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Pathwork Guide Lecture No.1  「生命の海」道を歩むための条件
THE REQUISITES OF THE PATH: THE SEA OF LIFE UNEDITED版 1957年3月11日

 こんばんは!愛しい者たちよ、皆さんに神の祝福をお送りいたします。我々霊的な存在にとって地上の人の生命を象徴する物質や形は、皆さんが思い描くものとはまた少し違っています。我々にとって人々の生命は海や海洋であり、それぞれの人生は船のように見えます。人もまたこのようなビジョンを、多くの場合では夢で見るのではないかと思います。この生命の海はさまざまな側面を見せてくれます。嵐のように空が灰色だったかと思えばふたたび太陽が輝き、海は次の嵐までは落ち着きを取り戻します。船が目的地に到達するまでこうして繰り返されます。目的地は岸であり、それは人の故郷である霊の存在の世界です。つまりすべては人がどれくらい上手に人生を導くことができるかにかかっています。中にはよく訓練され、経験豊かで、技術力の高いキャプテンもいるでしょう。危険を恐れている暇などないといった人達です。嵐の中も上手に船を先導し、海が穏やかな良い時期には次の嵐に備えて力を蓄えます。また中には、嵐が吹きすさぶと神経質になり、内なるコントロールを失う者もあります。しかしまた別な人では、あまりの恐怖に自らの船を運転することすらせず、生命の海に漂うがままにし何も獲ない者もあります。すでにお気づきとは思いますが、こうした悪天候や雷を伴う嵐、ハリケーン、厚みを増す雲などは人が経験しなくてはならない試練、つまりテストです。すでに訓練を積み繊細さを多少なりとも合わせ持った人では、人生の船がどの方向に向かって漕がれているのかを明確に感じることができます。

 試練ついてお話ししましょう。家族であれ、他のどのような人の集まりであっても、グループの中には最低でもひとり、成長の段階があまりに低いために闇の力に動かされる協力者がいます。この人が完全なる悪人である必要はなく、霊的な法則がいかに自分の人生に効力を持っているかに気付こうとせず、この法則を利用することをせず、良い面も持ち合わせているにも関わらず自分に正直になる努力をしないという事実があるだけで闇の協力者となるにはじゅうぶんなのです。闇の世界は霊的な法則を軽視した結果生じる人の内にあるこうした自己規律や自己認識の欠如という要素を、人の波動の中から引き出します。この要素は糸のようなもので、細く、光線のような糸で編まれ(ここで挙げている例では暗い色と感触をしています)、結ばれ、もつれており、このもつれを解くのを酷く難しくするような混乱が起きるまで続きます。こうした混乱に貢献するのはこの人だけではなく、グループにいる他の人も自分の中の間違いや弱さ、霊的な法則に従っていない部分から生じる要素をこの混乱に投げ込みます。糸はどんどん紡がれ、より進歩的な人々でさえ一目見ただけではそこに潜む真実を見抜くことができないところまで続きます。こうした場合、状況から真実を掘り起こすには大きな努力を要することが多いといえるでしょう。

 より多くの霊的な気づきを求める人々にとってこうした試練への遭遇が非常に難しい理由は、闇が独自の裏技を使って嘘が真実に、真実が嘘に、良きものが悪いものに、悪いものが良いものに見えるようにするからです。正しくありたいと思っていても、人はこれに混乱します。どのようにしたら正しく振舞えるのか分からなくなってしまいます。多くの場合、本人が気づいていない内側の病んだ波動が試練である混乱に油を注ぐだけでなく、状況の全体像を明確に見ることを不可能にしてしまい、その結果どう振舞っていいのか分からなくなってしまいます。暗い雲を払い、真実に気づくためには霊的な知恵を自分のレベルや能力に応じた正しい形で発達させることが必要です。なぜならもしこの作業をしなければ、ふたたび無意識にということではありますが、闇の力の協力者となってしまい、嵐に翻弄されてしまうからです。こうなると自分の船のコントロールができなくなってしまいます。少なくとも本領発揮ができません。問題の核は何であるのか、霊的な恩恵を得るためにはどうする必要があるのか、また何を切り捨てることができるのかなど、暗い雲を払い、真実に気づく作業は一人では成せません。この道を歩むことによってのみこうした作業が可能になるのであり、最も困難なときでも、どんなに強風が吹きすさぼうとも、どのようなときでも瞑想をする自己規律を身に着け、神や神聖で霊的な力との接触を確立し、真実から生じるインスピレーションを吸収し、自分の中にあるすべての欠点を観察し、抵抗に打ち勝つことを学ぶことではじめて可能となります。

 霊的な法則は三種の異なるレベルにおいて実践されるべきです。人の成長の段階が高いほど、霊的な法則の浸透はより深いものになります。(1)行為や行動において(2)思考において(3)感情において。感情のレベルが最も高いレベルであり、実践が最も難しいでしょう。なぜなら感情とは多くの場合では無意識であり、これを意識に上げるには労力を費やす必要があり、意志の力や忍耐が必要だからです。行動や思考と比べて感情のコントロールは即席では成せず、退屈なまでに長引く心理的かつ霊的な作業や自己分析が求められ、霊的な法則を吸収することによってゆっくりと変化を見せ始めるものだからです。

