全般に対して反発がありますか?
この物質界に生きている限り、全ての決断にはふたつ、時にはそれ以上の選択肢があります。場合によっては、誤った選択肢が複数あり、正しい選択肢がひとつしかない場合もあります。成熟した責任ある探究だけが、最終的に正しい方法が何かを示します。しかし、誠心誠意、意識的に責任を持ち、いかなる課題や起こり得る結果を避けることなく決断されれば、多くの場合、実際に何を決断したかは問題ではありません。例え、ある選択肢の方が他のものよりあなたにとって良いものであったとしても、誤った方法を正しい姿勢で選択すれば、それは魂にとっては遥かに健全です。最初は、このことは奇妙に感じられるかもしれません。
では決断をする際、正しく成熟した態度とはどのようなものでしょうか?その答えは、単に自分が何を望んでいるか、その代償が何かを知ることです。つまり、どの選択肢にも代償や不利益はつきものなので、この地球上では欲しいものを完全に手に入れることはできないと認識することです。また、起こり得る不利益がいよいよ現実となる前であっても、その代償を喜んで支払うことです。一方で、正しい選択肢を偶然選んだとしましょう。偶然とは、大部分の人々がするように、未熟に目を半分閉じたまま、選択肢に内在する不利益を受け入れずに選択したことを意味します。これでは、無駄に難しい選択肢を選ぶより遥かに魂に損害を与えます。正しい姿勢で決断することで、責任を持って、支払うべき代償を受け入れるのです。ですから、子供のように気乗りしないで決断したり、あわよくば代償を回避できるなどと考えて、目を閉じたまま踏み込んだりしないよう気をつけてください。物質界で生きている限り、それぞれの選択肢には利益と不利益があるのです。
高次の霊的領域や境地では、否定的な側面はもはや存在しません。一方、より低次の闇の領域では、どのような選択肢もいわゆる利点を伴いません。物質界の肉体にいる間でさえ不利益が降りかかることのない、より高次の領域にまで自らを昇華させるまで、この利点と不利益は存在し続けます。こうした段階に到達する為には、現時点では正当にあなたのものである、このより低次の領域を支配する法則を通り抜けなければなりません。人生にそうするよう強要されるからではなく、その法則を完全に受け入れなくてはなりません。そのようにして、そのようにしてのみ、その地点に到達するでしょう。あなた自身の世界の法則を避けようとしても、どんな霊的なアクロバットを試してもうまくいきません。同様に、闇の世界に縛られた人間は、未だこの地球の次元にいたとしても、闇の世界を支配する条件を受け入れなければなりません。
友よ、これは今夜のレクチャーの冒頭の言葉と関連があります。神を愛するということは、他の多くのことの内でも、当然のことながら多様な神の法則に従い、更に、進んでそれらを受け入れることでもあります。この法則のひとつとして、各決断の不利な側面にも向き合い、受け容れねばならないということでもあります。従って、成熟した決断をするということは、各選択肢を徹底的に吟味するということです。全ての有利な側面だけでなく、不利な側面にも同様に向き合うことを意味します。そうすれば、何を選ぶにしても、支払うべき代償があることを理解した上で、どの代償を払いたいか自分に問いかけることができます。更に熟考して、利益が見込めるなら、もっと高いリスクを負う方が良いのか考えることもできます。こうして、あなたはこの地上生活のもうひとつのルールである不確実性も受け入れることになります。これにはリスク、すなわち人生の短所も含まれますが、リスクを回避できる計画などは存在しないのです。友人の皆さん、これは又、感情面の健康にも大切です。このようにして、成熟した存在として行動し、魂はそこから恩恵を受けるに違いありません。
このように決断をする人がそれで悲嘆に暮れることはありません。また、このように決断しなかったことによる葛藤に直面することもありません。葛藤は、誤った決断や不利になる決断の可能性があるから生じるのではなく、代償を支払う覚悟や意志を持たず盲目的に決断しようとするから生じるのです。これは、皆さん一人一人に当てはまります。成熟した態度で感情的な決断をする人を私はまだ見ていません。
