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Pathwork in Japan
Pathwork Guide Lecture No.33 自己への専心:正しい信頼と誤った信頼
OCCUPATION WITH SELF -- RIGHT AND WRONG FAITH 1996年版 1958年7月11日
主の名のもとにご挨拶申し上げます。皆さん全員に祝福がありますように。また、この時間に祝福がありますように。
このようなレクチャーを聴く時、たくさんの善き親切な人、あるいは霊的な人ですら、自分自身についてあまり多く考えるのは良くないことだと言います。もっと他の人のことを考えた方が良いだろうと感じているのです。そのような人達は、自分自身のことを考えて過ごすことは、利己的な我儘につながると言います。勿論それは、どんなやり方で自分のことを考えるのか、またはどのように他の人たちのことを考えるのかによって変わります。自己憐憫に満ちた否定的な態度で自分のことを考え、自分の運命について文句を言い、人生の中で逃してしまったかもしれないものや、自らコントロールできないもの、つまりは変えることのできないものについて無駄にくよくよと考え続けるようなやり方は間違っています。このような思いに傾きがちな人は、自分から他者へと焦点を移した方が良いとのアドバイスに耳を傾けるべきなだけでなく、自らを考える時に、それを違う方向、建設的な方向へと向けることを学ぶべきです。
それができていない人にとっては、他者を助け、我儘を手放し、助けを必要としているかもしれない人々を援助しようと自らの何かを犠牲にする方法で、他者のことを考える方が余程健康的です。しかし、正しい自己への専心の準備ができている人達も又、正しく他者のことを考え、常にそれを実践せねばなりません。どちらか一方ということはないのです。自らの心配事や困難を忘れて何か役に立つことを行うというのは、あらゆる点で、自分の為にも他者の為にも価値のあることです。
他者のことを考えるというのは、誤ったやり方で行われることもあり、また残念ながら多くの場合は誤っています。常に他者の問題ばかりを考え、批判し、又ジャッジし続けることは、 あなたの自己中心性を減らす助けにはなりません。自分のことではなく他者のことを考えているという単純な事実は、あなたが霊的に行動していることの保証にはなりません。自分自身のことを考えているという単純な事実が(もしそれが正しく行われているとして) あなたが自己中心的であることの証拠にならないのと同じです。全ては、それがどのように行われているのかによります。この極端などちらかにいる時、人は大抵自分らを欺きます。他者のことを否定的、批判的に考えている時、自分は何か良いことをしていると信じ込むのです。そして同時に、自らに専心することは危険であるという受けうりの意見にしがみつきます。自らの誤った態度を正当化する為にこの真実を誤用しています。生産性がなく、自らを弱めるような自己への専心というものも確かに存在し、大抵は「私は自分を知らなければならない」「自分が感じていることを分析しなければならない」というマスクの下に隠れています。しかし、こうしたことは何ひとつ実行されません。ですから、自分自身のこと、そして他者のことをどのようなやり方で考えるかに気をつけてください。友人たちよ、この点に関しても、自分自身を吟味してください。
霊的に高度に発達した人々は、他者の為の自己犠牲に全力を尽くし、能力の限りを尽くして他者を助け、多くの善を為すかもしれません。しかし、こうした人々には霊的成長の為に更なるものが求められます。それは、霊的成長に必要不可欠な条件である動機の浄化であり、深い自己認識なのです。この課題を怠り、他者への援助に重点を置くことで問題から逃れる人もいるでしょう。又一方で、単にあなたが自分をよりよく知っているからと言って、他者への援助を放棄する必要がある訳でも、放棄しなければならない訳でもありません。その反対です。自分がこの範疇に入っていないか、どうぞしっかりと見てください。
友人の皆さん、こうした言葉を聞いたり読んだりしている皆さんは、正しい種類の自己分析をする準備ができています。もう既に正しい行動をとり、また多くの点で正しい考えさえもお持ちかもしれません。しかし、よくご存知の通り、成長が進むに従いそれでは十分ではなくなります。あなたの感情が純粋で誤魔化しがないことが必要なのです。これを成し遂げるには、霊的真実や霊的法則に照らし合わせながら、自己探究や検証、自分の行い・考え・感情に対する厳しい判断や自己分析を行いつつ、自己への専心がどうしても必要です。
