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Pathwork in Japan
No.3「スピリットの世界」
Pathwork Guide Lecture No. 3
UNEDITED版
1957年4月9日
「スピリットの世界」あなたが選択する運命
THE SPIRIT WORLD -- YOU CHOOSE YOUR DESTINY
こんばんは!皆さんに神の祝福をお届けします!
地上に転生するとき、人は達成しなければならない課題を持ち込みます。大まかではあるものの、計画は描かれているのです。多くの場合、転生するスピリットは、自分を担当するスピリットと地上でのこれからの人生について話し合う資格を与えられます。成長の度合いや、どれだけの決定権を有しているかにもよりますが、この話し合いによって地上での人生がどのようなものになるか、ある程度決めることができるのです。人間の体に納められた状態と比べて、転生を控えたスピリットは広い視野で物事を見ることができます。スピリットは、できるだけ心地の良い人生を送ることが地上の人生の目的ではないことを理解しており、地上では手にすることのできない完全なる至福を、より迅速にスピリットの世界で獲得するために必要となる理解を発達させる目的があることを分かっています。スピリットとしての自分の叡智が人間としての自分の理知を貫通することを可能にするのは、霊的な努力のみだということを転生前のスピリットは分かっているのです。しかし同時に、これがそう簡単に達成できることではないことも知っており、自分が困難や試練に出会うであろうこと、最終的には正しい道、正しい姿勢へと導いてくれるであろう苦しみを耐え抜かなければならないことも分かっています。スピリットとしての記憶は、物質である肉体がスピリットを包み込むときに自動的に消滅します。このことは、本質的なことの表れです。つまり、以前にも申し上げましたが、スピリットの叡智とはあらためて獲得しなければならないものであり、人が自分の内を探求してはじめて到達できるということです。神や万物の真実は外に求めるものではありません。自分の人生が持つ特別な意味や目的、達成しなければならない具体的な課題は自分の内でのみ見つけることができるのです。
しかし物質世界の価値に目を奪われた人は、人生の深い意味を見失い、進歩のないまま幾度もの転生を繰り返します。毎度同じ目的のために転生し、幾度も地上の人生を渡るのです。地上の人生の危険性がここにあることをスピリットとしての人は分かってはいるのですが、同時に、スピリットから見て正しいとされる人生を生きることができれば、地上の世界は霊的な世界に比べて短時間で霊的な発展を遂げられることもまた知っているのです。というのも霊的な世界には大きな摩擦がありません。地上での摩擦の大部分は物質的なものであり、物質にまつわるものです。これはひとつに、スピリットとしての記憶が消滅しており、再度手に入れなくてはならないからですが、それだけではなく、物質世界には多くの誘惑が存在しているからです。このような困難を乗り越えた者だけが地上での人生を最良のものとすることができ、勝者になれるのです。つまり、転生を控えたスピリットは、物質的な摩擦は自分自身の最良を呼び覚まし、進化させるために必要であり、物質やそれが持つ誘惑に執着してはいけないことを理解しているのです。転生する前、スピリットはより高い存在に次のようにお願いをしているかもしれません「お願いです、力をかしてください。強さや導きのみならず、人間となった私が求められていることを達成できずにいるとき、さまざまな試練を私にお与えください。試練によって内なる力を呼び覚ますことができるでしょう。人生のすべてが習慣的で、問題がなく、すべての欲望が満たされているときとはまた違った角度で人生を見ることができるようになるでしょう」と。
したがって皆さん、あなたの人生に繰り返し起こる出来事の多くは転生前、あなたにまだ予見があった頃、物質がスピリットを包含する前、スピリットとしてのあなた自身によって予め選択され、決定されていたのです。このことに気づいておくことが重要です。あなたの力になります。時としてスピリットは、進歩のために休むことなく努力を続け、特に骨の折れる運命を選ぶこともあり、むしろ熱心にそれを求めるようなところもあります。物質という密度から解放された状態においての話ではありますが、人生で経験する悲しみは、そこから得るものに比べればほんの小さなものであり、大して長く続くものではないとスピリットは分かっているのです。今お話ししていることは、皆さんの考えの糧となることでしょう。皆さんひとりひとりがご自分の人生について、試練や苦難について考えてみることをおすすめします。実現すべき何かに無知なままに留まることがないよう、あなた自身によって選ばれた困難でないかどうか、ご自身に耳を傾けてみてください。見つけなければならないこと、解決しなければならないことについて、お伝えした視点から熟考してみてください。皆さんが持ちうる最大限の強度でこの探求を行うことができれば、答えを受け取ることができるでしょう。答えを感じることができるでしょう。気づきが訪れるでしょう。こういったことはあなたの元に自然とやってくるわけではありません。練習が必要であり、学び取っていく必要があるのです。正しく瞑想を行う能力が自ずとついてくると思ってはいけません。練習や意志の力、忍耐、そしてあなた自身の内を流れるネガティブなものと戦うことが求められます。とはいえ、この上なく幸せで大きな見返りを得ることができるでしょう。価値ある作業です!努力が真摯なもので、進歩のために最善の意図が払われているとスピリットの世界が判断すれば、導きがもたらされます。そしてこの導きは、達成しようと決意しているものに到達するための、物理的な力添えとしても現れるでしょう。