皆さんの道でワークできるよう、強力な材料をまた提供しています。何らかの形で葛藤が存在する場合、適切な決断が下されていないということです。表面的なレベルに留まらないでください。答えを見つける為には、感情を更に掘り下げる必要があります。誠実に探せば、遅かれ早かれ完全に決断をし切っていないことに気づく筈です。何とかして不利益を受け入れずに、利益だけ得ようと望んでいるのです。また多くの場合、明確に考えることなく、両方の選択肢の利益を同時に得て、両方の不利益からも逃れることさえ望んでいます。これでは人生を欺くことになり、必然的な結果として人生から教訓を与えられ、避けたかった両方ないしは全ての側面での不利益を受け取ることになります。大部分が無自覚のこの感情的な流れを見てみると、何に相当するでしょう?それは貪欲です。
この地球の領域では、殆どの人が貪欲です。それは必ずしも物質的な意味ではなく、感情的にも貪欲です。貪欲とは、代償を払うという責任を負わずに利益を蓄積したがることです。言うまでもなく、これは霊的法則に反しています。
友人の皆さん、私が今夜お話したことについて考えてみてください。長いレクチャーではありませんでしたが、ここでお伝えしたことを正しく理解し、個人的な道でワークするならば、皆さんの進歩に必要な材料を与えてくれるでしょう。今夜は、まだ時間がありますので、皆さんの質問にお答えしましょう。
質問:人生における過度の野心と、野心の欠如という相反する感情についてはどうでしょうか?例えば顕著な才能がない場合や、先天的な障害、あるいは怠惰は別として、その感情はどこから来るのですか。
回答:ご存じでしょうが、先天的な障害は単なる結果に過ぎません。ではまず、野心の欠如についてお話ししましょう。お約束通り、欠点を分析し、元の良い特質へと戻るよう導きましょう。ここでは、両極端に対してそれをします。その後、その歪みがもたらす害、それに関連する事柄、そして、霊的法則に照らしてそれが何を意味するのかを示します。
かつて野心の欠如の根底にあった良い特質は、博愛、調和、ある種の忍耐力、謙虚さでした。その特質を持ち合わせた人は、際立って輝かなくても、他者より優れている必要はないことを意味していました。他者に勝つ為に一生懸命努力しても、平和には繋がらないからです。この野心の欠如という欠点を持っている場合、今言ったことを耳にすると、この傾向の肯定的な側面にしがみついて、その有害で誤った側面は忘れようとしかねないことを良く理解しておいてください。しかし、皆さんの欠点には、いわゆる肯定的側面や背景があることは覚えておくべきです。このことを土台にして、この欠点を克服する努力に力を与え、罪悪感を抱かないようにしてください。欠点はつけ加えられたものではないのです。全ての欠点は、かつては良い特質であったものが歪曲または極端に現れたものに過ぎません。更に言えば、性格の一部に欠点を抱えていたとしても、その他の部分は全く問題が無い可能性もあることを忘れないでください。多くの場合、皆さんは特にこの肯定的側面の傾向ばかりを意識し、否定的側面の存在に気づかぬふりをしています。しかし、周囲の人々は気づいている場合が多いです。しかし彼らがそれを声にすれば、皆さんは不当に非難されたと感じます。何故なら、皆さんにとっては、肯定的側面だけが存在しているように見えるからです。人間というものは、両価的です。つまり皆さんの内部に、いくつもの相反する傾向があるということです。
野心の欠如がもたらす害は非常に深刻です。勿論、人生全ての面で野心を抱くことが、望ましい訳でも必要な訳でもないことは言うまでもありません。それは力の浪費だからです。しかし、野心が培われる時、何の目的で自らを訓練するのか、ふさわしい選択をするよう気をつけるべきです。それは、何か価値あるものであるべきです。このレクチャーで論じられた適切な決断に関わるテーマは、この天でも光明を投じてくれることでしょう。