 成長の段階が低い人では、霊的な法則への理解や従順は表面的なものになります。はじめに神は人々に人間の行動について触れる十戒を与えました。「盗んではいけない、嘘をついてはいけない」などです。当時の人々にとっては十戒だけでもすでに大変なことであり、当時存在した低い次元や領域から転生した特定のグループにとってはこれだけでも大きかったのです。次のステップで人は、自分自身の思考を洗練させることを求められます。大抵の場合人は正しく行動はするのですが、思考はそれとはまた別に機能しているからです。正しい行動をしなければ周りとの間に摩擦が生じることが分かっているからというところがあります。しかし思考をコントロールするのは簡単なことではありません。人は思考の内で霊的な法則に則っていない事を望みます。すべての思考や感情は霊的な形や物質を持っています。そのためそこには連鎖反応が伴います。人がこうした結果を瞬時に予見することはなかったにせよ、自分の中の不純な思考や感情が摩擦へと繋がることを当時の人々は理解していませんでした。こうした先見や洞察には霊的なビジョンが必要であり、これらは成長の結果もたらされます。こうして霊的な法則や戒めを拡大するためにキリストが、思考にも罪があると説く教えをもたらしました。キリストの時代の人々ではすでに、さらなる拡大や深さへと心を開き始めていました。

 思考を洗練させることが最も難しいということを踏まえると、正しい行動をすることで霊的な法則にどうにか従っている人々と比べて、それより上である二つ目のレベルにある人達はすでに非常に有利だと言えるでしょう。ただし皆さん、自分自身の真の感情に触れるためにはより深く自らを掘り進まなければなりません。真の感情は多くの場合では無意識の中に残されており、とても容易にそして頻繁に甘やかなで自己欺瞞的な口実という表面で覆われ、回復不能なほどの内的な葛藤に繋がります。こうした内的な葛藤は当人が葛藤の真の根幹に気付こうとしない場合には周囲との葛藤にも発展します。こうした形で思考を浄化することは非常に骨の折れることであり、このステップに到達することができる人は多大なる努力を費やした人です。同時に、これらのステップはすべて大いなる努力と自己規律によってのみ獲得が可能です。向こうから自然とやってくることはありません。あちこちにある自分の感情が思考や欲求から逸脱していることに気付くことは、そう簡単なことではありません。それでも、この自己規律こそが神がひとりひとりの人間に求めていることなのです。もちろん、自己探求を深めていくこの最終ステップを習得することは最も難しいことです。しかしこれが、皆さんが到達を望むゴールです。これが真の浄化なのです。内なる感覚を意識に上げることができる人は、こうした感覚は必ずしも自分の思考が真実と認識する事柄と平行するものではないという事実に気づこうと積極的です。こうした人々はすでに多くを達成していると言えるでしょう。この作業を継続的に行うもののみが、時間をかけて熟達し、重い雲を払うことで問題から立ち上がる真実へと突き抜け核を見出すことができます。こうしてひとつまたひとつと結び目が解かれていきます。虚構が打ち勝ちがたい障害として立ちはだかる自分自身の内面と、勇敢に何度も対峙できる者だけが、他者や外的な状況の中にある真実を見ることができます。自分自身に盲目である者は、他者に対しても盲目です。

 こうした結び目や絡まりは、霊的な形にも表れるのですよ、皆さん。人々が形成するすべてのグループや集団にこの現実を見て取ることができます。こうした絡まりはどこにでも存在し、闇の力から生じるさまざまな糸から紡がれています。すべての人がこの絡まりに貢献していますが、大抵その中でもひとりの人が特に多くを投じ、結び目を生み出し、より強固にし、混乱を拡大します。もしも集団の中にひとりでも、この高く、直接的な霊的な道を歩む人がいるならば、日々新たな自分を知る作業をする者があるならば、もちろん一夜漬けにではありませんが、この人は絡みのない状態へと、すべてがすっきりと明確になるまで、ゆっくりとひとつひとつ結び目を解くことができます。つまりこの人は、もうこれ以上、自分の成長のプロセスに有害で負担である自己欺瞞を続ける必要がなくなるのです。もちろん、作業を始めたばかりのころには、弱い人では自己認識に抵抗するでしょう。なぜなら混乱はローアセルフを満たすものであり、ローアセルフは最も楽な方法、虚構の、自己欺瞞の道を好み、多くの場合は不協和音において栄えるからです。

  しかし少し経つと、自分は暗い雲に執着しているにも関わらずそれが人生から姿を消したときにこの弱い人間は、解放された感覚を味わうことになります。曖昧な状況が本物の真実に置き換わってはじめて、何が正しい態度なのか、何が正当なのか、何が正しい行動なのかという疑問が消えます。