地上での生命がひとつ終わり、スピリットが物質としての肉体を捨てるとき、はじめに意図したことのすべてを達成していないことに気づきます。そして多くの場合、スピリットの状態に留まりつつ、今終えた転生を完成へともっていく機会を与えられます。つまり、すでに着手し始めた課題を終わらせ、負担をある程度軽減する機会が与えられるのです。地上での家族や周囲の人々に影響力を発揮することができるようになります。ふたたびスピリットの存在となり視野が復元された存在にとって事は容易であると同時に、影響を与えるという意味では、地上よりはるかに難しいのです。失われていた記憶は蘇り、そもそもどういうことだったのか、全体像を理解します。しかしここでの困難は、スピリットが人類に対して浸透性と影響力を欠いていることです。たとえれば、一人の生きた人間は他の人に影響を与えることができます。特に自己鍛錬を通した影響は大きなものといえるでしょう。間接的な影響は直接的なものに比べて常により効果的で持続的です。どれだけ正しく、良き意図のあるものであっても、言葉や説得、もしくは力ずくの意志を他者に向けるよりも、実践を通して人の例となる方がより説得力があるのです。人がどれくらい自分の弱さを乗り越え、スピリチュアルな法則が本物であるとその人自身の内で証明し、愛を学んでいるかよって、必要な人との距離を縮めることができるのです。この法則が間違っていることはまずありません!間接的な影響ではありますが、好ましい結果はいつでも、誰にでも、確かに、表立って見ることができるのです。しかしスピリットではこうはいきません。なぜならほとんどの人間は示唆に富んだスピリットの言葉を聞こうとしないからです。たとえ受け取られたとしても、間違って捉えられることが多く、振り払われてしまうことさえあります。このスピリットが人間だったときに始めた課題を終わらせることができたとしても、とても難しいことであり、地上にいたときとは比べ物にならないほど長い時間がかかってしまうのです。目的を果たすためには、地上での人生がもう一度必要かもしれません。
こうして人とスピリットはそれぞれが生きるにふさわしい世界を築き上げます。人は地上での人生に合致する形でスピリットの世界に居場所を築き、同時に次なる地上での人生を築いていくのです。一時的なものではありますが、すべての行為、思考、感情がスピリットの世界での居場所を形成し、来る地上での人生で起こる運命的な出来事もここから発展するのです。こういった物理的な出来事は、個人の姿勢や見解から自ずと導きだされたものであると同時に、この存在のさらなる成長のために何が必要かを正確に示すために、スピリチュアルな形で予め構成されていたものでもあるのです。今お伝えしたことについて瞑想をしてください。とてもたくさんの情報が含まれていますよ!これもまた、方程式がいかに正しいかを示す良い例ではないでしょうか。つまり、困難とは自分自身が意図的に創り出したものであり、癒しとして機能しえるということです。神の叡智の偉大さと、神の法則の素晴らしさを、このことからも想像できるのではないかと思います。今お話していることが理解できれば、運命と自由意志はお互いを排除し合うものではなく、編み合わされ、互いに結びついているのだと気づくことでしょう。そして、人生に起こる「運命によって決定された出来事」とは、スピリットの世界で予め形作られ、地上の人生で確固と顕現しているのだと気づくことができることでしょう。もしもこの神聖な法則に対する叡智や意識を欠いているがために、好ましくない何かが人生に創り出されているとするならば、それぞれの個人が解決しなければなりません。そしてこれは、鍛錬と自己認識、そして自己の内を探求するというスピリチュアルな道を歩むことでしか成されないのです。
さて皆さん、お話したことすべてには意志の力が必要です。こう申し上げると、多くの方はこうおっしゃるかもしれませんね「了解です。しかし、生まれつき意志が強い人と、まったく強くない人がいます。意志の力が欠如している人はどのようにして取り組めばいいのでしょうか」と。このことについて説明しておきましょう。意志の力だけでなくすべての属性に言えることですが、これらは自分自身で創り出す以外に方法はないのです。生まれつき意志の力がある人がいるとすれば、過去の人生のどこかでそれを創り出し、今回の人生でもこの宝を(そう呼んでも差し支えないかと思うのですが)一助として携えてきたということなのです。もしも意志の力が過去に培われていないのであれば、今回の人生で獲得するしかありません。意志の力に限らず、その他すべての長所に対して言えることです。たとえば愛する能力、忍耐、優しさ、その他どのようなものにも当てはまります。ここで皆さんに、誰にでもできる意志の力の創り出し方をお教えしたいと思います。なぜなら大切な皆さん、神は誰からも不可能など求めないからです。