野心は多くの場合、望むものの代償です。野心の欠如に屈し、人生でひとつ、あるいはそれ以上の物足りなさを感じている場合には、野心を必要とする努力によってのみ支払われる代償を払う覚悟ができていなかったことに気づくべきです。霊的にも、野心の欠如は非常に大きな障害となります。この怠惰は、真の幸福と安心をもたらす唯一のものであるあなたの発展を成し遂げるのを妨げます。もし幸せに感じることなくこの特性を所有しているなら、自分のニーズが満たされなかったからといって恨むべきではありません。むしろ、この件に関する自らの決断がどのようなものであったかをはっきりと理解してください。一方、目先の安楽に屈することは、最も抵抗の少ない道を選ぶことです。ここでの不利益は、最も抵抗が少ない道を選ぶ誘惑と闘わない限り、葛藤、渇望、要求や不安は持続するということです。他方で、代償として根深い怠慢を克服する大変な努力が必要であり、それは絶え間ない奮闘と努力を意味します。ここで得られる利益は、暗闇、孤独、不幸の網から抜け出すことですが、それはあなたが心から闘い、ある程度成功したという十分な証拠が示された後でこそ得られるのです。あなたの選択をしてください。何故なら、例えそれが否定的な決断であったとしても、問題をはっきりと見ずに、自らを完全に掌握してこそ得られる結果を期待しながら、ほんの僅かな欠点だけを手放しているより遥かに健康的だからです。
このことに無意識なまま、基本的な障害を克服する為の真剣な努力なくして霊的発達と心の安らぎを望んでいるなら、あなたは実際何らかの形で霊的窃盗を企てていることになります。それは、あなたが厳しい霊的ワークという代償によってのみ到達できる調和を得たいと思っていることを意味します。ここで必要な霊的ワークには例外なく、あなたの最大の欠点を克服することが含まれます。この観点から野心の欠如を理解することは、それを克服することを容易にするでしょう。今でも無理に自分に強いてワークをしているのであれば、欠点を本当に克服したとは言えません。これは感情が未だに抵抗し、あなたが自分自身と一体になっていないことを意味します。そうすると決断したのであれば、この事実を認識し、ワークを続けてください。いつの日か、神の恩寵と救いの影響により、かつては努力だったものが努力ではなくなります。これは、あなたの感情が外的な善意に従っていること、そしてこの点で、あなたが自分自身と一体になったことの証となります。ちなみに、今私はここで、特定の相手に向かって個人的にお話ししているわけではありません。質問に対する全回答は、同時に多くの人に向けられた言葉でもあります。
ですから、友人の皆さん、この角度からこの欠点を熟慮してみてください。「もし何をやるにしても、私に野心がなく嫌々で、自らに無理を強いてやらねばならず、真の意志の力と熱意を以ってそれをやることが出来ないにも関わらず、それでも正当に私のものであるものを望みながら、そのことを感じていなければ、私の感情は何かを盗みたくなる。私は幸せやその他の結果を盗むことを望むのだ。」どうか理解してください。感情が何かを盗みたがると言いましたが、皆さんが意識的にそうしたいと思っている訳ではないことは知っています。ここで常に、誤解が生じてしまいます。
私はたびたび、皆さんの感情の欲求を簡潔な言葉に置き換えてお話ししています。さもなければ、皆さんの知的理解を得ることができませんから。多くの場合、感情の欲求は無自覚です。そして友人の皆さんは、私が解釈する感情を不当な仕打ちとして受け止めます。何故なら、意識的には勿論、そうは考えていないからです。意識的に考えて心から望んでいることと、無意識にあることとの間には時折大きな隔たりがあり、本物の善良な願望が、皆さんが無視している反対の感情の流れによって損なわれている事実を、皆さんは見落としています。しかし当然ながら、皆さんは今のところ、そのことに気づいていません。これに気づくことは、非常に重要であり、それ故、私は時折この矛盾を指摘しているのです。これは、不必要に心を痛める感情を避ける為に言っているということを、よく理解してください。このような傾向に気づく為には、まずこの無意識の流れが常に送り出している明確な症状を理解し、解釈できるようになる必要があります。そうすれば、皆さんの周りにある症状全てが見えてきます。これまで皆さんは、症状を見過ごすことしか選んでいません。
