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Pathwork in Japan
No.43 人格 -- 3つの基本タイプ: 理性、意志、感情
Pathwork Guide Lecture No.43
UNEDITED版
1959年1月2日
人格 -- 3つの基本タイプ: 理性、意志、感情
PERSONALITY -- THREE BASIC TYPES: REASON, WILL, EMOTION
神の御名の下、みなさんにご挨拶します。私の大切な友であるみなさんに祝福を与えます。親愛なるみなさん、たくさんの方が自分の選んだこの道で進歩を遂げている姿を、大いなる喜びを抱きながら見つめています。そしてまた、何人かの新しい友がこの解放の道のための一歩を踏み出しました。あなた方の魂が「この道を歩む」というとても大切な決断をする度に、スピリットの世界には喜びが創造されます。この喜びは、遅かれ早かれ必ずあなた方もご自身のハートの中で感じるはずです。その時は、最初に直面するいくつかの困難や抵抗を克服した後に訪れます。自己成長へと向かうこの道を歩むために下す最終決断、そして歩みの途上で手にするそれぞれの勝利は、みなさんにとっての特別な祝福を生みます。たとえみなさんが、その瞬間、その存在に気付かないとしても、この祝福は現実のものなのです。
私の友であるみなさんの多くが、この道の途上で助けと強さを求め、祈りを捧げてきました。ところが、ほとんどの人は、その祈りへの答えがいつもたらされるのかは理解していません。というのも、答えはしばしば、みなさんにとって不快なもののように感じる形で現れたり、争いや摩擦、または不当に扱われたと感じるような何かの中でもたらされるからです。一時的な痛みを引き起こすまさにその出来事が、自分の祈りに対する答えだということが、みなさんには分かっていません。その祈りは、自分という存在、内に抱える葛藤に気づいて、自らを浄化する、そのための助けを求める祈りです。内に抱える葛藤が外側に出てこない限り、どうしたらみなさんがそれに気づくことができるのでしょうか?というのも、その時になってはじめて、みなさんは聖なる法則から逸脱している自分の中に隠された部分に気づくことができるからです。この逸脱はネガティブなものなので、必然的に、みなさんがネガティブな方法で感じる物事として現れます。友であるみなさん、このシンプル極まりない論理はしばしば見過ごされ、みなさんは「さまざまな摩擦や衝突は自分の内面と無関係だ」と頑なに思い込みます。いいですか、親愛なるみなさん、これは私からのお願いです。あなたにもたらされる外的な葛藤を、自分の祈りへの答えとして受け止め考えてください。別の方向に目を向けるのです。目の前の出来事にばかり気を取られて傷つき、または反抗的になる代わりに、自分の内側に向き直り、どれほど相手の方が悪いと思っているとしても、回れ右をして見方を変えてください。そして「この痛ましい衝突のどこかに、真実の種があるのでしょうか?それに気づくことで、私は今後も学び、成長を続けることができるはずです」と自らに問い、神に尋ねるのです。そうすれば、さらに深く豊かな気づきがみなさんの元を訪れ、あらゆる不調和、悲しみ、不幸せ、不公平、反抗といった感情の全てをかき消してくれるはずです。「不当に扱われた」、「傷つけられた」と感じるときには、自分の内側で起きる反応に注意を向けてください。そうすれば、みなさんの祈りに対する答えがすでに返ってきていることが分かることでしょう。自分の内側の間違いに気づけば、みなさんは兄弟姉妹である他者との摩擦も、まるで陽光に照らされた雪のように、跡形も無く消え去ります。理解と愛を抱きながら、お互いに結びつくことができるのです。スピリットの世界に暮らす私たちは、この理解と愛がみなさんに届きますように、と祈りを捧げます。私たちの親愛なる友人のみなさん、人間として生きる私たちの兄弟姉妹であり、最も大切なこと、つまり内側に目を向け、自己に気づき、自分を浄化することをやり遂げるだけの勇気を持っているみなさんに向けて私たちは祈ります。人が地球に生まれる理由は、みなさん自身が選択したこの「道」を歩むことです。それ以外の何物でもありません。この道を歩むことに全身全霊をかけ、自分の良き意志と努力を真摯に証明しようと努めていけば、自分が生きた人生が無駄に終わってしまうことなどないのだと、ますます深く気づくはずです。いつその歩みを始めるのかは関係ありません。「遅すぎる」ということはないのです。