意志の力とは、認識、知、そしてそれに伴う決断の直接的な結果です。すべての人はある程度の強靭さを持ち合わせていますが、その力をどの方向に向けるかはその人次第です。多くの人は、スピリチュアルな観点からはまったく価値がないものに無意味な努力を費やすか、もしくは病んで浄化されていない感情の流れに力を譲ってしまい、無駄にしてしまいます。さて、霊的に建設的な目的のために力が消費される際には、力は補充されるというのがスピリチュアルな法則なのですが、力の流れがネガティブで霊的に非生産的なものに巻き込まれているとき、こういった流れはあなたをすり減らし、力は無駄になってしまいます。なぜなら力はネガティブもしくは非生産的に使われるとき、じゅうぶんに再生されることがないからです。
皆さんも、善き行いの多い人が超人的な強さを携えていることに気づくことが多いのではないでしょうか。自分の人生の主な目的が何であるかを分かっている人は、自在に賢くエネルギーを自分の中に通し、目的に応じて内なるスイッチを切り替えることができます。人生の真の意味を考えることなく、ただ周りに流されてしまうとき、エネルギーの多くは間違った方向に流れ、じゅうぶんに再生されることなく使い果たされてしまいます。つまり意志の力を生産するための第一歩は、熟考すること、または正しい瞑想をすることです。なぜなら、まず適切な内なる結論を引き出し、順じて外的な決断を導き出す方がこれまでにいくらかの理解を獲得してきた人にとっては容易だからです。もしも人が自分自身に次のように語って聞かせることができるなら、それ自体がひとつの決断であり、内なる進化だと言えます。「何かの目的があって私はこの地上に生きている。私の存在目的を最大限に発揮し、求められるすべての規律を満たすための意志の力を私は欠いてはいるけれど、必要な強さを与えてくれるよう神にお願いしてみようと思う。結局のところ、私は善を行いたいのであり、神を真に愛し、神に喜んでもらいたいと思っているのだから。私はある程度の時間と労力をかけてこのことについて考え、神の叡智への気づきに自らの意識を向けるようにしようと思う。日々、継続して、二十分から三十分ほどをスピリチュアルな生き方について熟考する時間として割こう。そして意志の力が自分にはまだ欠けていると感じるときには、瞑想にこの課題を持ち込むことにしよう。瞑想とはつまり、神との会話であり、いつでも私を助けるために準備をしてくれているキリストとの会話であり、また条件が揃うときにはいつでも私を助けることができるよう待っていてくれる、私の個人的なスピリットの友人との会話なのだ。私にはアドバイスを受け入れ、気づきを獲得する意志がある。よって、今は欠如している意志の力を獲得するための種子を、私はここに撒くことにする」と。
どんな人でもできることですね!誰でも皆、これくらいの意志の力と自己鍛錬の力はあるものです。最も困難なことから着手する必要はありません。家を建てるときに屋根からは始めず、土台から始めるのと同じです。というよりも、まず必要なのは自分の中にある力の流れや思考の勢いまたは推進力を、もう一度受容し直すことなのです。人がこのような決断をし、保持することは難しすぎることでも荷が重すぎることでもありません。そしてこれができれば、意志の力を強めるようスピリットが力添えをしてくれ、成長のプロセスにおける次なるステップ、またはより効果の高いステップが容易に行えるようになるのです。友人である皆さん、このことはお約束できます。これが事実であることを多くの方がご自身の経験を通して確認しているのではないでしょうか。はじめ意志の力が欠如していた人でも、しばらくすれば、生まれつき意志が強い人と同じくらいになるのです。
自分の中で何が問題なのか、どこにより集中すべきなのかを理解し、表面的で理知的な理解からより深いレベルへと進めることができる人は、決定的な一歩を踏み出すことができるでしょう。日々の規則的かつ正しい瞑想の練習を通してこの決定的な一歩は成され、実現できるのです。また瞑想は、この道の一環として皆さんが学んでいく必要のあることです。瞑想を実践することで必要となる内なる決断を下すことができるようになります(この内なる決断については最近のレクチャーでお話ししています)。決断もまた、いずれは下さなければならないものであり、気づきという形を通してはじめてできるものです。意志の力を獲得するためには要約しますと、第一に認識によって得られる必要があり、第二に認識に続く決断を必要とするということです。