自分自身を知らない人達に、他人を知ることはできません。つまり、自分のことを理解できない人は他者を理解できず、自分のことを愛していない人は他者を愛せないのです。ここでまた、自らを愛することは利己的である、という異議が申し立てられるかもしれません。繰り返しますが、それが真実なのは自らを甘やかし、人生で必要な痛みから逃れるために自己愛が使われた場合のみです。これは甘やかすべきではない、厳しく扱うべき小さな自己です。ですが、もし、あなたが健全な自己尊重を持たず、神聖なる存在、つまり、より偉大なるあなたという存在を愛していなければ、本当の意味で他者を愛することはできないでしょう。この地球の為に、スピリットとして計画してきた霊的成長を追い求め、達成する時にしか正しい種類の自己尊重や自己愛が現れることはありません。これを疎かにするならば、例えどれ程の言い訳や自己欺瞞で誤魔化しても、無意識の深い場所では自分が成長する筈だった程には成長していないという事実が残ります。考えや行動でないとするなら、あなたは感情で霊的法則をいくつも破っていることになり、又、なんらかの方法で自分自身から逃れようとしているのです。どれほど巧く合理化しようとも、このすべては劣等感の真の原因である自己嫌悪につながります。それ故、人は他者の為に自らを捧げ、霊的成長において最善を尽くすことでしか、自分自身に敬意を払うことはできません。そしてこの揺るぎない自尊心がある時にのみ、真に他者に敬意を払うことができるのです。さて、友人たちよ、これでどのように環が閉じるべきかもお分かりでしょう。
正しいやり方で自分自身に専心する程に、自己中心性は減っていきます。するとより上手に他者を助け、他者の為により良い働きができるようになります。自らについて批判力をもって注意深く考え、他者について深い思いやりを持ってください。ですが、どれだけの人が、霊的な人ですら、この逆を行っていることでしょう!自身の欠点、悪い癖など、例え他者にはすぐに分かるようなものでも無視し、口には出さなくても感情や考えを通して他者を非難する準備がいつでも整っているのです。
友人たちよ、自らの欠点を認めることを学ぶように、他者の欠点を受け入れることを学んでください。ここでも、それを正しく行う方法がきわめて重要です。これについては、これまで十分にお話ししてきたので改めて詳しくは述べません。自分自身の欠点をきちんと受け入れるというのは、思っていた程、自分は完璧ではなかったことを発見したからといって自虐的に落胆することではないし、また今の自分のままでいたがることとも違います。 それぞれの人間の傾向に関して、ふたつの完全に間違った極端と、1 つの最も難しく正しい中道が見つかるでしょう。そうすればきっと何であれ、それ自体に良いも悪いも、正しいも誤りもないという、より良い理解にたどり着くでしょう。これがどのように行われるのか、つまり誤ったふたつの両極の間の中道を見つけられるかどうかで、正しい道を進んでいるかどうかが決まります。
正しい方法で自らを受け入れる時にだけ、他者をありのままに受け入れることができるようになり、また、真の成果をもたらすことができる場所、つまり自らに努力を向けることを求める霊的法則に従って生きることができるようになります。自らに変化をもたらす力を持つのは、あなただけです。他者を変えることは絶対にできませんから、この方向ではあなたの努力は水の泡となります。しかし、あなたが変化することで他者に影響を与える手助けはできます。そうすれば、その人は自らも変わろうと決めるかもしれません。あなたが先に例を示した時にのみ、その影響は真に実りのあるものとなります。他者の欠点によって何らかの不調和がもたらされる場合は、あなたが深い場所で相手を変えることができないという事実に憤慨していることを示しています。その憤りは、あなたが霊的法則を破っていることを意味します。本当の自分をそのままに受け入れるという点で、今自分がどこに立っているのか、謙虚さを持って確認することは最適な指標となります。他者の欠点に直面する時に穏やかでいられればいられる程、あなたはありのままの自分を受け入れることになります。このようにして、どれほど多くの不完全さがまだ内側に残っていようと、あなたは健康的な基盤を魂のうちに持つでしょう。しかしながら、現時点での他者のあり方に対して、あなたが内側で戦えば戦う程、同様に自分自身を受け入れることを拒絶することになるのです。親愛なる友人たちよ、これについても考えてください!