 すべての人は次のように自問ができるほどじゅうぶんに自分のことが分かっているでしょうし、少なくともそうあれるように努力をするべきです。「神の救済の計画の一部となるために自分には何ができるのだろうか」と。多くの人々にとってこれは人前での活動を意味しないでしょう。それでも、どんなに小さくとも、それぞれの人が神の救済の計画の一部となることができ、またそれを始めるべきです。この救済の計画の中ですべての人はタスクを持っています。最も弱い人間でさえそうなのです。こうした人々にとって、この転生において他者と対等なバランスを見出すこと、自らの行動を神の法則に適合させること、自分の中で最も低い欲求を抑制することなど、ひとつ欠点を克服することは大きな業績です。他の人ではより多くを自分に求めることができます。それでも、それぞれが自分にとって最も難しく、最大の自己規律が求められことに向かって取り組まなければなりません。自分のレベルや強さに合わせた許容量の中で、自身を浄化し成長するのです。

 より成長が進んだ人々においては、この浄化のプロセスは自動的に周囲にある結び目を解き、混乱した状況を整頓する能力へと直結します。これにより過去の悪行を整えます。そしてこれは神の救済の計画の一部を担うことに繋がります。そして神の救済の計画においては、ひとつひとつのこうした貢献はとても大きいのです!皆さんそれぞれがより多くのタスクを自分の内に見出すことができるのではないでしょうか。すべての人は幸せになることを望んでいますね。もちろんそうでしょう。我々はこのことを理解しています。もし幸せになりたい、完璧でありたいという憧憬が人の魂の内になければ、霊的な成長はありません。しかしここで次のように考える者は少ないでしょう「私は何を与えることができるだろうか。神の救済の計画に自分は何を貢献できるだろうか」と。直接的に望みが叶うように、もしくは幸せになれるようにと祈るわけではないにせよ、人はただ受け取ることを望み、身勝手さや情動、そして時には思考においてでさえ、受け取ることだけを望んでいます!最善を欲し、人生の問題を不幸せと感じているのです。

「神よ、私はあなたに何ができるでしょう」と聞いたことがかつてあったでしょうか。最終的な目標として幸せを求める者は(人は無意識にそう望むわけですが)、霊性の持つ生命力の循環をさえぎってしまいます。そして生命力はさえぎられた途端に死んでしまいます。こうして望んだことが成就することがあったとしても、そしてそこから得る何かしらの利があなたにとっての究極的な目的であったとしても、それはあなたの内で育つことはできず、長期的に見てあなたを幸せにすることはないでしょう。生命力の循環が活動的に流れるままにする者だけが、つまり常に自分が受け取る助力や恩寵、幸せや成就、神聖なる介在やガイダンスを霊的に使い、神の救済の計画に捧げようと絶えず望み、意識的であり、そして行動と思考を沿わせようとする者だけが幸せを維持し、幸せを生きることができます。

 こうした振舞をする人々は真に神聖な法則の一部であり、こうした人々の幸せは決して浅はかになることも、枯渇し絶えることもなく、常に鼓動し、絶え間なく活動的に己を更新します。さらには、こうした人々だけが特別な助けや介在を得る価値があるのです。そうです、皆さん。こうした考え方にはほんの一握りの人間しか気づいていません。他の人々は神に祈りはしますが、何かを欲し、要求はしますが、神の世界におけるこの非常に重要な戦いに、捧げものとして何も自分から与えようとしません。考えてもみてください!お話ししたような形で神に接するとき、結び目を解くためのより多くの悟りや助けを受けることができ、嵐の中でも人生の船を安全に運転する強さがそこには加わることになります。自分自身が行く道は、あるべき形で強化され啓蒙されます。

 さて、質問に入る前にもう少しお話ししておきたいと思います。よく起こることなのですが、霊の世界と接触ができる恵まれた人が霊や霊との関係性を間違った形で試そうとするのです。もちろん人は霊を試しテストする必要があるのですが(以前に方法を説明しましたね。霊の領域を知り、慣れるための時間と労力をかけなければならないとお話ししました。なぜなら何も知らない、もしくはほとんど知らない何かを試すことはできませんし、霊の領域という複雑なものであれば特にそうだとお伝えしましたね)。また、霊をオープンな形で、心の開いた形で試さなければいけないとお伝えしました。ひねくれたやり方や、こそこそと秘密めいた質問を投げかけるのではないということです。この霊の領域にはいくつかの決まった法則が存在しており、こうした法則は一度しっかりと考えを巡らせていただければその存在の有無は明らかではないかと思います。しかし人は時にじゅうぶんに深く考えることなく、霊との接触というこのテーマを間違った概念で扱います。我々がよく気付くことなのですが、人々はここへ具体的な考えを携えてやって来るにも関わらず「もしも霊が本当に存在しているのなら、声に出して質問をせずとも答えることができるだろう」と推測します。もしくは似たようなことですが、公にできる質問ではないという理由からではなく、単に霊を試してみたいというだけの理由で声に出して質問をしないことが頻繁に見受けられます。もちろんご存知のように、実際に投げかけられたわけではない質問が答えられることもたびたびありますが、それは霊の存在を証明する目的や、霊と人との関係を示すために成されることではありません。皆さん、これはいけないのですよ、神の霊の世界は決して試されることを許しません。こうしたことは私がお話ししたような本物の試し方ではありません。以前に本物の試し方がどのようなものなのか、提示したはずです!私が霊の試し方を提示した理由は、たとえば、悪の霊がこうした思考的な質問に答えることで人をその巣に捕らえてしまうこともあるからです。神の霊の世界はその存在の証明を強制されることを許しません。人が自己規律やその他の利点によって神聖な霊の証拠を得る価値があるとされるとき、必要とする量を大きく上回った形で、じゅうぶんな証拠を我々は与えています。そして皆さんの中には、必要以上の証拠を受け取っていると快く教えてくれる方もありますが、誰に、いつ、どのような形で証拠をお渡しするかは神の霊の世界が決定します。大抵の方は証拠を受け取る資格を有していますが、無知な形で証拠を求めている少数の方々は、彼らの入り組んだ質問に対して答えを得ることはなく、証拠は後になって、予想外の形で、まったく期待していないときにやってきます。とはいえ、求めていた証拠であることには変わりないのです!