意志の力がじゅうぶんではないということは、それが何であるのか分かっていないということです。漠然と理解しているかもしれませんが、魂はまだじゅうぶんに意志の力に浸りきっていないのです。怠慢で規律を欠いた状態に執着しろとささやく抵抗が、あなたの中には多少あるのかもしれません。つまり、隠された矛盾を抱えているということです。スピリチュアルな叡智を人格の一部では携え、また別の部分では、何かを漠然と感じ取っているにも関わらず、そこから重要な事柄を引き出すこともしません。実際のところ、本当に理解したいわけではないのです。こういった場合にまず行うべきことは、叡智を表面的なものにするのをやめ、それを深め、気づきを人格の全体に浸透させることです。少しの努力と時間をかければできることであり、この作業ができるようになってはじめて確実に決断を下すことができるようになります。意志の力によって人生や内なる力をスピリチュアルで気づきに満ち、意識がじゅうぶんに行き渡った状態に持っていくことができるようになるのです。こうしてはじめて、地上での物質的な問題の解決が可能になり、自分の内に偉大な力を生み出し、それより先の進化の達成を容易にしてくれるのです。とはいえ、いつでもそうですが、最も難しいのは歩き出しです。
受容する力を正しい方向へ向け、スイッチを切り替えさえすればじゅうぶん以上の力を備えているというのに、なんと多くの人間が自分には意志の力がないと思い込んでいることでしょう。スイッチを切り替えるためには、そうする必要があるのだと気づかなければなりません。スイッチの切り替えなしに進むことができると思っているかぎり、人は変わることなく、怠惰な道に身を置き続けることになるのです。怠惰な姿勢は、人と神の間に調和を欠いているというサインです。自分がそんな状態に陥っていると思うのであれば、神やキリストについて熟考することを敬遠せず、取り組み始めるべきです。無神論者でないかぎり、人がどのような神を信じていようとも、はたまたその神を信じることに反発していたとしても、神について熟考し、注意を払う義務があなたにはあるのです。それが神の意向です。そしてキリストが愛の力であなた方に行ったこと、彼が背負ったものに感謝をするべきではないでしょうか!
このように瞑想し、熟考することができれば、正しい結果や決断に到達することができるでしょう。あなたの人生は生きた宗教そのものとなり、理論上のものに留まることはなくなります。そう大変なことでもないと思います。日々少しずつ時間と努力を重ね、自分の中に欠けているものを探り、スピリチュアルな習慣を正しく築いていくのです。それでも自分には意志の力が欠けていて、自己規律が難しいと感じるのであれば、それ自体を日々の瞑想の題材にすればよいのです。あなたのスピリチュアルな大聖堂を築くための土台を、どのように敷いたらよいのかを題材に瞑想を行なえばよいのです。手助けや強さ、そして気づきがもたらされるように願うことももちろんですが、同時に何が日々の瞑想の時間を持つことを妨げているのか、自分の内を探るようにしてください。自分自身に素直になって、すべてのごまかしや口実を横に置いてください。埋もれたままにしておきたい何かを、発見することを恐れているのでしょうか。もしそうならば、シンプルで健康的な考え方で取り組んでみてください。向こうの世界にいつかあなたが戻るとき、神やスピリットの前に隠せるものなど何もないでしょう。自分自身からも、隠すことはできないのです。早期に表へ出してしまった方が楽なのです!
表面に持ち出され、簡潔に認識され消化されることに比べて、隠されたものはより多くの問題を作り出します。あなたを担当している心理療法士はこのことをよく分かっているのではないでしょうか。ですから皆さんも、自分の中にあるものを受け入れず拒否し、固く目を閉じたところで何も獲るものはないと分かっているはずです。この基本的な考え方をご自身の中で培い定着させてください。あなた方にとって恵みとなることでしょう。
今述べたような初期の困難を克服し、今日お話ししたことを多少なりとも獲得できたとき、スピリットの世界は道における次なるステップを提示してくれます。次に開拓し戦うべきことを示してくれるのです。つまり人生そのものが提示してくれるわけですが、正しい瞑想を身に着けていれば、日常に隠されたサインを、目を見開き、気づき、正しく判断することができるようになるのです。
初期の困難を乗り越えた人でさえ、瞑想の時間を常にうまく使っているとはかぎりません。瞑想を機械的な手続きとしている場合があまりに多く、いつも同じように行っているのです。他者に捧げる祈りにかぎらず、自分自身のために祈るときでもそうです。瞑想は変化に富んだものであるべきです。その時その時の必要性を具体的に感じる必要があり、それが何であるのかに気づいていないときでも、何に気づくべきなのか、何を学ぶべきなのか、何を乗り越えるべきなのか、そして受け入れるべきなのかを知ろうと完全な注意を向け探求することができれば、気づきはもたらされます。具体的な問題への手助けを神やキリストに乞い、祈ってください。あなたにとって非常に親密な存在であるあなたの個人的なスピリットは、あなたが成し遂げるべきワークの手助けを任命されている存在です。このスピリットと問題について話し合ってみてください。こうして祈りは生きたものとなるのです。今現在あなたが抱えている問題に対する気づきと強さを乞い、祈ったならば、しばらく静かに待ってみましょう。自分の思考がどちらの方向へ導かれているのか、耳を傾け、考え、感じるようにしてください。じっくりと時間をかけます。しばらくすると、内なる繋がりに気づき始めることでしょう。そして問題の根源に気づき、なぜ自分が今のような反応をしているのかに気づくことでしょう。自分の内なる反応や流れへの理解が深まることで、進歩が引き起こされます。恐れを抱くことなく自分の中の隠された真実と向き合えるよう、勇気を育ててください。自分と向き合うという決意を、ゆるぎないものにしてください。思考をそれぞれ個別に掘り下げていき、自分に対する優しさを持ちながら、自分自身の真実について熟考してください。これによりスピリチュアルな習慣は活気に満ち、その形は常に変容し、日々ただ繰り返される固定された形式に陥ることなく、生産的なものとなります。こうして神との関係は調和的なものへと育っていくのです。