みなさんの多くが、神と繋がりたいという誠実な願いを胸いっぱいに抱いていますが、それをするにはまず、仲間である他の人間たちと繋がり、自尊心やエゴを捨て、謙虚と愛を実践し、みなさんの願いが本気であることを証明する必要があります。まずは、そのための無数の小さな機会を見つけねばならないのです。というのも、今この場所、まさに今あなたが立っている場所でのみ、あなたは神を見つけるたくさんの機会を手にするからなのです。
ではここで、みなさんの人生に多くのトラブルを生む原因となる、みなさんの中に存在する誤った結論に出くわすときに、自分自身を見つける助けとなることについて掘下げて行きたいと思います。これらのレクチャーの中で私がみなさんに言うことは、みなさんが自分自身そして真の自分とは何で誰なのかを見つけるためのさらなる助けを、そして手がかりを手にしてもらうためのものです。人間の性格は、基本的に以下の3つのタイプに分けられます。それらに加えて、私が過去のレクチャーで述べたとおり、さらにそこから細分化されたものもあります。そしてまだ話していないものについては、この後のレクチャーで説明しようと思います。今夜は、次のことについてお話しします。人間の人格には、主に理性で自分の人生や反応を管理するタイプ、次に感情で管理するタイプ、3つ目は意志で管理するタイプがあります。言い換えれば、理性の人格、感情の人格、意志の人格があるのです。自己探求において、自分のタイプを知ることは非常に有益です。詳しい説明に入る前に、これらの3つのタイプはどれかひとつしか持っていないわけではありません。実際は、常に混ざり合っています。けれどもいくつかのケースでは、どれが一番の支配力を持っているのかが明らかな場合があります。混ざり合っている場合には、自分のタイプが分かりづらくなります。この3つの側面がそれぞれ正しいところに収まっているのが理想の姿です。調和の取れた人というのは、それぞれの側面が完璧な方法で機能しているのです。ところが、この地球上には完全に浄化された人間は存在しません。それゆえ、この3つの傾向がバランスを欠いたり、他と比べて極めて優勢となっていたりするだけでなく、どれかひとつが間違った方向に流れ出すという場合もよくあります。理性があるべき部分を感情が支配したり、その逆の事態が起きたり、という具合です。
ではまず、理性タイプから始めましょう。主に論理的思考に基づいて生活を送るこのタイプは、感情面を蔑ろにしがちです。彼らは感情を恐れています。彼らは感情の動きを阻止し、その機能を損なわせますが、そうすることで同時に、生きて行く上で最も大切な道具のひとつである直観も邪魔しています。感情を恐れる者たちには自らの直観が信じられません。彼らは直観という「実体のないもの」を恐れ、信用しないため、その姿を明確に捉えることができないからです。しばしば、このタイプは感情タイプの人間を見下し、論理的思考を行うことに誇りを抱いています。このタイプの人はその意志を --- これは必ずしもセルフウィル(身勝手さ)だとは限りません --- 主に、自らの論理的思考によって導き出される推理に使います。そして本来であれば注意を向けるべき、感情や直観からくる推理をほとんど使うことはありません。理性タイプに属する人の多くがいわゆるインテリで、科学者であったり、不可知論者、無神論者であることさえ少なくありません。物質主義的な傾向を持っていることもめずらしくありません。だからと言って、このタイプの人間が全員、もしくはその大半が他のタイプ、例えば感情タイプの人と比較して、霊的な成長、あるいは「目覚め」のレベルが低い、と決め付けるのは間違いです。それでは事実を一般化、単純化し過ぎています。事実はそうではありません。理性タイプの中にも、霊的な成長や目覚めのレベルが高い人は数多くいます。その数は、感情タイプの人間の場合と同じです。ただ、感情タイプとはアプローチが違うだけなのです。理性タイプの人は自分の内側に存在する神性を経験するのがとりわけ難しいと感じます。感情タイプの人はこれとは別の困難を感じています。さらには、理性タイプの人は、自分にでも他者にでも構いませんが、とにかく何かを直観的に判断するのがひどく苦手です。つまり、この両タイプの人びとは、すべての人に不可欠な意志を一面的にしか使っていないわけです。理性タイプは自らの意志をよくよく考えて、時に過剰と言えるほど用心深く使う一方、感情タイプは感情に流され、無意識の内に、自分がどこに放り出されるのかも分からないままに自らの意志の力を使います。これに対して、調和の取れた人は常にその中庸を見つけ、状況に応じて代わる代わる、健全な形で自らの意志を使い分けます。意志とは、理性と感情のいずれに対しても従者であるべきなのです。