 こうした霊との関係性は人が受け取ることができる最高の贈り物であることに気づくべきです。関係性を築くために人が神に施しをしているという意味ではなく、神がこうした贈り物を人にしているということです。新たな段階に入るたびに第一歩を踏み出さなければならないのは常に人の方であり、それに従って助け、インスピレーション、力、そして同時に人の信念や信頼を強めるために証拠が与えられます。しかしここでも言えることは、人は謙虚で、忍耐強くなければならないということです。人は神に自らを委ねなければなりません。そして常に自分がさらなる証拠を得る価値のある人間であるかどうかを自分自身に問うことができなければなりません。なぜならしばらくすると、証拠には何か不思議なことが起こるからです。ある意味では証拠は忘れ去られ、曖昧にどこかへ漂っていってしまい、形を失っていきます。内なる気づきがよく浸透してはじめて、その人自身の成長によって、人は絶えず新たな証拠を必要とはしなくなります。

 私がお伝えしている言葉をよく聞き、学んでいただきたいと思います。ここにいらっしゃるすべての方に多くの利となるものが、ひとつひとつの言葉に含まれています。さて、ご質問があればどうぞ。
質問:人は神に決して特定の望みの実現を求めてはならず「今この時点での霊的な成長に合った何かを送ってください。必要な力をお与えください」と伝えるべきだということでしょうか。具体的な望みを決して持ってはいけないのでしょうか。

 回答:具体的な望みというものが何であるかによります。たとえば、この霊的な道を歩むための強さや気づきを求める、人生を正しい形で生きることができるよう強さを求めるといったことも具体的のものですね。もしくは、自己を探求する中で自分の欠点や抵抗、それに関連した虚構に心を開いていくにはどうしたらいいか知りたいと望むかもしれません。自分自身や周りの人々の真の姿を捉えるために自分に正直になりたいと思うかもしれません。無意識にある感情的な反応が意識に上がるために助けを求めるかもしれません。この道を歩むための意志の力を求めるかもしれません。人生の細かなところにまで現れている神聖な意志に気付けるようにガイダンスを求める必要もあるでしょう。神の言語やサインを理解できるようにとお願いする必要もあります。こうしたものすべても、具体的な望みです。

 ただし、ただ祈るだけではじゅうぶんではありません。本当に心を開かなくてはいけません。自分が捧げる祈りへの神の答えに気付けるように、自分の内部の意識のすべてが注がれていなくてはなりません。そうすれば地球上で起こり得るすべての問題は解決できるでしょう。しかしこの姿勢ありきなのです!そうでなければいつまでも解決はできません。自分自身の霊的な成長の状態に問題の核があるのだと気づくまでは何度も同じような状況に躓きます。そしてここで捧げるべき祈りとは「天の父よ、あなたに奉仕するにはどうしたらいいかお示しください」というものです。これが皆さんの祈りのあるべき姿です。

 質問:今お教えいただいた部分で私にはまだ、学ぶべきものがあると感じます。

 回答:そうですね、愛しい魂よ。あなただけでなく皆が、このことに関して学ぶことがたくさんありますね、本当に、皆さんです!

 質問:もしも両親や子供たち、友人や、夫そして妻など、親しい関係の者と身体的な死によって関係が断ち切られてしまうとき、一般的に言ってそう感じられるとき、別の世界でこうした人々や存在たちとふたたび一緒になる希望は持てるものなのでしょうか。

 回答:もちろんです!こうした関係が断ち切られることは決してありません。片方が地上に残されている間にかぎらず、霊の世界でも片方がまだ特定のレベルや状態に達しておらず、もう片方と同じ領域にいないといった場合など、特別なケースでは関係が一定期間中断されることはあるかもしれませんが、あくまで一時的なものです。こちらの霊の世界では時間という要素は皆さんのそれとは違っています。愛の結束が人の間に存在するとき、そうした結束は霊的なものであり不滅ですから、断ち切られることはないのです。朽ちるのは地上のものだけであり、愛の結束以上に強く不滅なものはありません。分解して消えることはありません。愛の結束は実際にそこに存在するものであり、魂同士がふたたび愛のもとで出会うためにそこにあるのです。