質問に戻りますが、ここで示された観点から、この傾向を熟慮してください。皆さんは当然、成果を望むでしょう。成果を得るには、何事にも努力しなければならないことを理解してください。そのように言われたからとか、「良い子」になりたいからという理由で、自分の意志に反する努力をしてはいけません。全てには代償があることを自ら理解した上で、自主的に、責任を持って、成熟した態度で努力した時にその状態に達する筈です。心の中でこの事実と闘うことは、神の叡智と正義に対する冒涜であるだけでなく、愚かなことです。
反対の極端、つまり過度の野心に関して言えば、本来の良い特質は強い意志、努力の代償を払う覚悟、高次の領域で他人の為に働き、奉仕する意欲です。低次領域での目標は自己になります。ある種の利己主義、権力欲、独善性、より多くを持ち、より多くに成りたいというような貪欲さといった、誇張され歪んだ、否定的な側面を浄化する為に、ポジティブな側面を使ってください。多くの場合、過度の野心を持つ人々は非常に強い欲望の流れが身についており、目的を達成する為ならば、情け容赦なく他者を犠牲にします。繰り返しますが、そのように行なっていなくとも、そのような感情があれば十分に当てはまります。野心過剰は、誤った方向に流れ、あなたから平和を奪う不健全な欲望の流れを生み出すことを理解する必要があります。ここで、ある程度の無欲を達成する必要があります。完全に欲望を抑えてしまってはなりません。何故なら、意欲の無さという逆の極端に至り、不均衡な結果に繋がります。霊的な人は特に、どのような目的で、どのような所に野心を抱くのかを決めねばなりません。一方、無欲になる時が来たら、野心はやめるべきなのです。
質問:拒絶感を抱き、それが恨みの感情にまで発展してしまう状況では、何が欠点なのかを知りたいのですが。
回答:まず第一に、虚栄心が満たされていないのです。謙虚さが欠けているので、無意識の感情は、人格を拒絶してはならない、拒絶されてはならないと主張します。このようにして、あなたは誰からも、もしくは自分の選んだ人に受け入れられることを望みます。自らの要求が通らぬことに耐えられないのです。再度強調しておきますが、この感情は非常に多くの人の内に潜んでいるので、個人的にお話ししている訳ではありません。別な言い方をすれば、身勝手さがあり、自らが欲するところは満たされるべきで、さもなければ憤慨するということです。この感情を克服するには、まず傾向を別々に調べる必要があります。「私の意志が為されますように」という感情を引き出してください。そして、これが意識的になった時、適切な手順として自らにこう言うのです。「しかし、私の意志が常に満たされる必要はありません。必要なら、私は身を引くことを受け入れなければなりません。」謙虚さに欠ける所では、謙虚になれるよう努めてください。自らの欠点がない所で謙虚さを学ぼうとしてはいけません。これは偽りの安心感を与え、集中力や、最もワークが必要な所を見落としてしまう可能性に繋がります。
次に、プライド身勝手さの組み合わせを認識します。同じように扱います。この特定の関係において、身勝手さとプライドの両方を克服できれば、恐れは解消されます。これらの傾向に固執する限り、つまり、いくら高次の動機で覆われていたとしてもこの小さなエゴの欲望を手放せないならば、その希望は叶わないのではないかという絶え間ない恐怖に囚われることになります。身勝手さとプライドを手放した途端、恐れは恨みと共に消えてなくなるでしょう。手放しとは、本物の絆で結ばれた相手や果たすべき使命を諦めるということではなく、欲望の流れを手放すことを言っています。恨みは常に、憎しみの芽から生じます。憎しみは最早、そのような形では現れないかもしれませんが、恨みが存在する限り、憎しみの根は依然として魂の中に残っています。それは必ずしも特定の人に対する憎しみではありませんが、憎しみであることには変わりません。