理性タイプの人間が、とても多くの貴重な人生経験を得ることができないという損失を抱えながら人生を送るという事実が、これでみなさんにも良くお分かりいただけたと思います。これはたいてい恐れや自尊心から来ています。そして、感情が自分では手に負えない経験へと自分を追い込むのではないかという恐れから来ています。感情に支配された人生には必ず、不確実さと危険が伴うという恐れがあるのです。ところが、理性タイプの人間はすべてを常に整理された状態に置き、自分を感情という大海の中に一人置き去りにしないように、自らの居場所をいつでも把握しようとします。
2つ目のタイプ、感情タイプも同様に一面だけに偏っています。この感情タイプの人には、多くの場合、自分だけが本当に「感じる」ことができるという自尊心があります。彼らは自分以外の人びとを軽蔑的にインテリと呼んで、密かに見下しています。けれども、感情面が極端に強い人の場合、理性タイプよりも内面の調和や聖なる法則から逸脱していることはありません。実際、感情タイプには鋭い直観を持つ者が多く、内なる経験や感情を理性タイプほどは恐れません。では、このタイプの欠点は何でしょうか?自らの人生を過剰なまでにしっかり管理する理性タイプと対照的に、感情タイプは自分の人生に対するコントロールを失うことがよくあります。過度に感情的な人間は、理性もまた神に与えられた大切なものであるという事実を完全に見失います。そうなると、彼らは、理性タイプの人が感情タイプの人を見下すのと同じように傲慢になります。彼らは、自分の感情をコントロールしたくないと感じて、その感情に押し流されてしまうため、その波に乗って結果的にあちらこちらに放り投げられてしまうことになるのです。そうして、その人は自分をコントロールすることもできなくなり、人生にとって、そして成長にとって最も大切なものも見えなくなるのです。感情的側面を過度に強調するあまり、感情的側面と同等に大切な理性、つまりを思考、判別、選択、比較検討といった理性的機能の重要性を無視してしまいます。そのときにのみ、必ずしも不純な感情ではないとしても、目的も方向性もなく流れる乱暴な感情を抑えることができるのです。そのときにのみ、意志を適切に用いることができるのです。そうでなければ、制御不能な感情が、その人の人生、そして周りの人たちにも大混乱を招かないはずがありません。感情に屈したいとする誘惑は、最初の内はコントロールできるかもしれませんが、感情のままに振舞う回数が増えるにつれて、それに抵抗することが徐々に難しくなり、最後には激しい感情の波に完全にさらわれ、全てを破壊し尽くした結果、跡には何も残らない、という事態に至ります。このタイプの人は常に自己中心的で破壊的に振る舞います。理性タイプにも自己中心的な人は多くいますが、感情タイプのそれとは種類が異なります。感情タイプに属する人はまず、気が付くと自分が極端な感情の中にいるがために、自分が誇りに思うその感情自体が良いものではなくなってしまうということに気づかねばなりません。彼らには、選び取り、慎重に考え、綿密に計画する能力を育む必要があります。この取捨選択のプロセスこそが、叡智の始まりなのです。
当然ながら、感情タイプの人も意志を使います。実際、タイプの別に関わらず、意志を使わない人はいません。ただし、このタイプの人は責任を持つことも、計画性も思慮も無く、ただ衝動的かつ無秩序な方法でこれを使うのです。そして、直観は直観でも、建設的に整理されたものではなく、どことも繋がらない野放図な「感覚」の中に飲み込まれた結果、人生におけるバランスを失います。理性タイプの場合のちょうど反対です。
理性、感情のいずれのタイプも、対極に位置するタイプを潜在意識で恐れています。そしてそれゆえに、それぞれにその対極に留まります。このこともまた、間違った結論なのです。この間違った結論の中では、人は自分のいる極(タイプ)の方が他方の極(タイプ)よりも人生に対してより良い答えであると感じている、または無意識の内に考えているのです。自分に対するコントロールを失うことを恐れる理性タイプは、人生に不可欠な経験をする可能性の多くを自ら断ち切り、美と幸福から遠ざかります。一方の感情タイプは、奔放な性質を抑え込んでしまうと人生にとって大切な何かが失われてしまうのではないか、と恐れます。もちろん、どちらも間違いです。なぜなら、調和の取れたその中庸こそが、人生に対する完全な答えへと至る道だからです。
いずれの場合も、以上のように明らにその典型のような人もいますが、実際にはそこまではっきりとはわからない人のほうが遥かに多いと言えます。なぜならば、ある部分では過度に感情的だったり知的だったりするけれども、別の部分ではその逆だったり、ところどころ上手くバランスが取れていたりするからです。または、その人の真の資質が仮面(マスク)に覆われている、という可能性もあります。例えば、基本的には感情的な人が 、自らの病的なまでの恐れや未熟なエネルギーから、本来は異質なはずの「知性」という仮面を被ることがあります。この人は、表向きは大変に冷静で常に控え目なように見えるかもしれませんが、内面ではさまざまな感情の嵐が吹き荒れています。この場合、適切なバランスの獲得に向けたワークを始めるまで、心の平安を見つけることは絶対に不可能となります。