 質問:意識と呼ばれるものが人の世界と霊の世界の両方に存在しているものなのかどうかお聞きしたいと思います。もしかすると人の世界の方が少ないのではないでしょうか。

 回答:こうだとかああだとかは申し上げることができない内容です。なぜならこれは完全に成長のレベルによるものだからです。平均的な人間よりも遥かに意識の度合いが低い霊的な存在もありますし、反対にすでに神聖な法則に身を浸しているスピリットを持った人もあります。こうした人ではほとんどの人と比べて遥かに高い意識の度合いを持ち合わせています。たとえばあなたのグループにいる人が霊の世界に分け入るとしましょう。体という物質を去った途端に意識は自動的にそれ以前よりも高いものになります。体のある今の時点で無意識のものは、あなたが体を去るその瞬間に意識へと上がります。100パーセントすべてがそうなるわけではないかもしれませんし、成長のレベルにもよりますが、物質という密度で重荷を抱えた状態と比べると、程度に差があるにしても、より意識的になります。

 無意識を意識に上げることがどれだけ重要であるかがよりお分かりいただけるのではないでしょうか。無意識を意識に上げることで体を去る際の「不快な驚き」が起こることがなくなるからです。そしてこの質問によってとても重要な点に触れたことになります。というのも、意識の度合いは成長の尺度でもあるからです。動物よりも植物の方がもちろん意識が低いでしょう。動物は人間よりも低いわけです。そして人がより成長を遂げれば、自分の感情面をよりよく釈明することができます。つまりこの人は感情に流されるのではなく、より意識的に、本当の意味でより真に生きることになります。

 質問:たとえば愛は比較的高いレベルに達しているけれども、その他の要素はそうでもないという、成長の段階の低い人がいるとします。こうしたスピリットを持ち合わせた人では、愛以外の部分の成長が愛と比較して低いために愛する人と出会う時期は延期となり、待たなくてはならなくなるでしょうか。

 回答:まずひとつに、あなたがおっしゃっている通りではありません。少ない言葉でご質問に答えることは難しいですね。なるべく明確にお答えできるように努めます。よくお話しすることですが、人というものは異なる部分でそれぞれの成長を遂げるものです。調和的で、均等な成長を見せるのは最も高くにある存在たちだけです。人が持つこの不調和ゆえに人は成長の必要があるのです。すべては考慮され、それぞれの状態に必要なことが与えられます。ですから罰を受けるという言葉は正しい言葉ではありませんが、神の法則には欠陥がありませんから、その法則に従って成されるべき結果がもたらされるわけです。つまり少なくとも、他者との組み合わせに関しても、成長が足りていない部分に合わせてすべては首尾よく結びつけられることになります。ただシンプルに、方程式によってはじき出されます。とはいえ常に全体を考慮する余地は残されていますから、方程式はこうだとかああだとか断定することは決してできません。人の場合と同じですね。場合によって違います。

 たとえば、もしそこに真の愛が存在しているとしましょう。これは大切なことであり、多くの賞賛に値します。もしかすると全体的には理知的に先を行っているけれども愛のない人と比較しても、成長が劣るといったことはないかもしれません。もちろんここでの愛は本物で純粋なものであることが前提です。しかし全体的な成長の段階が低いかぎり、愛は純粋でも本物でもないことが多いでしょう。なぜなら不純な波動が愛の部分を汚染してしまうからです。こういった場合には、愛の可能性はあるものの、完全には機能できない状態であると表現する方が適切でしょう。こういった場合の愛は自己中心的で、自分自身に向かっているか、もしくは病的なものです。そしてもしも片方の魂、もしくは両方の魂にとって霊の世界でしばらく出会わないことが最善となる場合でも、言葉が正しいかどうか分かりませんがこれは期間限定のことであり、罰として与えられるわけではありません。なぜなら少しでも霊的な見方ができるのであれば、双方共に何が必要であるのか、そのすべてを理解することができ、今は出会わないといったことも、自分たちにとって最善だと理解できるからです。そしてこのふたつの存在たちが最低でもある一定の合間ごとに出会うことができるように壮大な慈悲がすべてを導きます。愛の関係の部分に何か特別に負債でもないかぎりふたつの存在はほとんどの時間を共に過ごすか、もしくは最低でも関係が完全に断ち切られることなく時々一緒になり、またしばらくすると神聖な救済計画の一部としてお互いが奉仕するためにふたたび出会い、より長い時間を共に過ごします。

 質問:私が伺いたかったことの一部はすでにレクチャーの中で答えをいただいているのですが、ここでもうひとつを伺いたいと思います。「汝、自分を愛するように隣人を愛せよ」と言われていますが、たとえば家族の一員が事を難しくし、家族の中のもう一人が愛されることができないとします。聖書の一句に従えば、事を難しくしている方の一員を憎むことは正しくなく、嫌うことでさえいけないということになりますが、他方で、自分自身の感情を欺いてはならないと学んでいますし、もしそのようなことをすれば魂は病んでしまうと習っています。真実に対峙することを学ぶべきだと。こうした葛藤において私たちはどのように振舞ったらよいのでしょうか。