拒絶や拒絶される可能性に憤慨する人には、必然的に強い衝動があります。そういう人の感情は言うのです。「私が望むことをやってくれなくて、私のことを好いて受け入れてくれないなら、恨んでやる」と。この強い衝動が自身の内に存在していなければ、どんなに小さな形でも憤慨することはできません。このことに気づいてください。このことに気づいた瞬間から、あなたは成長に伴い、感情の流れを徐々に方向転換できるようになるでしょう。これが、唯一の正しい方法です。この状況が急に変わることはありません。成長すればする程、これまでは単なる素敵な理論でしかなく、心の中で現実ではなかった真実を、より多く見て、感じ、知ることになるでしょう。真実は、皆さんに何かが欠けていても、それが何であったとしても、拒絶されることはないということです。ただし、自らの不安が原因で、意地悪く不愉快な人間になってしまうというような、稀なケースは除きます。そのような場合でも、その人は真の自己ではなく、単にマスクを選んだからこそ拒絶されているのです。一見心地よいマスクであっても、全てのマスクは悪です。それでもプライドと抵抗の態度から、好ましくない選択をする人がいます。拒絶は、拒絶する側の人生に対する恐れ、失望、劣等感、不安、そして感情に霊的法則を適用することを未だ学んでいない病んだ魂の症状の数だけ生まれます。手放すことを学び、プライドと身勝手さを克服して初めて、この気づきは得られるでしょう。「ありがとうございます。」
質問:前回のレクチャーで、罪悪感の中に現れる恥の感情等についてお話をされました。多くの場合、この感情は他者に影響を及ぼします。そういう場合に、そのような感情にの中にいる人に対して取るべき正しい態度とはどのようなものでしょうか?
回答:身近な人がこのような欠点を持っているという気づきは、それだけで大きな助けになります。あなたの気づきは例え言葉にしなくとも、助けとなる理解と共感を与えます。この気づきは、皆さんが不必要に傷つくことを防ぐでしょう。何故なら、霊的法則から逸脱して苦しんでいる人は、人を傷つけることが身を守る方法だと考える為、往々にして他者を傷つけるからです。それに相手は仕返しをし、悪循環が始まります。しかし、あなたが自ら何をしているのか理解していれば、このようなことは起こる筈がありません。更に言えば、自らの無意識が他者の無意識に影響を与えるという紛れもない事実があるということです。このような場合、無意識の恥と罪悪感は、周囲の人に無意識に吸収されます。これら全ては無意識に起こり、より深い感情のレベルで正しく理解されていない為、病的で否定的なものが感じられ、恥と罪悪感を抱えた本人の望みに反して、何か病的で否定的で好ましくない反応が表れます。
友人の皆さん、意識的であろうと無意識的であろうと、感情、思考、態度ほど、伝染しやすいものはありません。これもまた普遍的法則です。ですから、病的な傾向に誰かが気づき完全に理解した瞬間、単に理解したという事実だけで悪循環は既に断ち切られるのです。ここで明らかにされている事実を完全に理解することは、更なる助けとなり、その人の心理的、感情的世界により建設的な真実の力を注入するでしょう。外的な対応に関しては、手順は様々です。当然、注意が必要です。多くの場合、魂の性質を理解する程には成熟していない人や、理解する意志のない人には、あまり多くを言うより何も言わない方が良い場合があります。あいかい、その人が心を開いており、これらを理解する力がある場合には、どうすれば相手にちかかづけるのかを手探りで見つけることができるでしょう。ガイダンスとインスピレーションを求めて祈り、自らを開いていれば、相手の受容が現れる正しい瞬間が訪れるでしょう。しかし、受け入れる力が欠けていて、そのような真実に向き合う準備ができる前に、あまりにも率直に真実を告げると、その影響は否定的なものとなり、相手は魂の扉を更に固く閉ざすだけです。まず一般的な話題について話し合い、個人的なことには触れず、それがどう受け止められるかを見るのが安全な方法かもしれません。その人が思慮深くなるどうか、そもそも原則として理解できるか確認するのです。もし多少なりとも好ましい反応が見られたら、ゆっくり少しずつ、常にインスピレーションとガイダンスを求めながら、真実の用量を徐々に強めると良いでしょう。そうすれば、あなたのスピリットの友人達は周りで喜んで助けてくれるでしょう。
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