あなたが自分の魂、イメージ、間違った結論、間違いのさまざまな層、そしてあなたが出会うであろうことを理解しているという、その視点からお話ししています。このことは、自分とは誰なのか、何なのか、現実の中でいかにあるべきかについて、さらなる理解をもたらすでしょう。
三番目は、意志タイプです。このタイプは、前の2つとは随分とその性質が異なります。前にも申し上げたように、本来、意志は自らが主人になるのではなく、従者であるべきです。様々な理性的行いと感情、直観の持つ能力のいずれに対しても等しく仕えている状態が、意志の理想的な形です。ところが、意志タイプの人間はこの従者を主人にしています。そのことは、この傾向が正しく認識されないでいる場合、危険性を帯びたものになる可能性があるがために、人格をぼんやりしたものにします。他と2つと同様に、意志の側面が強い人も他のタイプを無意識の内に見下している可能性があります。彼らは以下のように考え、または感じます。「理性タイプの人間は口だけだ。理論は立派かもしれないけれど、彼らの言うことは漠然とし過ぎている。あれでは、結局何にも達成できない。そう、彼らには何もできないんだ。しかし、自分は実際に行動して、成し遂げている」という具合です。当然ながら、理性タイプよりも何かを成し遂げる事の少ない感情タイプの人は、彼らにとってはさらに見下すべき対象となります。他の2つのタイプがその対極にいるタイプに対してジャッジするのが彼らにとっては正当であるのと同様に、彼らのこうした判断自体は正当なものです。自分のタイプこそが、自分が見下している他のタイプに比べて優れているとするその思い込みこそが間違っているのです。従者を主人にしている意志タイプは、常に何かを達成しようとし、目に見える形での結果を求めます。このタイプの人は、成果を急ぎ過ぎるために「待つ」という我慢ができず、結局、自分が追い求める結果を失ってしまうという傾向があります。そして感情的な性質と一緒になって叡智へと至る、理性的なプロセスが機能しない状態をもたらします。その叡智がなければ、自分の求めることを達成することも不可能です。また、たとえ達成できたとしても、そこから正しく何かを得ることはできません。そして結局は再び失うことになるのです。意志タイプの人は、中止すべきことを見逃す傾向があるだけでなく、自分自身にとっての、そして他者にとっての真実を手に入れるために不可欠な人生のたくさんの側面や、たくさんの考えをも見失っているのです。理性タイプと同様に、意志タイプの人も感情面をないがしろにします。理性タイプと同じようにそれを恐れていますが、その中にある別の目的を(無意識のうちに)持っています。感情が自らの手の中に納まっている限り、意志タイプはそれを受け入れることができます。つまり、自分の手に負えなくなった瞬間、それは自らの目的を邪魔するものになるわけです。理性タイプと同様、意志タイプもまた、大切な人生経験の大部分を失っています。結果もその利点も分からないまま、何かしらの感情に身を任せるという経験が、彼らにはできません。
みなさん、これらが3つの人格を大別したものです。そして今言ったように、必ずしも、どれか一つの側面が明らかに突出していて自分のタイプがすぐに分かる、というわけではありません。みなさんは自分以外に沢山の人間を知っていますね。そして、常に自分よりも他人の姿の方が分かりやすいため、私が先ほど申し上げたような角度で他者を見つめ、さまざまに判断を下していることと思います。みなさんの場合、3つの内2つの側面が強く、最後の1つは機能していないことがほとんどです。中には、3つがすべて機能してはいるけれど、少なくともどこかの部分では各々の力が間違った方向に流れ、正しく機能せず、人格全体に適応されていない人もたくさんいます。以前のレクチャーでお話ししたので覚えている人もいると思いますが、能動的と受動的な力の両方が健全な魂であるためには不可欠です。これはつまり、完全に能動的、あるいはその逆で完全に受動的な人間になることは間違っている、という意味になります。実際には、そのような極端な人間は存在しませんが、どちらか一方が優勢になっている人は大勢います。何が起こっているかというと、受動的な流れのための経路に能動的な流れが流れ込んでいるのです。またその逆もあります。理性、感情、意志も、これと似ています。明らかにどれか一つが優勢になっているわけではないにしても、理性が機能すべきところで感情が働いていたり、その逆だったり、本来意志が機能すべきところで機能せず、してはいけないところで働いていたりしています。今お話したことは、みなさんが魂の中により深く入り、これらの側面あるいは流れがどこでどのように機能しているのか、互いに助け合い調和の取れた全体を創造する代わりに、ひとつがもうひとつを妨げているのはどこなのか、ということを見つける助けとなるでしょう。このテーマについて何かご質問がありましたら、どうぞ。