ですから、他者をありのままに受け入れること、また、あなた自身にはないかもしれない欠点に寛容になることを学んでください。そして多くの場合、これより更に先へ進まねばなりません。あなた方はとりわけ、まさに自分の中にある同じ欠点を見て相手を非難します。勿論、皆さんはそのことに気づいていませんが、そうなのです。徹底的に自分自身を知ることでしか、他者を受け入れ、より理解し、より愛することはできません。寛容になる為に盲目になる必要はありません。基本的に不寛容な人は、相手に対する強い愛や共感がある時には、相手の欠点を見ようとしないことが良くあります。この場合、欠点を見たくないということは、欠点に気がつくことが相手を愛さなくなることを意味するという、深い恐れを示しています。これは勿論、不寛容に他なりません。もし愛する者の不完全さを受け入れることができるのならば、目を閉じる必要はないでしょう。この誤った反応に加えて、このような人は自分がとても寛容なのだと信じ込みます。なぜなら、愛する人の中に欠点を見ることがないからです。これは人々がよくかけるマスクのひとつです。真の寛容さや受容というのは、他者の欠点をはっきりと見、愛することを恐れず、それらの欠点にかかわらず敬意を払うということです。このような態度でいることは、周りにいる他者を助けるだけでなく、自分自身をも助けます。
親愛なる友人たちよ、このテーマについて、全員に注意深く考えていただくようお願いします。こんど瞑想をする時、他者に対して批判的になり過ぎていないか、または、意識的でなくとも実は他者を非難していないか、自分自身に尋ねてください。他者に対する感情的反応もそれになり得ます。この点において自分自身を吟味し、他者の誤りと忙しく戦っている一方で、自分の誤りに盲目的になっていないか自問してください。もしあなたがこれを行い、気づいたことに対して正しいやり方で反応すれば、この態度の変化によって大いなる新たな平安を得られることをお約束しましょう。あなたの平安や内なる調和を奪っているのは他者の行いではなく、常に、そして単に、自分で変えることのできない状況に対する、あなた自身の誤った態度と内面の戦いなのです。そして、更に言えば、状況を変えようとすべきではありません。あなた自身が変わるべきです。そうすることができれば、あなたは自由になり、また他者の行動や反応からこれまでにない自立を感じ、結局のところ、他者があなたに危害をもたらすことなどできないのだと知るでしょう。
では次に、信頼のふたつの側面について取り上げたいと思います。多くの人は、霊的成長を追い求める為の努力に誠実でいますが、その信頼は完全という訳ではありません。どこかに必ず「これは本当に真実なのか? 妄想ではないのか? この全てに騙されているのではないか?」といった隠された疑いがあります。友人たちよ、こうした傾向をどう扱ったらよいのか、お話ししようと思います。
まず、その密かな疑いについて考えないようにすることは賢明ではありません。誠実な善意から、あなた方はこれを頻繁に行っており、そうした疑いを持ちたがらない面があります。そしてどういう訳か、隠すことで疑いがなくなるように思うのです。しかしご存知の通り、無意識に追いやられたものを上手く取り扱うことはできません。疑いが自分の進路を変えてしまうかもしれない、そうなったら霊的な努力が失敗に終わるかもしれないと決めてかかり、あなたは疑いが表面に上がってくることを恐れます。
しかしながら、そうである必要はありません。疑っているのはあなたの一部であって全人格ではないこと、そしてその部分があるにも関わらず、確かに信じている別の部分があることをはっきりと理解すれば、 自らの疑いを認識することが霊的な奮闘を諦めることになるのではという恐れはなくなります。人間の魂はあらゆる点で、矛盾した流れでいっぱいなのです。気づきたくない否定的な部分に直面した時に絶望せず、これを理解するのが早ければ早い程、事態は良くなるでしょう。そうしようとする時、どちらか一方の傾向が本物なのだという誤解が邪魔をします。しかし、あなたの魂の中ではそのどちらもが実体を持ち、互いに戦っているのです。自分のものだとは認めたくない側面を認める勇気が欠けている限り、この戦いが終わることは決してありません。お伝えしたように、ふたつの矛盾した流れが原則的に同時に存在し得る、実際に存在しているということを理解すれば、それを認めることは易しくなります。