 回答:そうですね。もしも人がこうした葛藤に自分が置かれていることに気付いた場合、そして今皆さんが歩んでいるような自己認識の道において特定の人物を自分がまったく愛していないことを発見した場合、これまでは単に自分の良心に悩まされて自分自身を説得していただけのことで、本心がついてきてはいないと気づくのであれば、以下の点について明確になるべきでしょう。つまり、偽りから得るものは何もないということ。自分自身を欺くことで真の愛を感じるという学びができなくなってしまいます。なぜなら本物の感情とは、それがたとえまだ気づかれていない、内に眠るものであったとしても、それ自体が形や物質であり、効力を持っているからです。愛を強制することはできず、そうするほど愛を感じることはできなくなります。つまり人はそれがどれだけ不快なものであっても、自分が実際には相手をまったく愛しておらず、それは自己欺瞞であり、偽りの愛だったと気づくことが酷い衝撃をもたらすのであっても、まず真実を見出さなければならないということです。真実はすべての土台です。本当にすべての土台なのです。嘘の上には何も築くことができません。こうした自己欺瞞は嘘の上に何かを築いているということそのものです!まずはそこからです。

 もしもあなたが自分の魂の内に憎しみを見出したとしても、愛という目標に手を伸ばす前にまず真実を構築しなければなりません。すべての偽り、すべてのマスク、すべての誤魔化し、すべての誤りは、それがどれだけ今の時点で心地の良いものであったとしても、どれだけ愛のある親切な見かけを与えてくれたとしても、すべては鍬でもって取り壊さなくてはなりません!勇気と正直さで、自分の中にある誤りのすべてを取り除きなさい。それは最も危険な雑草であり、本物の愛という果実と共に育つことはできません。まず、自己探求によって暴かれたものを評価し、受け入れます。自分の魂の中の真実に少しでも近づこうと差し掛かることができたのならば、この人の内には善良な意志が存在しているということです。こうして愛を獲得するための次なるステップを踏み出すことになります。しかしまず、第一段階であるこの土台のステップを踏まなければなりません。この真実に出会うことを恐れる必要はありません。最も低い感情を自分の中に掘り当てたとしても、自分の行動をコントロールすることはできるはずです。感情をコントロールし方向づけるためには、感情の実際の姿にまず気づく必要があります。真実という肥沃な大地を歩むとき(今の時点ではあなたはまだそこまで至っておらず、まずはこの真実を受け入れることを学ばなければなりませんが)次のステップが現れます。しかし今日は次のことを述べるに留めておきましょう。優美な愛に祈りなさい。愛とは優美さそのものです。さらには、自己認識の作業を通して作動する強さは、他者の魂の真の姿を見ることを可能にする成長を増長するでしょう。こうしてあなたは人を神が創造したままの全体で見ることができるようになり、その真実の全体を見ることができるようになります。そして相手のローアセルフにも、恐れなしに気付くことができるようになります。

 本当によく見かけるのは、人々は相手をもう愛せなくなるのではないかと恐れるが故に相手のローアセルフから目を逸らします(とはいえ、ローアセルフは人から漏れて出ているものなので目を逸らすことは実際には不可能なのですが)。少し経つと意識的に相手のローアセルフを耐え忍ぶようになります。そして最初はほんのつかの間ですが、そのうちにどんどんと、より明確に相手のハイアーセルフが見えてきます。ローアセルフの端に隠れるようにして見えるだけですが、それでも見えてくるのです。こうして他者の魂をその全体で見ることができるようになると、徐々に真の愛が育ちます。つまりこうして皆さんの洞察力が拡大していくのです。隣人のローアセルフとハイアーセルフの区別がつくようになり、ローアセルフに目をつぶることなく本物のハイアーセルフを相手に見ることができるようになります。憎しみの可能性があるとすればそれは相手のローアセルフのみに向けられ、それ自体が相手の真の性質ではないと知りながら成されます。こうしてあなたはゆっくりとこの道をひとつの段階から次の段階へと通過していきます。自分自身のローアセルフとハイアーセルフの区別がどれだけできているか、また自己認識の程度に比例して相手の魂に気付くことができます。これが手順です。

 質問:それに続く質問をしたいと思います。「善を愛し、悪を憎め」と言われていますが、これによっても葛藤が加わることになりますよね。人は憎んではならないとも言われているわけですから。