質問:質問があります。学術的な質問です。このタイプの分け方は、いわゆるクレッチマーの分類法である頭脳型、身体型、内臓型に対応していますか?つまり、性格のタイプは人間の体型と不可分である、ということになるのでしょうか。
答え:ええ、もちろんです。これは全てに言えることです。肉体とは全く無関係な魂の流れというものはありません。肉体はその人の魂の流れが具体的な形で現れたものだからです。他にもこのような関係が成り立つものは数多くあります。
質問:ある人に対しては感情的に反応し、別の人に対しては意志力を使って反応する、ということはできますか?同じ人が相手によって反応を変えるかどうか、という意味なのですが。
答え:もちろんです。ですが、それには相応の理由が必ずあります。この道を歩む人が自らの中に、あなたが今おっしゃったような現象を認めたならば、「なぜ自分は特定の人物に対して普段とは違う反応をするのだろう?」と自らに問うべきです。その中にも、答えはあるはずです。自己観察にとっては、あらゆる現象が大変重要なのです。
質問:完全に浄化することができたら、その3つの側面の強さが均等になる、と考えてもいいのでしょうか?
答え:その通りです。
質問:これらのタイプのそれぞれの性質について、誰もが同じように発達させることができる潜在能力を持っているのでしょうか?
答え:いいえ、これらは基本的なタイプであるということです。聖なるスピリットはどれも完全な状態で創造されましたが、それと同時に、それぞれが個々に違う才能や性質を備え、独自の性格を持つようにも創られています。もちろん、その流れが配分される際には不調和はありません。たとえば、能動的な力を司る最も高次の天使の行動には一切の不調和はありませんが、未浄化の人間が過度に能動的な力を行使している場合には、その人の内面の調和が乱されているというわけです。天使は、その独自のやり方において完璧で、その行いにおいてはスペシャリストなのです。そこには、何かが強すぎるという不調和が生じる可能性はありません。私が今夜お話ししたこれらの3つのタイプを代表する高次の存在にとっても同じです。理性タイプの人格における完全な姿とは、叡智の天使だと言えます。同じように、感情タイプの人格の完全な姿は、愛の天使です。そして、意志タイプの人格の完全な姿は、勇気の天使です。
質問:3つのバランスが取れているのが理想的ではないのですか?
答え:確かに理想形はバランスが取れていますが、だからといって、すべてが均等の割合で配分されているということではありません。バランスと調和とは、必ずしもそれぞれが均等であるという意味ではないからです。どのように配分されたのかというその方法によって変わります。また、原因と結果においてそれがどう働くかによって変わります。そして、ひとつの流れがいかにもうひとつを強めるかによって変わります。一方で不調和の中にいる、浄化できていない人に見られるように、ひとつの流れがもうひとつを弱めてしまうということは起こりません。以前私は、「創造」についてみなさんにお話ししましたが、それを読み返せば、神が個々のスピリットをそれぞれ完全な形でお造りになったことが分かるはずです。考え方としては、それぞれのスピリットは、自分に与えられたパワーと創造のエネルギーを使って自分自身を完璧なものにするということです。つまり、どれかひとつの特別の在り方においてのみ完璧であり続けるのではなく、すべての在り方において自身を完璧なものにする、そのようにして神に近づいて行くのです。ところが、多くのスピリットたちがそのパワーを間違った方法で使ってしまったために、堕落が生じたわけです。もしもこの堕落が起きていなかったら、すべてのスピリットがあらゆる点で真に神聖な存在となり、どれかひとつ特定の側面においてのみ突出して専門的になることはなかったはずです。完全性へと至るこの創造のプロセスは今も続いています。堕天使たちが再び本来の完全な状態に至り、神の尊い救済計画が見事に終了するまで、これは今後も続いていきます。それまでは、真に浄化されたスピリットたち、つまり堕落に関与しなかったスピリットと、すでに本来の姿に戻ったスピリットが自分たちの創造活動をある程度休み、この救済計画の成功のために力を出し合います。彼らにとってはこの偉大なる計画に協力することで、間接的にではあるけれども、自らの創造活動を行っていることになるからです。
質問:意志、思考、感情の他にも、タイプはありますか?