いずれにせよ、それに関しては「信頼」対「疑い」だろうと、他の内なる問題であろうと違いはありません。自分の中のその疑っている部分を認めたら、次の助言に従ってください。信頼という名では表現できない程のこの完璧なる知識と、神の存在の体験が人に与えられるということは、神の恩寵であると知るのです。完全なる信頼の欠如について、あなたの謙虚さを育ててください。自分にこう言うのですー「私はまだこの恩寵を受けるに値しません。私は、自分が何かに値するかどうかを決める立場にはありません。自分の不完全な信頼とともに懸命に進んで行かなければならないのです。私の存在の意欲的な部分は、人生をよりうまく扱い、より効果的に他人を愛し助けるために、成長し、より良く、より感情的に成熟した人間になりたいと願っています。この努力において、私は神の恩恵が与えられるまで辛抱強く謙虚に待ちます。」
これらの考えや感情を育て、行く手を阻み道を塞ぎたがる自らのローアセルフと戦い続けるならば、いつの日か、この完全なる信頼があなたのものとなることをお約束します。その時には、あなたは完全に納得のいく形で神を体験するでしょう。しかし、他者がどれほど熱心にその体験や恩寵を伝えようとしても、あなたを説得できないように、あなたが神の真実と存在を自分の人生の中で経験した時にも同じことが起こります。この神の恩寵、つまり完全なる信頼を得る為にまだ奮闘している人達に、これを伝えることはできません。一人ひとりがそれぞれに奮闘して、魂の成長におけるこの重大な体験と根本的な変化を得なければならないのです。
信頼のもう一つの側面は、完全な信仰、つまり、その人にとって可能な限り完全な信頼を持っている人々がいるということです。何故なら、魂のあらゆる不純物は、何らかの形で信頼の完全性にも影響するからです。完全なる信頼とは、人生においてどんな不調和もなく、あらゆる点で恐れがないことを意味します。しかし、そのような境地に達した人はひとりもいません。ですが、信頼が他より強い人達もいます。このような人達にはしばしば、自分は神にとって特別な何か、最愛の子供であるという無意識の感情があります。例えば、自分は神のお気に入りの子である、父なる神との関係で特に親しい立場にあり、非常に特別な存在であり、神を自分のものにできると考えています。これは有害で、危険な感情でもあります。危険というのは、そこに多大なプライドが含まれているからであり、また自分自身を欺くのがいとも簡単だからです。この信念は素晴らしいもので、自分の献身と霊性の現われなのだと、自己正当化する準備がつねに整っているのです。
これは、神に近づきたいという願望、創造主への愛といった善良で純粋な動機が、霊的な自尊心や同胞からの分離といった悪い不純な動機と混ざり合っている例のひとつです。自分と神との関係性の中に、そのような感情が存在することは知性では全く分かりませんから、 ここであなたのやるべきことは、 それが自分に当てはまるのか、もしくはどの程度当てはまるのか、自らをよく吟味することです。そのような感情を少しでも発見したら、神の目には、あなたは他の誰かより上等でも重要でもないのだと思い出してください。自分は神にとって特別な何かだという感情は、あなたの成長における移行状態だと捉えることができます。プライドや身勝手さがなくなるより前に、神への憧憬や愛が目覚めてくるのです。ふたつの反対の傾向が一時的に結びつきます。しかし、あなたはそれに気づかねばなりませんし、また、それが正しく良いことだなどと一瞬たりとも信じてはなりません。これは成長のプロセスの一部であり、あなた自身の手で細かくふるいにかけ、浄化しなければなりません。
これが当てはまるかもしれない人たちに、あなたが神について考え、感じ、また神に近づこうと努力する時、自分の感情をよく吟味することをお勧めします。すべてはあるべきようにあると思っていても、自分は他の人よりも神に近く、より愛されていると信じている、自分で未だ気づいていない隠された感情が何処かにないでしょうか?この感情の根は、今はまだ信頼が本物ではない人々の中にさえ存在しているかもしれません。が、信頼が完全なものとなり、移行期が展開し始めた途端、それはより強く現れるでしょう。ですから、もし特別感が少しでも自分に当てはまるかもしれないと気づいたならば、自分と同胞との関係性に全力を注いで取り組み始めてください。