それでは皆さん、ここで皆さんの質問に喜んでお答えしようと思います。
質問:スピリットは転生前に自ら厳しい運命を選択することもあるとあなたはおっしゃいました。理にかなっているとは思うのですが、ひとりの人間である私にとって、このような教えを受け入れるのはやはり難しいものです。私達人間がこういったスピリットの教えを受け入れることができるのは、それを信じているとき、もしくは「実態のある証拠」を受け取ることによってこの教えが本当であると証明できるときに限られると思います。ただ、私にはそれはできません。スピリットの語り掛けを、やみくもに受け入れる必要があるわけではないですよね。
回答:確かに、そうするべきではありませんね。我々、神のスピリットの世界は、真実のみを語ることを保証しますが、皆さんには常に我々のような神聖なスピリットと接することをおすすめします。
今回のレクチャーであなたは、真実を引き出す方法を学んでいるのです。じゅうぶんな時間と努力を費やし、真実の状態に馴染むことで、それを自分で証明できるようになるよう、力添えを受けているのです。スピリットから受け取ったものは検証するべきではありますが、スピリットとの繋がりを構築する機会を手にすることなく、単に拒否し疑うべきではありません。加えて、与えられた指示を熟考する際、健全な思考で取り組む必要があります。これもまた、ひとつの試練です。偏見なく熟考することができれば、あなたに与えられた教えが持つ真実の深さに気づくことができます。真実に基づくものはそれが何であれ、受け入れるのはさほど難しくはないでしょう。今日皆さんにお伝えしたこととも被りますね。真実を受け入れ、信じることが難しいわけがありません。
この質問はそう複雑でもありません。というのも、ご自分で「理にかなってはいるけれども」とおっしゃっているのですから。つまりあなたは、神の世界のスピリットと関係を築くことが果たして可能なのかどうか、そしてスピリットの声明が果たして信頼できるものなのかどうか疑問を抱いているのでしょう。こういったことの可能性を完全に否定する人間や、すべてに科学的証明を必要とする無神論者には私は話しかけません。スピリットとの関係を検証しようと努力をしている皆さん方は全員、さきほどおっしゃっていたような証拠をじゅうぶんに受け取っているはずです。混乱したスピリットというものも実際にいますし、そういった存在はあなた以上に物を知っているわけではありません。このような存在と関係を築くことは無意味であり、危険でさえありますが、真実のみを口にし、信頼に値するスピリットが存在する可能性を信じられないというのであれば、あなたは神の善良さや叡智を疑っているばかりか、真実を体現するスピリットの世界での永遠の生を、比較的明確に人類に約束したキリストの言葉をも疑っていることになるのです。人ははじめ、高次のスピリットの存在たちが人類にもたらす真実を理解しませんでした。難解だったからではなく、それまで人類が信じてきたこととは違っていたからです。神のスピリットの世界の住人である高次の存在たちの声明は、念入りに調査をしさえすれば、どの時代や場所のものであっても一致すること分かるでしょう。矛盾などないのです。神の真実を体現するスピリットの世界との間に橋というものが存在していないのであれば、人類は創造について、救済の計画等について知る由もありません。人類が受けたこういった教えのすべては、スピリットによるものです。スピリットというチャンネルを通ることでのみ可能となるのです。人類の力のみで知り得ることなど何もないのです。一体どのように可能だというのでしょうか。
真実が、インスピレーションを受けた人々によって感知されたものなのか、霊媒によって感知されたものなのかは問題ではありません。源はひとつです。人間としての意識を横に置けるほど、人はより純粋になり、真実が人を貫きます。どうしても自己から導き出すことができないこともあるのだと人が分かるほど、この人にとって源の存在は確かなものになります。すべてを知っているスピリットなどいません。すべてを知っているのは神だけだと言って差支えないでしょう。神聖な階級のスピリットとそうではないスピリットの違いは、神聖なスピリットは自分が知らないこと、または確かではないことについては話さないということです。高次のスピリットは何かを「感心させる」必要が最早ありません。「このことについて私は存じ上げず、自分の担当分野ではありません」と言えるほどじゅうぶんに浄化されているのです。仮に特定の課題を解くようにスピリットが選ばれたなら、念入りに指導がなされ、特別な「学校」に通うことになります。