答え:はい。いくつかは、以前にお話ししました。別のタイプについては、今後触れていくつもりです。
質問:よく分からないのですが、どうして勇気の天使が意志タイプの完全な姿なのですか?まったく、見当もつかないのですが。
答え:勇気を持つためには、ポジティブな意味で、とても多くの意志が必要です。これでもお分かりになりませんか?他にも分からないと思う方はおられますか?それでは、勇気と意志が結びつかないと感じる理由を説明してくれませんか?
質問:たとえば、私の周りには意志の力がないのに勇敢な人がたくさんいます。
答え:それは今までの話とは無関係です。本当はとても感情的な人でも、その感情を覆い隠しているために、表面的には極めて冷たい人に見える場合もあります。意志の力が無いのに勇敢な人の場合は、完全な特質が眠っている魂の奥の方から、そしてまた何らかの外的な出来事に呼応し、自分には意志の力があるということを自分にも他人にも証明するために、この勇気が呼び起こされているのでしょう。
質問:恐れから生じる勇気もありますか?
答え:もちろんです。ポジティブな特質は、ポジティブ、ネガティブのいずれの流れの中からも生まれ得ます。そこが、人間の魂の複雑なところです。簡単に理解できることではないのです。どんな資質でも、その純粋な背景に加え、ネガティブな傾向によって刺激をうけます。欠点についてもこれと同じことが言えます。欠点はある特定の資質によって影響をうけますが、間違った経路の中を知らないままに流れています。けれどもその真の意味においては、ポジティブで完全なやり方で意志が拡張すると、自然な形で現れ、勇気になります。意志と勇気の両方が活発に動いていることが求められます。意志の中には必ず、強い能動的な流れが存在しています。意志はしばしばネガティブで自己破壊的に使われることがありますが、これはまた別の話です。また、人格において他の部分がバランスを失っているがために、意志の力の基づいて生まれながらに備わっている勇気が機能しないことがあります。けれどもこれもまた、意志と勇気の関係の原則とは無関係のものです。魂の流れが混ざり合ってしまう場合にあり得るたくさん可能性について話しているのではありません。それは、意志が折り曲げられて機能せず、ゆえに人生のある側面でしか意志が現れなくなる場合です。しかし、意志には ポジティブなものであれば、ネガティブなものであれ、能動的なプレッシャーを与えてやる必要があります。意志には、何らかの行動が不可欠なのです。浄化された状態では、それは勇気として現れます。未浄化状態でも意志が勇気として現れることもありますが、その勇気は間違った目的に使われます。勇気には必ず行動が伴います。そこに居る、存在するというだけでなく、前へ前へと突き進む精神、行動の精神の中に勇気は現れます。これはたとえば、愛する場合も同じです。理解できますか?
質問:私たちが歩んでいるこの浄化の道において、自分を見つけるという過程において主には知性が優勢な人が、他の2つの流れをも強めていくことができるのではないかと思うのですが。
答え:必ずそうなります。それが、浄化のプロセスだからです。お分かりだと思いますが、それがこの道にあり方です。意志の力が機能していないにも関わらず、何らかの状況では勇気を示す人は、一見、理性タイプのようですが、実はまったく違います。元々は感情的なのに、感情を恐れ、本当の自分とは違った仮面(マスク)を被っているのです。こうした人は、魂の中の不調和を正そうとする前に、まず本当の自分とは何なのかを見つけ、ありのままに自分に誠実でいることから始めなければなりません。また、これとは別に、明らかに理性タイプに見える人が実際にもそうだ、という場合もあります。この人は、自分の資質を調和させることを学びます。さらなる自己探求と浄化の過程において、理性が「調和的に機能するのは阻む恐れという幻想を完全に消し去ることで、理性が適切に機能するようになるのです。その人が理性タイプであることは変わりませんが、自分自身が持っている他の能力を阻害することなしに、より調和のとれた、完全な方法で理性を使うことができます。他のタイプの人の場合にも同じことが言えます。本当に自分であり続けながら、他の能力を損なうことなく、また、自分の生き方を偽ることもないのです。さて、親愛なるみなさん、次の質問に進みましょう。
質問:ヨハネス・グレーベル*の著書の中で、霊的な成長の唯一の手段は、霊媒(mediumship)などの他、何らかの形で霊とコミュニケーションを取ることだと言っています。一方、人は自分の内側に存在し、すべての叡智を包含する神性とコンタクトすることができる、と説くものもあります。どちらが正しいのでしょうか?また、どちらにしても、どうしたらそれができるのでしょうか?