神に特別に愛されていると感じている人々には、しばしば独特の不寛容さが見受けられます。他者に対する一種の傲慢さもありますが、それは必ずしも外側に見える行動にではなく、内側の態度にあるかもしれません。瞑想の中で、あなたがそれほど尊敬していない人、あるいは知り合いの中で一番好きではない人、またはあなたが苛立ちを感じる相手を選んでください。そうしたら、神があなたのことを愛しているのと同じように、その人のことをどれほど愛しているかを考えてください。たとえ相手のほうが霊的に成長していなかったとしても、それでもその人は神に愛されているのです。 友人たちよ、これは素晴らしいエクササイズであり、あなた方に必要な良薬となります。
人間の魂は、そう言ってもよければ、とても複雑な「構造」の一部です。浄化とは、単に欠点の克服にあるのではありません。そんなに簡単なものではなく、長い時間がかかります。まだ気づいていない自らの傾向や反応の多くを深く理解した後に、ようやく浄化が可能になります。ですから、完璧になるということは、それが究極のゴールであったとしても当面のゴールではありません。究極のゴールを知りつつ、まずは目の前のゴールに向かって、つまり、自分自身をありのままに知り、受け入れることに取り組んでください。これは、自分自身について幻想を抱かないということも意味しています。たとえば、自分の短所に対して健全な態度を身につけること、人生のルールに従って生きる術を学ぶこと、時には必要である困難から逃げないこと等。ここで学んでいる全てのことが含まれます。これが成し遂げられた後、ようやくあなたは誤った傾向を改め、これまでと違った反応をし始めるでしょう。まずは自らの動機を明らかにして、それを浄化してください。同じひとつの作用・反作用のパターンの中で、良くない動機を良い動機から分けてください。これが今のあなたがやるべきことです。
信頼が欠けていても、努力することを止めないでください。あなたは善き人ですから、善き人として、どこにいたとしてもさらなる善を行えるように、より良く、より完全に、より純粋に、より愛情深くなることを望んでいます。もし、神が本当に存在するのかどうか確信している訳ではないからと、この大変な取り組みをつねに神の為には引き受けられないとしても、あなたの本質的な要素である他者への愛のために行ってください。まだ信頼が弱い人は、先ほど述べたような、信頼が強く、神の目には自分は特別な立場にあると感じている人に比べ、他者への愛が大きいことが多いのです。そのどちらも移行期間であり、いずれは明らかになって完璧のうちに調和するでしょう。
さらに、試練があなたに降りかかる時(これは必ず降りかかりますが)、あなたの思考能力が麻痺しないよう祈ってください。難しい局面になるとこうしたことがよく起こるからです。ひたすらこの思いに留まってください。「父なる神よ、今この瞬間、困惑し、不幸で、混乱しているとしても、私に明確な見方を与えてください。私が知っていることを忘れないように助けてください。今の私のとても限られた視界に映るのとは違う、この状況でのあなたの真実を私に見せてください」
試練が来ると皆さんのものの見方が完全に歪むのをよく見ます。自分の否定的な見方だけが真実だと信じ込むと、あなた方はいとも簡単に絶望します。完全に分かっていたことすら、その瞬間には忘れてしまいます。自分が引き寄せた悪の力によって麻痺状態になり、いつもなら明らかに見えていることも見えなくなり、考えられなくなります。そうして思考が闇に覆われてしまう為、神の真実を求めようとは思いつきもしません。闇から出てきて初めて、自分がどれほど盲目になっていたかに愕然とするのです。
いち早く神を頼り、私が説明してきたことを十分に理解すれば、多くの困難な時間を節約することができます。思考を訓練し、無意識、つまり「忘れられた」真実が見つかるかもしれない魂の部分を掘り下げるように思考を訓練することで、一時的な盲目状態と戦ってください。いずれ来たる試練の為に、自らを鍛えてください。そうすれば、精神的により良く準備のできた状態で向かい合うことができるでしょう。
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