神の世界は地上ではとうてい知覚できないほどの秩序と階級の世界です。進歩が未熟であっても、善き意志を持ち、時に人間に素敵でもっともらしい言葉を届ける者ももちろんありますが、こういったスピリットはじゅうぶんな理解を持ち合わせていません。知恵を取ってみても、彼らは頼りにならないのですが、それだけではなく、分からないこともあると認めることを阻む虚栄心が、彼らの中にはまだ蔓延っているのです。ある意味、こういったスピリットも神の存在に気づき、何かしらの善を行いたいと思っています。彼らの頑固さや彼らが抱いている偏見、その他の理由から神の秩序や階級という純粋な領域に入れてもらうことが叶わず、よって自分と等しい姿勢を持った媒体を通してあなた方の前に顕現しているのでしょう。そしてこの顕現には神聖な力が及ばないということなのかもしれません。どちらにしても、スピリットの種類に違いがあることに気づく必要があります。このことについては前にもじゅうぶんお話ししてきていますし、そう難しいことではないと思います。つまりこの質問者は、自分の取り組みが、真実を語る神聖なスピリットとのものであるかどうかを確認するべきでしょう。確認することで受け取っていることを自信を持って信じることができるようになります。自分がどのようなスピリットと関係を築いているのか検証せずに、単に拒絶するべきではありません。ひとつ強調しておきたいのは、人間が神の世界と接触を持てるかどうかは、偶然に託されているわけではないということです。神の世界との接触は、基本的なルールや法則に従っているのですが、こうしたものに従わない媒体、つまりは人間が一定数いるのです。というのも私が常に皆さんにお話しているこの法則、つまりこの道は、媒体にとって欠かせないものであると同時に、ほとんどの人間にとってあまりに不便なものだからです。人はなぜか、頑固さや病的な流れ、個人的な虚栄心に執着し、神の息吹が通り抜けることができないブロックを形成します。例えばとある媒体、つまり人間が良き道を歩んでいるとします。ガイダンスやサポートが提供され、神聖な存在が当てがわれます。この人間が重要な箇所で脱落していると捉えられた場合、当てがわれた神聖なスピリットが直ちに取り上げられるわけではありませんし、すぐに不純なスピリットとの接触に永遠に葬られるわけでもありません(こういった追放は人の間違った姿勢によって起こります)。そうではなく、神の使者は一歩退き、後ろからこの人を観察し、何度か試練を施し、善良な接触と不純な接触に対する識別能力を確かめる目的で不純なスピリットと入れ替えを行うこともあります。もうこれ以上打つ手はない、この人がしっかりと自分と向き合い、客観的に判断を下す善良な精神を呼び覚ます可能性はないと神の世界が判断したときにはじめて、神の使者は退き、他の人間に機会を渡すのです。
繰り返しますが、神聖なスピリットが入るための器が人間的に完璧である必要はありません。もしもこれが必須条件なのであれば、神の使者と繋がることができる媒体など存在しないことになります。とはいえ、私が常にお話ししているこの道を歩む必要はあります!最も大切な前提条件は、この道を歩むことです。真実を携えたスピリットと接触を持てるか否かが、偶然や付随的な出来事によるものだとしたら、神はもはや愛を表象する神ではなくなってしまいます。すべては原因と結果という法則の上に成り立っているのです。そしてもしも、あなた以上に物を知らず、信頼の置けない不純なスピリットとの接触のみが許されているのだとしたら、神は愛を表象する神でもなければ、叡智や秩序の神でもありません。真実を体現するスピリットの世界との接触という貴重な贈り物を獲得するためには、努力が必要ですが、手に入れることができないというわけではありません。あなた方人間は時に、他者の努力に瞬時に気づくことができません。これは親しい人に対して特に言えることです。他者の努力に気づくためには、内なる目を開く必要があり、純化し、本当の意味で判断ができなければなりません。そしてこれには適切な知識が必要です。
もしも媒体、つまり人がこの道を歩み、神の意志を生き、あらゆることで神に服従するという唯一の望みで自らを満たすことができれば(神聖な者との接触を甘受する人が皆そうであるように、また接触自体が神の意志を生き、神に服従する行為です)それは良きことであり、このような人々は真実のスピリットにより導かれ、かつてキリストが約束したように、スピリットから教えを授かることでしょう。このことを真に熟考し、神への信仰を深めることができる者は、これが真実であることに気づくでしょう。
質問:意志の力を育てることについてお話しされました。私にとって意志の力とは、他のどのような才能とも同じに思えるのです。少なくとも、表面的にはそう見えます。俳優を例に挙げると、人は俳優であるか、はたまた俳優ではないかのどちらかだと思うのです。演技の勉強がしたいと思い、そうする人もいるかもしれません。しかし生まれ持った才能なしに良い俳優になることなどありえません。同じことが詩人にも、歌手にも、その他のすべてに言えると思います。少なくとも、私にはそう思えるのです。