答え:もちろん、みなさんの最終的な目標は、自己の中の神性に気づくことです。この点に疑問を挟む余地はありません。ですが、この最終目的にたどり着くには、何らかの助けが必要となります。多くの場合、神の世界と交信することが、その助けを得るのに最も適した方法となります。このコミュニケーションはとても複雑で、相応の危険も伴います。ですが、これが完全に確立した場合、みなさんの聖なる輝きを邪魔するものをすべて取り去るのに、この方法よりも優れたものはありません。もちろん、これが唯一の方法だと言っているわけではありません。あなた方人間の中にも、この手助けをしてくれる先生がいます。いつの時代にもそのような素晴らしい先生がいます。また、現在あなた方には別の方法もあります。それはあなた方が深さ分析と呼ぶもので、魂を癒す医術です。これは今のところ正しく活用されておらず、霊媒の中で誤用され、発展できないままになってはいますが、だからと言ってこれが間違っていることを意味するわけではありません。医師が知ろうが知るまいが、究極の目的があるのです。霊界と交信する目的は、自己の神性に気づくというただひとつだけで、他にはないのです。だから、交信のためのチャネルが十分に浄化されるまでに、みなさんの霊媒能力がどの発達段階にあったとしても、その目的は変わりません。創造、神、宇宙やさまざまな領域で何が起こっているのかについて、その事実を学ぶことはあくまで二義的なものに過ぎません。今、私がこのようなお話をしているのは、みなさんが「人は何故生きているのか」、「どうして霊的に成長しなければならないのか」といった疑問を解決し、聖なる輝きへの到達を邪魔する何かを乗り越えるための手助けやきっかけを与えたい、と願っているからです。あらゆる教えや宗教について考える際には、常にこの視点を持ってください。宇宙の真実を知ることは、あくまでこの助けやきっかけのであり、最終目的ではありません。目指すべきゴールは自己発見と自己浄化です。これを通じて初めて、みなさんは自分の内側にある聖なる輝きにコンタクトすることができます。そうでないと、聖なる輝きはぼんやりとしたものになり、信頼に足るものにはなりません。そして、人間の中にある神聖とは何の関係もない潜在意識下の欲望と容易く混同されてしまいます。ただし、神性にコンタクトすることがすべての人間にとって一番いいということではありません。もしかしたら、人によっては、別の方法が適している場合もあります。何が適しているかは、個人の性格と成長の度合いによって決まります。ただ、いずれにしても、みなさんがこの地球上で生きる理由はただひとつ、自己発見と浄化です。そのために役立つ方法は数多くあります。もしもあなたが神の世界と交信できるという恩恵を授かっているのなら、これが人生の真の目的を遂行するのに一番適した方法だと言えます。というのも、神の世界と交信することが、自己発見の道を歩む方法を知るのに最も直接的で早いやり方だからです。ただ繰り返しますが、もちろん他にも方法はあります。
質問:霊な概念の中では、聖母マリア様の役割はどのようなものなのですか?