 回答:ひとつ明確にしたいと思います。第一に、人は他の生命を憎むべきではもちろんありません。しかしもしもそれが悪であれば、憎んでもよいのです。悪を憎むことと、ひとつの存在を憎むこととでは大きな差があります。あなたが先ほど挙げたもうひとつの質問の答えにもなるのではないでしょうか。なぜならこのふたつを区別することができれば、葛藤はなくなるからです。すべての人の核には純粋な精神が宿っていると想像してみてください。たとえ硬い皮で覆われているために検出しにくいとしても、その核には純粋な精神が宿っているのです。実際であるこのイメージを見ることができた瞬間に、硬い皮は相手にとって単に異質なものであり、どこかで必ず抜け落ちるものであり、神が創造した真の存在とは無関係であるということが見えた瞬間に、正しい角度からこの問題に立ち向かうことが、非常に容易にできるようになるはずです。もちろん、断ち切った方が良いであろう負担や不調和ばかりが起こる関係がないわけではありませんが、その場合でも、相手を憎む必要はありません。相手にとって異質なもの、硬い皮、つまりは相手の中にある悪ということですが、これを憎むことはできます。それでも相手の存在を憎みはしません。あなたの洞察力が発達するにつれて、最も難しいと感じるときでさえ、硬い皮のはざまに、相手の中にある真のスピリットの核の光を垣間見、この存在が本来どのような姿だったのか、そしてまたふたたびそうなるだろう相手の姿、神がこの存在を愛しているところが何であるのか、こうした暗示をより多く得るようになります。相手の本質を見出すのがあなたのタスクであり(そしてこの本質とあなたの関係は断たれるべきではありません)、この本質は愛するに値するものです。それに気づくことができないのは自分自身の盲目さのためです。このことを理解していただけますか。ここからは何の葛藤も生じないはずです。気づきと発達の段階の問題です。善と悪は同じくらい人の一部であると考えるかぎり、そこには葛藤が存在します。しかし今申し上げたような形で善と悪のことを思い描いていただければ(はがれ落ちていく硬い皮や異質な物質という形で)対処するのが大分楽になるのではないでしょうか。このことを学ぶには時間がかかりますし、特に怒っているときには、このことを覚えているのは難しいですね。今お話ししていることが皆さんにとっていかに難しいことかを、我々スピリットは理解しています。そしてこれを成すには自己認識というこの道、私が何度も繰り返し指摘しているこの道を歩むよりほかはありません。相手の真の姿に気付くためにはまず、自分自身の真の姿に気付かなくてはなりません。相手から始めることはできません。これは決して成功に至りません。自分自身を見ることができてはじめて、自分自身の硬い皮を通過し、自分の中のローアセルフとハイアーセルフの区別ができてはじめてゆっくりと目が開き、周囲を見渡すことができるようになるのです。自分自身から始めなくてはなりません。

 質問:私は現在心理療法を受けています。自分は蚊の一匹も殺すことができず、森を歩くとき、どのようなものであれ生き物は一匹も踏まないように気を付けていること、生き物と呼ばれるものはすべてとにかく殺すことができないことを担当の方に伝えました。その方はこの反応は普通ではなく、病的なものだとおっしゃいました。蚊くらいは殺せないと、とおっしゃるのです。この方が何を言わんとしていたのか教えてくださいませんか。

 回答:その人が何を伝えようとしていたかは分かりません。我々の視点から、私自身の意見をお伝えすることが唯一私にできることです。一般的には、こうした小さな生き物を殺してしまったとしても、痛めつけるような形でなければ、悪いことではありません。なぜなら動物など、特にあなたがおっしゃっているような小さな生き物の場合では、こうして殺されてしまうことで成長の速度が早められるからです。ひとつの転生が素早く成功し、次へと移行することができます。あなた個人に関しては、お話しされている点に一貫性が欠けていると思います。なぜならもしもこれがあなたの信条なのであれば、あなたは肉を食さないであろうからです。

 質問:はい。しかし私は動物を自分自身で殺すことはありません。

 回答:もしもあなたのおっしゃっていることが愛や観念論、もしくは崇高な信条であったとしたなら、自分自身が動物を殺すのか、他の誰かが殺すのかにはまったく違いはありません。つまりそこには、あなたの中の何かしらのエゴが関連しているということです。あなたはそれを見たくないのです。そのエゴにあなたは身震いをしているのです。それにも関わらず自分以外の誰かがその不快なことをするならば、あなたはそのことを気にしないばかりか、特別なご馳走かご褒美のように仕立てあげてしまいます。あなたの中にはいくつかの不健康な部分が存在します。(1)あなたの語りの中には、正直にすべてを計上していない、ずれが存在します。「虫すらも殺せない」ことを何か良いことのように自分自身に信じ込ませていますが、それは本当ではありません。何かしらの自己欺瞞に陥っています。(2)こうした不快な行動を自分自身でしなくて済むための自己防衛であることが多いと思います。しかしもしも危険な動物や、例えば毒虫が近寄ってきたとして、自分の代わりにこの生き物を殺してくれる者が周りに誰もいなければ、自分が殺すしかありません。人が自分の生命にとって必要なことから逃避するとき、そこには微量の自己憐憫や怠惰が存在し、こうしたものは健康的ではありません。さらに、あなたは何かを投影しています。無意識ではありますが、あなたはそれぞれの動物の中に自分を見ており、自分が踏みつぶされることを恐れています。今申し上げたすべてがここには含まれているということです。動物に対するあなたの姿勢が特に何か重要ということではありませんが、あなたの魂に間違って刷り込まれている「印刷ミス」のいくつかの症状がここに映し出され、現れているということです。これについてはより多くをお伝えすることができますが、この場はあなたの魂についての詳細を語るところではありませんね。