回答:同じではありません。あなたが挙げた例は芸術ですから、生まれ持った才能を必要としますが、他方は属性です。意志の力や優しさ、倫理的な礼儀、愛する能力などの属性は人が獲得しなければならないものです。「天国」からもたらされた才能や芸術、神の恩寵や天賦の才と、属性の間にある違いを把握しなくてはなりません。才能などは持って生まれたものです。才能とは与えられたものであり、努力によって獲得できるものではありません。しかし属性は天賦の才とはまた別のものです。属性は努力によって、そして戦いを通して手に入れなければなりません。完璧さは人の内に既に存在しているわけですが、不完全さという外皮から解き放たれなければならず、鍛錬はその唯一の方法です。
ひとつの例をお話したいと思います。神の純粋な息吹である皆さんは、それぞれに特異な才能を持っています。それぞれに性質があった上で完璧なのであって、特徴や独自性なく皆同じということではありません。あなた方人間は、各々の性質や違いは不完全さの結果であると信じたがるところがありますが、それは違います。特性やその人の存在、そして性格の組み合わせはそれぞれ完全に独特ですが、どの人の性格にも欠陥したところなどないのです。
すべての属性は獲得されなければならないものです。再獲得、と言った方がいいかもしれません。なかには、一見才能と思えるような属性を生まれ持っている人もありますが、これは才能ではないのです。別のとき、つまり過去生で獲得されたものなのです。より良く人を愛することができる、または他の人より忍耐力があるといった場合でも「何をしなくてもただそこにある」天賦の才や才能ではなく、その人が過去生で取り組み、戦い手に入れたものなのです。そしてこの人もまた、別の属性に関してはこれから先獲得していく必要があるのです。ここには大きな違いがありますので一緒くたにしないようにしてください。才能や天賦の才、その他の持って生まれたものと属性を、厳密に分けるようにしてください!成長と浄化に必要なものはすべて、努力によって手に入れなければなりません。意志の力であっても、愛する能力、その他どのようなものも、天賦の才として差し伸べられるものではありません。お分かりいただけますか。
質問:最近人が話してくれたことなのですが、とあるスピリットが約350年もの間、暗闇と無知の場に追放され、ひどく切り離されていたようなのです。神の摂理とこのことはどのように一致するのか、酷い悲惨さや無知の状態にこんなにも長い間スピリットを留めておくことの意味は何なのかについて話し合いました。永遠という時の中で時間は、現世とはまた違ったものであることは分かってはいるのですが、納得が難しいのです。
回答:あなた方が時間と呼ぶものは、あちらの世界では次元が違っているという点では正解だと思います。ただ、それとは別に、今日のレクチャーですでにお話していることではありますが、あちらの世界であっても、地上での次なる人生であっても、すべての存在は自分自身が生きる場所、ないし領域を自ら築くものなのです。お話いただいたスピリットは、過去の人生で態度があまりに悪かったのでしょう。それでご説明いただいたような状態がこのスピリットの世界となったわけです。私はお話いただいたスピリットのことを存じ上げませんから、このスピリットに的を絞って話しているということではありません。私はすべてを知っているわけではありません。ある特定のスピリットについて皆さんがお話くださっても、それが誰であるのか自動的には分かりません。ただ一般的には、こういった状況に身を置いているスピリットは多くあり、地上でやっかいかつ無知な人生を送った経験が、一度といわず何度かあることも確かです。それによってスピリット界で悲惨な世界を現在も創り出している、もしくは過去に創り出したことがあるのです。そして態度を変える準備ができるまで、暗闇の世界で生きることになります。神でさえも、こういった態度の変化がいつ起こるのかを予測することはできません。各々の存在次第だからです。時には、ほんの些細なことがきっかけで、完全なる変化の道への扉が開くこともあります。他方で、より多くの苦しみを経験してはじめて変化へと至ることもあるのです。
多くの場合、あなた方人間にも同じことが言えます。ほんの小さな石が転がり始め、どんどん輝きが増し、次元が増長し、最終的に完全なる態度の変化が訪れるのです。
質問:神の使者は時々、こういった暗闇を訪れ、そこにいる存在たちに助けの手を差し伸べるとも聞きました。これはどういったことなのでしょうか。
回答:これは本当です。クリスマスやイースターなど、キリストの光がすべての領域に普段より強く解き放たれるとき(もちろん知覚の度合いにもよりますが)、神の使いはこういった暗闇を訪れます。この光の放出は態度の変化をもたらす可能性もありますが、その存在のレベルがとても低い場合、光のまぶしさによって痛みが生じるため、背を向けてしまうこともあります。とはいえ、すでに述べたことですが、暗闇を訪れる神の使いでさえも、単に光を発光したりはしません。そんなことをしては暗闇にいる存在たちにとってあまりに簡単になってしまいます。神の使いが何を話しているのか、意味は何なのか、そういったことに耳を傾け、気づくことを身に着けなくてはならないのです。レベルがあまりに低い場合、真実の言葉は聞きたくないものである可能性もあります。スピリットからの発言のすべてを疑い、どれも一緒くたにして投げ捨ててしまいます。なぜなら暗闇の存在たちのところには、邪悪な目的に誘い込もうと、実態のない暗闇の奴隷たちも多く訪れ、叶えられることのない約束をしていくからです。このため、暗闇の存在たちはスピリットというものすべてに不信感を抱いています。もしかすると、スピリットよりも人間から学ぶ可能性の方が高いかもしれません。