答え:あなた方が聖母マリアと呼ぶ女性のスピリットは、とても高度に発達したスピリットで、堕落に関わったことがありません。イエス・キリストの誕生は、不純なスピリットからでは絶対に起こり得ませんでした。このスピリットの純粋さが処女懐胎という誤解へと至らしめたのです。私はよく言うのですが、さまざまな宗教における間違いの一つひとつには、必ずそれなりの理由や背景があります。スピリットとのコミュニケーションを通じて、人類はイエス・キリストの母が純粋なスピリットであったことを知りました。純粋であるという点に間違いはありません。ですが、このとき人びとは、この純粋さは性的側面においての純粋さだと思い込み、肉体的に処女のまま、キリストを生んだのだと勘違いしました。こうしてこの誤解が作り出されたのです。地球上に暮らす人類の多くは性的な力を誤用しているため、性は不浄だと考えていますが、これは正しくありません。イエス・キリストの母は当時も今も浄化されたスピリットですが、それは受胎が起こったというその事実とは全く無関係なのです。他の受胎と同じことです。神がお定めになった法は完全です。たとえ、そのうちのいくつかについて人類が勘違いをしているとしても、その完全性が損なわれることはありません。つまり、神がその法を自ら覆すような必要はどこにもないのです。いいですか、みなさん、真実は常に中庸にあります。中には、イエス・キリストの母は処女でなければならなかったと言う人がいます。そしてこれを否定することは、神への冒涜だと言います。けれどもこれは、性的なことはすべて不浄であるという間違った考えから来ています。またその一方では、これを受け入れられない人にとっては、その反対の極論へと至り、イエス・キリストの母のスピリットの純粋さだけでなく、キリストが神の子であるという点をも否定する者がいます。彼らは理性を超えたところにあることを受け入れられないのです。彼らには、その両極の間に存在する真実が見つけられないのです。
質問 誠意を持ちながらも神の法則を破る場合と、破るべきではないと知っていながら破る場合とでは、導かれる結果は変わりますか?それとも同じですか?
答え:もちろん、結果は変わります。誠意を持ちながら法を破る場合、自分が破っていると知っていながら破る場合とでは評価がまったく違います。ここで、みなさんに言っておきたいことがあります。みなさんの中にはあらゆる知がすでに存在しています。だからこそ、みなさんは真実の一部を今でも理解できるのですが、実はこれが多くの人がこの道を進んで行くことに抵抗を感じる理由でもあります。「真実を知れば知るほど、変わらなければならないという責任が大きくなる。知ることから自分を守れば、今のままでいられる。その方が居心地がいい」とあなたの中の何かがささやくのです。これが、みなさんが抵抗を感じる大きな原因です。ここにさらに、自分への誠実さの欠如、つまり抵抗の動機となるものが、無意識的か半意識的に加わります。多くの人にとって、自らの抵抗とその真の理由は、調べさえすれば明らかになるはずです。抵抗する人は、ありとあらゆる口実を使い、それを理路整然と説明して自分を正当化しようとしますが、実はただ単に自分が変わりたくないだけなのです。
親愛なる友であるみなさん、今この瞬間にあなた方のハート、魂、存在全体に浸透している愛と力という恵みを受け取ってください。あなた方は神の中にいます。そして、神もあなた方の中にいます。それを忘れないでください。両手を高く挙げ、神の元へと伸ばすのです。神はみなさんが霊的に未熟な子どもの時期から抜け出し、霊、力、愛を育み、強く自立した神の子となるための第一歩を踏み出すのを心待ちにしています。みなさん、互いに愛し合い、理解し合うことです。他人に対する恐れという壁を取り除くのです。壁が存在するべき理由はどこにもないからです。あなたがもし他者を恐れているのなら、他者もあなたを恐れている、と知るのです。人との間の違いに対処したいと思うときには、このことを常に心に置いておきなさい。そうすれば、神は必ずあなた方と共にあることでしょう。どうぞ、この道を進み続けてください。ときには、一歩前進するたびに、何らかの危機や困難の中に一時的に陥ることもあるかもしれません。ですが、それはすべて、あなた方自身の過ちが作り出したものに過ぎません。このような視点で問題を見ていけば、必ず勝ち誇ったようにここへと抜け出してくることができるはずです。
みなさんが祝福に包まれますように。神の御名の下に、イエス・キリストの名の下に、みなさんが平和でありますように。主の中にありますように。
* ヨハネス・グレーベル:1920年代にドイツで心霊術者となった元カトリック司祭
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レクチャーを提供される側は、複製と配布のための費用のみを支払うこととします。The Pathwork Foundationのサービスマークまたは著作権で保護された資料を使用する任意の個人や組織は、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーを遵守することに同意したものとみなされます。これに関する情報またはこのポリシーを入手するには、The Pathwork Foundationにご連絡ください。Pathworkという名称の使用は、The Pathwork Foundationによって承認される変容のプログラムを修了したファシリテーターとヘルパーにのみ許可されています。
日本語版の取り扱いについて
Pathwork in Japan (パスワーク・イン・ジャパン) の許可なしに、無断でコピー(複製)、貸与、頒布、販売することを固く禁じます。また、文書およびインターネット上(ウェブ、メール)での引用・転載を含む公開も禁止します。
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