 質問:お聞きしたいのですが、例えば人が霊的な法則に沿った行動や思考、そして感情に従順である必要があることは良く分かるのですが、行動が正しいかそうでないかを明確に分かるためにはどうしたらよいのでしょうか。個人的には情感を行動に移し、感情的な行動をとることは常に正しいと思っています。何が正しい行動なのか、その判断権を握っているのは誰なのでしょうか。

 回答:神の世界が判事です。そして人は皆それぞれが内なる判事となることができます。ただしまずあなたにお伝えしたいのは、感情を行動化することは常に正しいとおっしゃったことは、正しくないと申し上げたいと思います。ハイアーセルフと同じくらいローアセルフも感情を持っています。どれだけ多くの犯罪が思考や理性からの行動ではなく、感情的な理由から侵されているか考えてみてください。最も低い感情において検出されるこうした犯罪を防ぐことができる何かがあるとすればそれは思考です。思考がもたらす結果です。ある程度のレベルまで成長の段階が至っている人々はローアセルフのために犯罪を行動化しません。こうした人々のローアセルフにも欠点や弱さ、エゴイズム、虚構、最も楽にこの道を歩みたいという衝動、その他霊的な法則に反するすべてのものが含まれますし、低いレベルにある人々にとっての犯罪と同じくらい、こういった人々にとっては間違ったこととして捉えられています。すべては相対的です。もちろん人はいつでも、どうにか自分の低い本能を合理化することができますし、大抵の場合自分を騙し、何か崇高な理由を見出すものですが、それでもそれは行動自体を変えるものではありません。なぜならこうした行動は嘘の存在しない我々霊の領域では変わることなく漂った状態に固定されたものだからです。

 もうひとつ、何が正しい行動なのかを知るための方法をご説明します。動物とは違う人間の場合、霊的な法則に精通することが可能です。霊的な法則を深く学ぶことで思考の能力を自分の感情と本能に架ける橋として使うことができるようになります。こうしてこの人は自分の中で最も秘められ隠された感情に意識的になることでそれらをコントロールし変えることができるようになります。もちろん、これには意志、忍耐、疲弊することのない探求、そしてすべての自画自賛の気持ちや自己欺瞞、抵抗を横に置く力が必要です。両側から攻める必要があります。霊的な法則の含みを外側から学ぶことも必要です。神はこれを可能にするさまざまな要素を人に与えていますし、学ぼうとするすべての人に道を切り開いています。そして人はまた、継続的な自己探求を通して内側からも攻める必要があります。人はこの自己探求によって何度も繰り返し心を気づきへと開き、神の意志へと開き、受け入れることが最も難しいと感じられることを自発的に受け入れる必要があります。

 すべての問題を解決する方法は、今お話ししたものが唯一であり、そうすることで何をすべきか、また何をすべきでないかの適切な判断を下す判事となることができます。この霊的な道を歩む際には、毎日瞑想の時間を取るようにしてください。こうすることで何をすべきか知ることができるでしょう。皆さんおひとりおひとりに神が要求しているのはまったくこのことなのです。あなた以外の誰も、あなたに判定を下すことはできません。もちろん民法は例外ですが、今ここでは民法について語っているわけではありませんからね。

 私達は今、人生における決断に左右されるすべての問題について話しています。人生では自分自身が唯一の判事となり得るのであり、そうなるためにはこの道を歩む必要があります。この道を歩むことで自分が決断を下す地点に立っているかどうかを明確に知ることができ、自分が正しい答えを見出したかどうか疑問の余地もなくなります。しかしこの幸せ、平和、安全、安定、そしてしっかりとした足場を得るためには多くの努力が必要です。ただではやってきません。これであなたの質問の答えとなっているでしょうか。すべてを理解できましたか。

 愛しい皆さん、今日はこれでじゅうぶんではないかと思います。お伝えしたことを熟考してください。おひとりおひとりが今日の言葉に鍵を見出すことができると思います。そして心からの愛しい友人達よ、覚えていてほしいのです。神が皆さんをこの人生へと転生させ、特定の問題や出来事、欲求や負担を背負うことを許しました。そして特定の欲望が思ったほど早くは成就されなかったとしても、それには理由があるのです!神は皆さんにより多くのことを学んでほしいと思っておられます。

 今お伝えした視点からすべてに取り組んでみてください。そして心から皆さんにお約束できます。霊的な視点から見たあなた方の人生の真の意味、その目的、そしてそのためにはどこから手を付けたらいいのかに気付くという偉大なる幸せを皆さんが経験するであろうことを。そして皆さんの奉仕を神の救済の計画のために差し伸べてください。神は、神の子供達である皆さんが神に与えられる以上のものを求めはしません。そして子供達が与えられるその何かが、日常に葛藤をもたらすことはありません。真実はその反対で、より良く日常に対処ができるようになります。自分は何を与えることができるのかを問いなさい。すべての個人的な欲求を成就することよりも多くの幸せを、そこに見出すことができることでしょう。

 平和のうちにあってください。神の祝福が皆さんを貫いています。真の意味で、神の子であってください。愛しい者達よ、祝福を。神が皆さんと共にあらんことを!


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