質問:こういった存在たちは大抵、態度を変えるまではさらに大きな苦しみを必要とするとおっしゃいましたが、今より苦しむことなどできるのでしょうか。
回答:苦しみには、あまりに多くの等級があるのですよ。暗闇に追放された存在たちはもちろん、ひとつどころに縛られ、暗闇の中に生きることを幸せだとは思っていないでしょう。しかし常に肉体的な痛みに苦しめられているとはかぎりません。つまり彼らがいる場所は、完全にルシファーのテリトリーというわけではないということです。ルシファーの世界の住人に、悪魔に仕えるのなら追放から救い出してやろう、その方が楽だよと約束され、その約束に夢中になってしまう可能性もあります。追放された場所を後にすることができるのは本当でしょう。しかし、その方が楽かというと、それは違います。不調和は増長し、すでに存在している悪よりもはるかに大きな悪を要求されることになるのです。そしてこの求めに応じられなければ、強烈な拷問にかけられ、苦しみは大きくなります。前にも触れましたが、このようにして神に近づくという例もあるのです。絶望の底で、神の方を振り向くのです。光の方向へふたたび向くための唯一の薬が、自らが創り出す苦しみであり、それが唯一の可能性であることは多いのです。ただこのような手段は、他に方法が何もない場合にのみ適用され、恣意的ではなく、スピリチュアルな法に従って創り出されます。それぞれの存在は、自らに必要なものを築き上げるのです。お伝えしたように、暗闇の世界に深く滑り落ちるほど、人が神の方に向き直る可能性は高まります。
質問:たとえばスピリットが、進歩を早めるために地上での人生に辛い運命を求めたとします。そして地上では自分が背負っている重荷に憤慨し、課せられた仕事を成し遂げないこととします。地上に転生する瞬間にスピリットの意図の記憶は失われてしまうということは、無駄に重荷を背負う可能性があるということだと思うのですが、そうなると一体、重荷を求めることにはどんな意味があるのでしょうか。
回答:第一に、重荷がそれほどでもない場合でも、人は同じくらい反抗するものです。より高く成長するために多くを背負うことに手を挙げなかった場合、重荷は幾度かの地上の人生に分散されることになります。重荷を背負う人の多くが、小さな荷物を背負っている人よりも反抗をしていないのに気づくことがあるのではないでしょうか。もちろん、重荷を切望したような場合でもそれ以外でも、目標を達成できないことはありますし、行き詰る可能性もあります。しかし、完全にではなくとも、重荷を背負うことで多くが清算され、急速な進化へと向かい成功することもあります。ただしこれは、大して進化をしていない人でも、正しい形で重荷を背負ってはじめて起こることです。こんなこともありスピリットは、より多くを清算するために頻繁に重荷を背負おうとします。適切な言葉か分かりませんが「さっさと終わらせよう」とするのです。とはいえ、たとえどんなに熱望したとしても、すべてのスピリットがこういった機会を与えられるわけではありません。
この分野を担当している神の世界の高い位のスピリットたちは、転生するスピリットが試練に耐えるだけのじゅうぶんな強さを持ち合わせているか判断することができます。もし強さが足りないと判断されれば、重すぎない量を背負うよう助言するのです。重荷を希望しても、拒否されることもあるということです。転生するスピリットが自分自身の能力を掴み切れていない場合でも、高い位のスピリットは正確にその能力を量ることができるのです。運命を達成する可能性が少しでもなければならないのです。あまりにも可能性が低い場合には、機会は与えられません。理解していただけるでしょうか。
今日お話ししたことについて深く考えてみてください。皆さんの歩みをいくらか助けてくれることでしょう。皆さんがそうしてくださることで、私たちも、自らの課題を達成することになります。「私たち」とはつまり、あなた方との接触や達成に携わっているのは私だけではないということです。私の課題は、あなた方に語りかけることであり、同時に私の友人であるスピリットたちは、それぞれに具体的な機能を果たす目的で共に働いているのです。とはいえ、こういったスピリットたちとの接触を実現するのはそう簡単なことではないわけですが。
お届けする言葉によって皆さんが、少しでも神に近づき、ご自身の真の現実、幸せや調和に近づくのだと知るとき、これは我々スピリットにとっての喜びです。救済への祝福を受け取ってください。この祝福が皆さんを貫きますように!神と平和のうちにあってください。神と共にあらんことを。
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